摂津国の境石

尼崎領


 尼崎領は川辺郡尼崎を本拠としており、松平忠喬が正徳元(1711)年に遠州掛川より4万石で入部し、以降幕末まで桜井松平家の時代が続きます。しかし、尼崎領内には多くの旗本知行地や他国の飛び領や公料、時代によっては一橋領や田安領などもあり、大阪防衛のためという名目でしょう、村ごとあるいは村を2分・3分して、領地が細かく切り分けられていました。

 なお、摂津国内では旗本 青山氏の知行地をよく目にしますが、これは尼崎先代の青山時代に、領主 青山幸成の遺言により、御家を継いだ長男 幸利が弟(次男 幸道3,000石・三男 幸正2,000石・四男 幸高1,000石)に分知した6,000石です。

 また、明和6(1769)年※1には、綿・菜種・灘の酒などで栄えていた、西宮・今津から兵庫津までの灘目(海沿い)を幕府に収公(上知)され、播磨国内に替地を与えられます。この時に石高は5,000石増えましたが、豊かな海岸沿いの村々を手放したため、財政は苦しくなったようです。

 神戸市教育員会の兵庫津遺跡第29次調査に於いて、兵庫津(神戸港の元となった港)の西口にあたる柳原惣門跡から、「是東尼」 「崎(ママ)領」(拓本を見る限り、「ア」「崎」は確認できず)銘の三面彫り領境石が、破却された状態で明治期の遺構・攪乱土から出土したと書かれています。

 兵庫津も天和3(1617)年から明和5(1769)年※2までが尼崎領で、収公(上知)され公料となりますが、尼崎領境石と思われるものの破片が明治期の遺構から発掘されたことから、「兵庫津柳原惣門現地説明会資料」(神戸市教育員会・2002/10/6 リンク先はPDF 6ページに掲載)では、「兵庫津が収公(上知)された以降も、現地に建ち続けたか、少なくとも存在し続けた」となっています。

 現在芦屋市三条の三条八幡神社にある尼崎領境石には、延享5(1748)年の裏銘が入っており、兵庫津の尼崎領境石と併せて考えると、尼崎領境石の一部は明和6(1769)年の灘目収公(上知)以前に建てられたもので、その村が尼崎領でなくなった明和6(1769)年以降も、横倒しにされ遺棄された状態でだろうとは思いますが、現地に残されていたものがあったようです。

※1 三条八幡神社 領境石説明版の記載 ※2 兵庫津柳原惣門現地説明会資料」(神戸市教育員会・2002/10/6)の記載
以降は、明和6(1769)年で統一します。
2023/02/01
 明和6(1769)年の収公(上知)は36ヶ村14,000石余となっていますが、検索しても一括で村名が出てきません。尼崎市のしかるべきところに聞けばわかるのでしょうが、教えてもらうとそれで「以上終了」になり、知識として根付きません。そこでその都度必要に応じて調べますが、どこかに書き留めておかないと忘れてしまい、同じ村について何度も調べなければなりません。

 以下は私の覚書として、確認した村名と、参考に幕末時の石高(小数点第2位を四捨五入)を記します。(確認次第追加しますが、私の研究の本質ではないため、すべてを網羅することは出来ません。)

 八部郡
兵庫津
4312.7石
神戸村
543.6石
二茶屋村
93.3石
走水村
33.9石
 菟原郡
芦屋村
659石
打出村
951.8石
深江村
631.3石
東青木村
172石
入組(相給)だが、小泉領は青木村として別記99石。
西青木村
219.1石
田中村
118.2石
横屋村
465.9石
魚崎村
230.5石
住吉村
821.3石
生田村
380.9石
味泥村
138.6石
御影村
( 662.9石 )
大和国小泉領との入組(相給)。尼崎領分は不明。
石屋村
248.7石
河原村
下総国古河領との入組(相給)。宝暦10年時点では尼崎168石。 
小野新田村
30.6石
岩屋村
221.7石
 武庫郡
西宮町
2484.3石
今津村
666.5石
越木岩新田村
236.6石

桜井松平家が尼崎に入部した際(宝永8→正徳元/1711年)に、尼崎領から公料になった26ヶ村
 (桜井松平家は、尼崎先代の青山家より、知行が8,000石少なかったため)

 八部郡
西須磨村
488.4石
東須磨村
1,024.9石
長田村
853.6石
後に古河領
西尻池村
294.1石
北野村
旗本片桐氏との入組(相給)。正保時点では尼崎188石。
中宮村
35石
宇治野村
173.4石
荒田村
339.5石
大手村
306.3石
板宿村
542.4石
 菟原郡
篠原村
288.9石
幕末の公料の石高尼崎・西川氏→尼崎領は公料→幕末は公料・古河領。
畑原村
157.5石
鍛冶屋村
88.5石
中尾村
226.8石
後に古河領→正徳3年に再度公料。
熊内村
705.5石
後に古河領→明和6年に再度公料。
 武庫郡
越水村
392.3石
 上ヶ原新田 
484.5石
公料となったのち、文政11年より尼崎・公料相給となり尼崎は305.5石。
神尾村
旗本平野氏と入組(相給)。寛文6年時で尼崎分67石。後に篠山領。


 その他のタイミングで、尼崎領から公料となった村(桜井松平家入部以降)
八部郡 
東尻池村
706.2石( 正徳3<1713>年)
菟原郡
大石村 
201.7石 (天明6<1786>年) 尼崎領は都賀村として239.6石残し。
 時期を確定できなかったが、尼崎領から公料になった村
八部郡
生田宮村
43.7石


川辺郡荒牧村 堂ヶ本
文 字
  三面に) 従 是 西 南 尼  領
 
                                堂ヶ本の左面          畦道の前面 (文字のない面を裏として) 

  
             左面                    正面/前面             (左は畦道石)  右面/裏面
場 所
現在は伊丹市荒牧3丁目の天日神社に、畦道の尼崎領境石と並んで。
備 考
この領境石は、是より西南が尼崎領であると主張しています。国立公文書館デジタルアーカイブから天保の摂津国絵を見ますと、川辺郡荒巻村北面の、

西側は中筋村の内 中筋下村(旗本渡辺氏知行地/宝塚市中筋)、

東側は同郡山本村(宝塚市山本南・長尾町/幕末時は一橋領)、

荒巻村の東は同郡山本村の内 丸橋村(宝塚市山本丸橋/幕末時は一橋領)

になります(いずれも若干の区画整理あり)。

近世以前の土木・産業遺産では、この領境石は荒牧村字堂ヶ本に建っていたとされています。兵庫県教育委員会のHPから伊丹市の社会科副読本「郷土を開く 伊丹市にある池のうつりかわり」(リンク切れ ページ番号85)を見ると、堂ヶ本池が宝塚市との境ギリギリにあり、同池は全域が伊丹市(荒巻)域であると描かれています。

堂ヶ本池の周辺が字堂ヶ本と考えるのが自然ですから、この池の北東角に領境石が建つならば、荒巻村の北面(東側)は山本村(もしくは丸橋村)、かつ東面も丸橋村域ですので、示すべき方角は「西南は尼崎領」になります。

ところが天保の摂津国絵図を見ると、荒巻村の北かつ池の南を、小濱町と丸橋村の間を結び道(赤線)が通じています。(この荒巻村北の池が堂ヶ本池と思いますが、ちょうど折り目になっており文字が潰れて読めません。元禄の摂津国絵図で見ても堂ヶ本池とは読めません。)

今昔マップから生瀬 明治42年測図 明治44年10月30日発行で見ると、堂ヶ本池の南岸を道が通っています。

角川日本地名大辞典の荒巻村(近世)欄には、「生瀬(西宮市)・小浜(宝塚市)から池田(大阪府)を経て、西国街道へつながる京街道が村の北辺を通り」と書かれており、上ノ池(現在は大阪芸術大学短期部/荒巻4丁目)の北岸から堂ヶ本池南岸を抜けている道が京街道に該当し、現在の長尾通りになると思われます。

なお、現在の長尾通りは道が付け替わっており、堂ヶ本池の北岸を通っていることになります。

本来の領境は堂ヶ池の北岸ですから、この領境石が建つべき場所は池の北東角、現在の荒巻7丁目16の先 長尾通り沿い(上のマーク/当時は道ではない)になりますが、多面彫りで自領のみを示す領境石は、街道上に建ち司法権・行政権を示すものと考えますから、堂ヶ本池の東南角の京街道上に建てられたはずで、現在の荒巻7丁目16地内(下のマーク/現在は道路ではない)に建っていたと推測します。

西の部分で折れ、補修。
サイズ
高さ 198×横 21×奥行 19(cm) 花崗岩       2023/02/01 編集済み

 生瀬から池田を経て、西国街道につながる京街道について
 ついでなので、角川日本地名大辞典の荒巻村欄に、「生瀬(西宮市)・小浜(宝塚市)から池田(大阪府)を経て、西国街道へつながる京街道が村の北辺を通り」と書かれているこの「京街道」を、国立公文書館デジタルアーカイブから元禄及び天保の摂津国絵図と、今昔マップから生瀬〜池田 明治42年測図 明治44.10.30発行を使い追ってみました。

 角川日本地名大辞典に従い、有馬郡生瀬村(西宮市)を起点とすると、

 生瀬の渡し(現在の生瀬橋のあたり)で武庫川を渡り、武庫郡川面村の内 出在家(宝塚市川面)〜

 川辺郡米谷村の内 六軒茶屋(宝塚市清荒神)〜同郡米谷村(宝塚市米谷)〜同郡小濱町(宝塚市小浜)〜

 荒巻村(伊丹市荒巻)の北辺を通り、

 同郡山本村の内 丸橋村(宝塚市山本丸橋)〜同郡山本村の内 口谷村(宝塚市口谷東・西)〜

 同郡加茂村(川西市加茂)〜同郡下加茂村(川西市下加茂)〜同郡小戸村(川西市小戸)〜

 順礼橋(呉服橋)で猪名川を渡り大阪府に入り、豊島郡池田村(池田市中心部)〜同郡尊鉢村(池田市鉢塚)〜

 今井橋あたりで箕面川を渡り西国街道と合流し、同郡瀬川村・半町村(箕面市瀬川・半町)に至ります。府県では兵庫・大阪にまたがっていますが、摂津国内で完結しています。
2023/03/01

川辺郡荒牧村 畦道
文 字
 三面に) 従 是 東 尼  領 
 
    
           左面/前面                     前面                    右面/裏面 (右は堂ヶ本石)
場 所
現在は伊丹市荒牧3丁目の天日神社に堂ヶ本の尼崎領境石と並んで。
備 考
この石は荒牧村字畦道に建っていたとされています(近世以前の土木・産業遺産)。荒巻2丁目6−6にあぜみち公園があり、この周辺が字畦道になると思われます。

こちらは「是より東」の銘ですから、国立公文書館デジタルアーカイブから天保の摂津国絵図を見ますと、荒巻村の西隣りは同郡安倉村(宝塚市安倉北/幕末時点は2/3が一橋領、1/3が田安領)になります。(同郡小濱町とも接していたか?)

多面彫りで自領のみを示す領境石は、街道沿いに建ち行政権・司法権を示すものと考えますので、今昔マップから瀬 明治42年測図 明治44年10月30日発行で見ると、こちらも京街道上に建てられたと考えるのが一番可能性が高そうです。(区画整理は考慮できませんが)現代の地図で見ると、この地点より東は、北は荒巻3丁目19・南は荒巻3丁目16ですから、京街道上ここから中筋との境となるまでの数百mは、完全に是より東は尼崎領になります。

面白いのは、荒巻村に於ける京街道は、荒巻村と中筋下村(宝塚市中筋)・山本村(宝塚市長尾町・山本南)の境界上を通っていますが、荒巻村の両領口だけは荒巻村単独領内となり、街道上に領境石が建つ環境になっています。


ここからは、一応検討しましたので、覚書程度に記します。

堂ヶ本池の領境石は「是より西南」を示していますので、荒巻村の北東角に建つと考えるのが自然ですが、畦道の領境石は「是より東」を示しており、荒巻村西面の安倉との境ならばどこでも該当します。

今昔マップから生瀬 明治42年測図 明治44年10月30日発行で見ると、安倉に向かって小径らしきものも見えます。こちらの道の方が現在のあぜみち公園近隣ですから、より字畦道のイメージに近い気もします。(明治時代の道はまだ車が走りませんので、鉄道が通った・橋が架かった等の事情がない限り、基本的に江戸時代から大きな変化はないと考えています。)

もちろん、ここにも領境石が建てられた可能性は0ではないでしょう。しかし、荒巻村には(脇)街道が通っており、街道上の領境が2点存在していました。荒巻村に何基の領境石が建てられたか、実際のところはわかりませんが、荒巻に複数の領境石が現存するとき、なにはさておき街道上の両領境には、必ず領境石が建てられたでしょう。

ここは私の持論ですが、多面彫りで自領のみを示す領境石は、街道上に建ち行政権・司法権を示すものと考えています。

それらを考えあわせると、現存する2基の領境石の示す方角が、街道に建てられた場合に示すべき方角とそれぞれ合致する時、荒巻村では、街道の両領口に領境石が建てられたと考えることに不自然はありません。


ついでに、事の経緯は私の管轄外ですが、明治22(1889)年の町村制施行に伴い川辺郡長尾村となったのは、山本村・平井村・中筋村・中山寺村(以上は現宝塚市)、荒巻村・鴻池村・荻野村(以上は現伊丹市)です(飛び地を除く)。

長尾村は昭和30(1995)年に一旦宝塚市に編入後、宝塚・伊丹の両市議会で境界変更を可決して、宝塚と伊丹に分村(正確な意味での分村ではありませんが)したそうです。現在の宝塚市南部が不自然にきれいに凹んでいる(凸部が荒巻・鴻池・荻野)のは、1つの行政単位として開発(道路の建設や、それに伴い道を限りとしての区画整理)された後に分村したからなのですね。




サイズ
高さ 185×横 21.5×奥行 20(cm) 花崗岩     2023/02/01 編集済み

川辺郡塚口村 (是より南石)
文 字
 三面に) 従 是 南 尼  領 
 

 
左面/前面       (文字がいない面を裏として)        前面/右面
場 所
現在は、尼崎市塚口本町2丁目の清水町福祉会館前に。
備 考
是より南が尼崎領ですから北が他領ということになりますが、国立公文書館デジタルアーカイブから天保の摂津国絵図を見ますと、川辺郡塚口村の北は、

同郡南野村(伊丹市南野・安堂寺・若菱町・柏木町/幕末時<以下同>は尼崎領・公料の入組<相給>)

御願塚村(伊丹市御願塚〜若菱町の一部/公料及び旗本3氏の四給)

猪名寺村(尼崎市猪名寺/99%が田安領)

清水村(尼崎市南清水町/公料・丹波篠山領)

などが該当しそうです。

多面彫りで自領のみを示す領境石は、街道上に建ち行政権・司法権を主張した境石と考えます。天保の摂津国絵図に描かれる塚口村から北へ繋がる一番顕著な道は、塚口村から南野村を経て昆陽村(伊丹市昆陽)へ至る道ですが、村境が南野村ならば、尼崎と公料の入組(相給)ですから、一面は「従是北 尼崎 他領 入組」と表記したでしょう。南野村は元和3(1617)年以降、相手はたびたび変わりましたが、一貫して尼崎の入組(相給)でしたので、南野村境(伊丹市南野・安堂寺・若菱町の西部・柏木町)ではないはずです。

天保の摂津国絵図には、上記の南野村を経て昆陽への道の他にもう一筋、塚口村の東側に岡院(ごえん)村との間から、猪名寺村・伊丹町の間ほどへ至る道が描かれています。この道が現在の県道13号線の元となるのでしょうが、北の猪名寺との境となるのは、今昔マップから伊丹 明治42年測図 明治44.10.30発行で見ると、このあたりを町村境( ― ・ ― ・ ―/同地図当時は立花<塚口>・園田<猪野寺>村境)が走っています。

上のマークですとで道が両村(領)境になり、是より南とは言い切れないので(オンライン)、往還上で完全に是より南が尼崎領となるのは、下のマーク(現在の塚口本町5丁目4先)になりましょうか。(塚口と猪野寺の間は、若干区画整理があっているとのことですが、明治42年測量は区画整理前と思われます。)
サイズ
高さ 166×横 21.5×奥行 18.5(cm) 花崗岩                    2023/05/01

川辺郡塚口村 (是より西北石)
文 字
 四面に) 従 是 西 北 尼  領 
         
              1面/2面      3面/4面      4面/1面           1面/2面

同一方角四面彫りで前後左右の判断がつかないため、仮に「ぎょうにんべん」の一画目がしっかり「ノ」になっているものを1面とし、反時計回りに2〜4としています。また、現在は個人宅の庭にありますので、なるべく個人を特定する情報を排除するべく、画像を切り出しています。庭で対象まで距離が取れない撮影環境から、左3枚の全景はスマホで撮影した画像を使っています。
場 所
尼崎市塚口本町1丁目の民家に。
備 考
私が知る限り、唯一四面彫りの尼崎領境石です。多面彫りで自領のみを示す領境石は、街道上に建ち行政権・司法権を主張するものだと考えますが、ではなぜ現存する多面彫りで自領のみを示す尼崎領境石のうち、この領境石だけが四面彫りなのでしょう?

私はこれは単純に、村(領)境がちょうど十字路等の、四方向から文字が読める環境に建っていたのだろうと考えます。三面彫りは領境となる道路脇に建ち、前を通り過ぎる人に自領を主張しますが、裏面は道路外を向いていますので、人目には触れません。しかし十字路等の角に建つならば、四方向から文字が読めるでしょう。

さて、東南(西北が尼崎領)の領(村)境が、四方向から文字が読めるのはどこになるでしょうか。国立公文書館デジタルアーカイブから天保の摂津国絵図を見ますと、

川辺郡塚口村の南は同郡上坂部村のうち森村(尼崎市南塚口町・東塚口町/旗本 船越氏知行地)、

東南に上坂部村(同市上坂部等/旗本 船越氏知行地)、

東に岡院(ごえん)村(同市御園/多くの変遷をたどり、文政11<1828>年に初めて尼崎領になる<上総国飯野領と入組【相給】>)、

同じく東(岡院村の北)に曼陀羅寺村(同市御園/領主はたびたび替われど、尼崎領になったことは一度もない)

が見えます。

まず、JR塚口駅は明治27(1894)年に摂津鉄道の駅として、川辺郡御園村に(再)開業したとされています。明治22(1889)年の町村制に伴い御園村となったのは、旧御園村(岡院村・曼陀羅寺村)・上坂部村・森村等ですが、塚口村は立花村となりましたので、JR塚口駅は塚口村域ではなく、上坂部村域に作られています。

その情報を踏まえて、今昔マップから伊丹 明治42年測図 明治44.10.30発行で該当の部分を見ますと、立花村(塚口)と御園村(森・上坂部・岡院・曼陀羅寺)の境界線(― ・ ― ・ ―)が見えますが、塚口村から上坂部・森方面の、二股に分かれた南口と、曼陀羅寺村(同地図当時は御園)へ向かう東口の2筋が描かれています。

南口(左のマーク)は、地図が粗くて村境の境界線が微妙ですが、森村への道と上坂部村への道のY字の二股の地点で、立花村が南に凸になっていて、ちょうどYの付け根が村境のように見えます。ここに建つならば、塚口2丁目の「是より南」石と往還(後の県道13号線)上で対となるものとして、「是より北」と表記するかもしれません。(領域全体を示すならば「是より西北」でもおかしくはない。)

東口(右のマーク)も村境(領境)あたりで、里道の聯路(明治の道路基準で、大雑把に言うと後の市町村道)がほぼ直角に曲がっており、そのコーナーの内側角に建てるならば、四面彫り効果がありそうです。こちらですと往還上の方角を指すならば「是より西」ですが、領域全体を示すならば「是より西北」と言えそうです。なお、現在は一帯が工場敷地となっており、この道は廃されています。

塚口村の西の東富松村・上ノ島村は、そもそも方角が合いませんが、尼崎領ですから領境石は建ちません。岡院村境に建つならば、文政11年以降は入組表記になります。岡院村が他領時代に建てられて、文政11年に尼崎の入組(相給)となった時点で撤去して、どこかで保存された可能性は残りますが、明治42年測図の地図で見ても、岡院村との間には直接の道がありません。

こうして見ますと、塚口村の南辺・東辺にはそれぞれ1基の領境石が必要と感じますが、「是より西北」石が保存されたお宅の2軒ほど隣りのお宅でしょうか、領境石らしきものが庭にある家があります。こちらはお正月だったこともあり、取材はかないませんでした。



道路から見た限りでは一面に「従是」と、画像ではわかりにくいですが、逆面にも文字が見えます。目視できる横面には文字がありませんので、最低二面彫り・最高三面彫りです。

ここまで書いてから、近世以前の土木・産業遺産の該当部に、私が確認していない石のことだと思われますが、「従是北尼崎領」が二面と「従是西北尼崎領」が一面の、二方向を指す三面彫りとされていることに気がつきました。これは私にとっては二次の伝聞情報になってしまいますので、これだけで判断するのは危険ですが、この情報に拠るなば、私が確認できていない二方向を指す石が上坂部・森境に建つものとなり、「是より西北」の四面彫り石は、曼陀羅寺村との境になる東口に建っていたものとなるでしょう。

もう一基の石に関しては、そもそも尼崎領境石なのかを確認できていませんので、原位置について確定さることはできません。また、この石が南口の領境石と推定できれば、天保の摂津国絵図に描かれた塚口村を通る往還の領境のうち、南野村との境にのみ領境石の痕跡がないことになり、同村(領)境に入組領境石が建っていた可能性についても検討しなければなりませんが、今はその時ではありません。

「是より西北」石を保護されているお宅では、正月にもかかわらず快く取材させていただきました。ありがとうございました。わざわざ九州から行きますので、無理を承知で盆・正月にチャイムを鳴らしますが、見学させていただけるか、結構ドキドキしています。
サイズ
高さ 190×横 20×横 18(cm) 花崗岩
本来地中に入る粗削り加工部分が露呈しており、この部分を除いた高さも測らなくてはと思っていたのですが、家主さんとの話に夢中になり、計測を忘れてしまいました。本来の領境石の高さとしては‐10〜15cmになると思われます。
2023/06/01

 象徴境石と実務境石
 尼崎が建てたと思われる領境石には、以下の3パターンを見ることが出来ます。

 @ 多面彫り(三面もしくは四面彫り)で尼崎領のみが彫られる。

 A 二面に尼崎領と、尼崎領の逆方角を指して、尼崎と他領の入組であることが彫られる。
     小松津門現三条小路(方角は確認できず)

 B 一面に尼崎領・他の面は「他領」と彫られる。
     西川

 @の多面彫りで自領のみを示す領境石は、街道の領口に建ち、行政権・司法権を主張するものであると考えています。 荒巻畦道の領境石を例にとると、西は他領である安倉村になるのですが、西川石のように「西は他領」とは彫られず、三面に「是より東は尼崎領」と彫られています。これは、この領境石の目的が、紛争の結果(紛争に備えて)領境を確定させるものではなく、街道を歩く人に「ここからは松平 遠江守様のご領内」であることを知らしめるためのものだからと考えます。

 私はこれを街道上に建つ「象徴的な境石」と呼んでいます。


 一方、一例しかありませんがBの西川の領境石は、「東は尼崎領」と同時に、「西と北は他領」であると明確に彫られています。街道上で行政権・司法権を示すためならば他領を彫る必要はなく、というよりも他領は他領で自領を主張するために領境標を建てますから(公料の場合、木柱だったため現存していない)、「明石領 姫路領」等の並記はありえても、わざわざ「他領」を彫る必要はありません。

 西川の領境石に「是より北(または西)他領」と彫られているのは、「ここから東は尼崎領」を主張すると同時に、自領民に対して「是より北と西は他領であるから、紛争を起こさないように」と釘を刺しているものだと思われます。

 私はこれを、紛争の結果(紛争に備え)建つ「実務的な境石」と呼んでいます。


 では、Aの入組が書かれたものはどうでしょう? これはBの類型ではなく、@のバリエーションであろうと考えています。

 例えば東に尼崎単独領のA村があり、西に尼崎と他領の入組(相給)であるB村があるとした場合、A村の街道上の西はずれに三面彫りで「是より東は尼崎領」と表示すると、B村の自領(入組)を否定してしまうことになりかねません。

 尼崎と他領が一村を分け合うことについては、坪分け(領地区切り)ではなく入組(民居入り交じり)となっていますので、村の中で尼崎領と他領の線引きをしてあるわけではなく、この農家は松平様・こちらの農家は何々様と、それぞれが持っている石高になるように、農家一軒ごと(時には一軒の農家が半々)に分けられており、字や組では分けられていなかったはずです。

 相給の行政権の行使については、多くの例がありそれぞれ違うとしか言えません。片方がほんの数石しか持たない場合は、もう片方に委託してしまう場合もありますし、例えば五給・六給だったある村では、最終的な処分は各領主の裁量ですが、そこに至るまでの事務は、月替わりでそれぞれの代表(名主)が務めています。

 しかし尼崎の持つ入組は、それぞれが結構な規模で、本拠地尼崎に近い摂津国内であり、近隣に尼崎単独領の村もありますので(大庄屋や郡奉行の存在)、尼崎の持ち分に関しては尼崎が行政を執り行っていたでしょう。

 それならばA村とB村の境には領境はなく、表現が正しいかはわかりませんが、東ははっきりとした尼崎領ですが、西もふんわりとした尼崎領であり、紛争に備えて尼崎領と尼崎領(の入組)の境を主張するのはおかしな話しです。それでも村同士の境争いが起こる可能性はないわけではありませんが、もし境界争いが起こる(種がある)ならば、村境石を建てて対処したでしょう。

 そう考えると、Aの領境石は街道上に建ち、ここから東は松平 遠江守様ご領内であることを示し、かつ西にも明確な線引きは出来ませんが、尼崎の行政権が及ぶことがありますよという表記をしたのでしょう。

 街道上に建つならば、通常(三領境等の複雑な条件がない限り)は「他領 入組」は、必ず尼崎領の逆方向を指すことになります。(紛争防止<予防>のために建てるならば、西川石のように必ずしも二方向だけが領境になるとは限らない。)
2023/07/01

川辺郡西川村
文 字
 前面) 従 是 東 尼  領
 右面) 従 是 北  領
 裏面) 従 是 西  領

前面

  
 前面/右面         (自領表示を表として)           裏面/左面 
場 所
現在は尼崎市西川2丁目の西川八幡神社に。
備 考
「佗」は「他」の異字体。

現地の説明版には、川辺郡西川村の西の次屋村・浜村、南の定光寺村と関連付けて解説されています。また中国街道にも触れられていますが、中国街道は大阪と西宮を結ぶ街道です。神崎の渡し(現在の神崎橋より若干上流/尼崎市神崎町)で神崎川を渡り、川沿いの道を南へくだり、西川1丁目の交差点で県道191号線と合流します。(今昔マップから大阪西北部 明治42年測図 明治44.10.30発行に中国街道の掲載あり。)



この領境石は、是より東が尼崎領で、西と北が他領だと主張しています。常光寺村(尼崎市定光寺)は他領(大和国小泉領)ですが、西川村の南になるので方角が合いません。西は浜村(幸道系と幸正系青山氏の相給/同市浜)と次屋村(幸正系青山氏知行地/同市次屋)で、北も次屋村との境になります。

少し話は変わりますが、私は今まで散々「文字がない面を裏面とすると」と、それは仮定の話であると書いてきました。「必ずしも文字がない面が裏だとは思っていない」とも書いた記憶があります。その文字がない面が裏ではない代表が、この西川の尼崎領境石です。

西川の尼崎領境石の、文字がない面の逆面は「従是北佗領」となり、文字がない面を裏面とすると、正面は他領を指していることになります。それはおかしな話で、この領境石の正面は、あくまで尼崎領を主張して建っていたはずです。よって、「従是東尼ア領」が表(前)面となり、北と西は他領であることを示したが、南は示すべきものがなかったので空白になったということになります。

また私は、多面彫りで自領のみを示す領境石は、街道上に建ち、行政権・司法権を主張するものだと思っています。そうであれば、この自領と他領を明確に仕切る領境石は街道上ではなく、紛争が起きそうな(起きた)領境に実務的に建てられたと考えられます。

さて、それはどこでしょう? 説明版には字樋ノ口にあったとされていますが、その字名を現代の地図からは追えません(尼崎市の図書館に行けば、何らかの資料はありそうですが)。「樋の口」ですから、神崎川もしくはもっと上流から導水されており、その取水口もしくは西川村に於ける最上流部の地名のイメージです。

今昔マップから大阪西北部 明治42年測図 明治44.10.30発行を見ると、次屋砂子から繋がるこの黒の実線クリークでしょうか? 確かにこの東で現在も西川2丁目25が次屋(他領)と神崎(尼崎領)の間に突き出ています。領域が凸凹するというのは紛争の種になりかねません。

仮に西川2丁目25と次屋4丁目6番の間に建てられたとしたならば(原位置を確定するものではありません)、「尼ア領」は西の次屋を向き、「西 佗領」が自領(東の西川)を向いて建っていたのでしょう。そうすると、西は次屋(他領)で、東は西川(尼崎領)で方角が合いますが、南北はオンラインになってしまいます(上のラインに合わせると、東が領線上となり「東は尼崎」と言えなくなる)。

自領民に対して「北はこの十数メートル先から他領(次屋)なので、紛争を起こすことがないように」と注意喚起し、南は「十数メートル先からは尼崎(西川)になりますが、ここ十数メートルは領線上ですので、是より南は尼崎と主張するのは遠慮します」ということでしょうか。


さて、この石を初めて見た時の感想は、「従是東」の3文字に比べて、「尼ア領」の3文字が詰まっているなという点でした。公開順では先になりましたが訪問順では一つ後の、塚口本町2丁目の尼崎領領境石でも同じ感想を抱きました。


  塚口本町2丁目        西川         塚口本町1丁目

もしや同じ人の手(筆跡)なのではと、塚口本町1丁目の尼崎領境石も含めて3基を並べてみましたが、どうでしょう?

塚口本町1丁目の「西北」石は方角が一文字増えるのですが、逆に「尼ア領」の各文字間にも余裕があるように見え、全体のバランスがよく感じます。書かれたのは藩の祐筆なり文字を書く立場の方でしょうから、200年後の筆跡はIMEが作る人にあれこれ言われたくはないでしょうが。

細かな点は挙げませんが、この3基の文字は全体的によく似ており、私はこれを同じ人が同じタイミングで書いた文字として問題ないと思います。(従の一画目が「ノ」だったり「、」だったりするのは、別の項で書きます。/書くつもりでしたがまだ書けていません。)
サイズ
高さ 168×横 19.5×奥行 19.5(cm) 花崗岩
説明板には全長が240cmであると記されており、地中部が70cmほど(1/4強は地中部)あることがわかります。
2023/07/01

武庫郡段上村
文 字
 三面に) 従 是 東 北 尼  領
 
左面/前面

 
前面/右面の上部     (文字がない面を裏として)     正面/右面の下部
場 所
現在は、西宮市段上町の水天宮敷地に。
備 考
現地説明版によれば、「昭和37年に、西廣寺の庫裡新築工事中に地中より発見された」とのことで、「隣りの上大市村は旗本領(幕末時点では青山三之助知行地=三男 幸正系)だったので、百聞樋川石橋の西、段上と上大市の境に建っていたものであろう」と書かれています。

段上と上大市の境かつ百聞樋沿いとなると、西国街道上段上村の東南角となる、段上町8丁目1−32−2の先となりますが、段上町の南側はJの字に上大市に囲まれており、この場所から「東北」は上大市(5丁目)を指してしまいます。

今昔マップから甲山 明治42年測図 明治44.10.30発行で見た東(右)のマークになりますが、この位置に建てるならば、示すべき方角は「北西」、最大限譲っても「北」となるでしょう。

一方、西国街道上段上町の西南角となる段上町8−1−48先、西(左)のマークの地点に建てるならば、北西方向は上大市(3丁目7)となるため、是より東北(北東)は尼崎領(段上村)との表記になります。(区画整理は考慮できませんが、区画整理があったとしても、道を限りとして程度でしょう。)

繰り返しになりますが、西国街道段上村の東南角(右のマーク)ならば、示すべき方角は「北西もしくは北」、南西角(左のマーク)ならば「北東(東北)」、その中間ならば「北」となります。(東南角より北側ならば、「是より西」。)

多面彫りで自領のみを示す領境石は、街道上に建つと考えていますが、西国街道上「東北」と表記できるのはピンポイントでここしかなく、西宮方面から街道を北上してくると、最初に段上村(尼崎領)となる地点ですので、私はこちらの方が可能性が高いと考えます。ちなみにこの場所ですと、街道がクランク(西国街道はずっと段上と上大市の境を走る)しており、この領境石は街道上に建つが、街道上の領域を示しているわけではないことになります。

西国街道上の逆の領境にも建っていておかしくはないですが、上大市にJの字状に囲まれていますので、逆の領口も上大市村との境になり、段上町7−5−28先に「是より西」でしょうか。

国境石・領境石の多くが2つ・3つに折られ、補修された状態で現在に残っています。これは、明確な証拠は提示できないのですが、旧来の秩序を否定したい明治新政府の指示によるものだと考えています。破却されなかったものも、一度掘り起こされて遺棄されたのでしょう、原位置にあっても本来地中にあるべき部分が露呈したりしています。

一方で、破却するのは忍びないと考えた人々によって、個人宅の庭先等に移され保護されたものも多数あり、それらは完品として現代に残っています。段上村の「是より東北」領境石は西廣寺の敷地内より発掘されており、これは新政府の指示には逆らえないが、壊すのは忍びなかった人(たち)によって、寺という公の場に埋め隠されたのではないでしょうか?

もう一基(是より西石)が存在していたとするならば、西廣寺の敷地内のどこかに埋まっている可能性もあるのかもしれません。

百聞樋に関しては、聞きかじり西宮歴史散歩 百聞樋をたどるを参考にしました。
サイズ
高さ 163×横 21×奥行 17(cm) 花崗岩                          2023/08/01

武庫郡小松村
文 字
               尼
 左) 従 是 西       入 組 (組は糸の小が三点となる異字体) 
               
 前) 従 是 東 尼  領
 右) 従 是 東 尼  領
  
前面/右面      (文字がない面を裏として)      左面/裏面
場 所
現在は西宮市小松南町の岡太神社境内に。
備 考
小松南町(武庫郡小松村)の尼崎領境石は、「是より西」が尼崎領と他領の入組となっており、津門西口町(同郡津門村)の尼崎領境石は、「是より東」が尼崎領と他領の入組となっています。両村の位置関係から、その間に入るのは同郡鳴尾村か今津村です。上田新田村(篠山領/上田各町)と小松村は、東西ではなく南北の関係になると共に、街道上では境を接していません。

鳴尾村は公料と篠山領の入組(相給)から、明和6(1769)年に篠山領分が収公(上知)され、全村が公料となっています。鳴尾村は一度も尼崎領になったことがないので、鳴尾村との境は尼崎領の入組という表記にはなりません。

鳴尾村の枝村だった小曽根村が尼崎領ですから、鳴尾村と小曽根村で鳴尾村とし入組だったとも考えてみましたが、角川地名大辞典では小曽根村は「寛文9(1669)年の検地帳では一村として扱われており、この頃鳴尾村から独立したと考えられる」とされています。

松平家が尼崎に入部したのが正徳元(1711)年ですので、尼崎領境石が建ったのはそれ以降と考えられ(唯一建立年が書き込まれた現三条の領境石延享5<1748>年の銘)、その時期に鳴尾村と小曽根村を一村と考えるのは難しそうです。小曽根村もまた多くの枝村(飛び地)を鳴尾村内に持ちますが、これらをしても鳴尾村が尼崎の入組だったというのには無理がありそうです。(鳴尾村内の小曽根村飛び地は、鳴尾村域ではなく小曽根村域。)

一方「今津村」として考えると、尼崎単独領から明和6(1769)年に収公(上知)となりますが、同村には今津浜村(今津村南組や下今津とも)という枝村があり、こちらが旗本 伏屋氏の知行地でした。今津浜村は今津村の内という扱いだったのでしょう、今津村(今津北組/享保20<1735>年摂津国石高帳248石余)と今津浜村(今津南組/同石高帳312石余)を合わせて今津村とし、尼崎と旗本 伏屋氏の入組(相給)ということになり、両者ともに明和6(1769)年に収公(上知)されています。

よって、この入組は今津村を指します。

天保の摂津国絵図で見ると、今津村・鳴尾村共に多くの枝村がありわかりにくいので、西宮市のにしのみやデジタルアーカイブから慶長10年摂津国絵図で当該地域を見ると、小松村と津(異字体が使われています)門村の間で、中国街道を挟み2つの今津村が見えます。北(上)が今津村(今津北組)で、南(下)が今津浜村(今津南組)となるのでしょう。

さて問題は、小松村と今津村が中国街道上で境を接していたのかというところです。慶長10年摂津国絵図で見る限り、小松村と今津村が枝川を境としていてもおかしくはないと感じますが、現代地図で見ると、小松各町と今津各町の間には甲子園各町があり、直接は境を接していません。甲子園各町の大部分は鳴尾村域のようです。しかし、新地名なので複数の村域にまたがる可能性があると思うのですが、甲子園各町に小松村域が含まれるという記述を見つけられていません。一方、今津村は一部が甲子園町域となったようです。

現在のところ、中国街道上小松村の西端は学文殿町まで、今津村の東端は今津上野町・今津曙町までしか確認できておらず、両村の端がどこにあったのか、そもそも境を接していたのかは調べきれていません。しかし、この小松村の尼崎領境石は、小松村(下に追記していますが、もしくは小曽根村)と今津村は街道上で境を接していたと主張しています。もしくは鳴尾村に、あらゆる記録に残らずひっそりと、尼崎領域があったことになります。

今昔マップから 西ノ宮 明治42年測図 明治44.9.30発行を使い、一応考えられるのはここなのかなというかなという場所です。(西宮市甲子園五番町12先)

小松・津門の尼崎領境石は「今津村は尼崎と他領の入組である」と明記されていますので、この両領境石は明和6(1769)年でお役御免となり、その後には多面彫りで尼崎領のみを示す領境石が建ったはずです。収公(上知)され失った村に対して、「そちら側にも尼崎領が混じる」なんて表記を街道上に掲げ続けるなんて、松平庶流の家とはいえ、とてもじゃないですができないでしょう。大げさに言えば、それは収公(上知)に対する不満の表明と取られても仕方がありません。

もし現地に建て続けるならば、少なくとも「尼ア領 入組」は削らなければならないでしょう。お役御免となり別の場所で保存されていたからこそ、明治になって破却を免れたのかもしれません。

なお、小松村(小曽根村の可能性もあり)は西が入組(明和6年以降は他領)に対して、中国街道上 東は尼崎城下まで連続して尼崎領です。

2023/10/1 追記
上記で尼崎領である小松村と入組の今津村が中国街道上で境を接していたとしていますが、各時代の地図を見ますと、小松村よりも小曽根村の方が中国街道上に限らず今津村と隣接していそうです。

そこで、入組である今津村と中国街道上で境を接していたのは、小松村ではなく小曽根村だった(原位置は甲子園五番町12先で変わらず)が、収公(上知)後は不要になり小曽根村域領境の近くに遺棄されていた入組領境石を、どこかの時点で小松村の村人が保護し、小松村域に運び込んだ可能性についても記しておきます。

現三条八幡宮の入組領境石欄で一つの可能性として書きました、深江村の収公(上知)以降も原位置近くに遺棄されていたものを、近世以前のいずれかの時点で三条の村人が保護したパターンです。(三条の境石ページの公開と合わせるために、この部分を追記として一ヶ月遅れで公開しました。)

しかし、深江村は収公(上知)されて尼崎領ではなくなっていましたので、三条村の村人が尼崎のものとして権利を主張できたにしても、小曽根村は廃藩置県まで尼崎藩領でしたので、小松村人が小松村に曳いて行くのには、小曽根村との話し合いが必要だったでしょうし、それならば小曽根村域で保護するという話に落ち着きそうな気もします。

いずれにしろと小松南町の入組領境石は、中国街道上の今津村境に置かれたもので、原位置は甲子園五番町12先になるのではないかと考えていますが、ここが小松村域なのか小曽根村域なのは古地図を探せばわかることですので、いずれの機会か当地を訪れて調べてみたいと思います。

ちなみに角川地名大辞典の小曽根(近代)を見ますと、甲子園1〜4番町には小曽根村域が含まれるとなっていますが、肝心の五番町については言及がありません。これが原位置を小曽根村域と言い切れなかった理由の一つになっています。また、同辞典の鳴尾(近代)では甲子園1〜9番町(の一部)は鳴尾村域だったとされています。
サイズ
高さ 164×横 21×奥行 22(cm) 花崗岩             2023/09/01  2003/10/01追記

武庫郡津門村
文 字
              尼
 左) 従 是 東      入 
                
 前) 従 是 西 尼  領
 右) 従 是 西 尼  領

前面/右面 (文字がない面を裏面として)

  
左面                       前面                       右面/裏面
場 所
現在は西宮市津門西口町の津門神社に
備 考
小松の尼崎領境石欄で書きましたように、小松村(もしくは小曽根村)と津門村の間にあった入組(相給)は今津村です。

津門の各町と今津の各町は、道を限りに区画整理はあっているかもしれませんが、ほぼ村域をそのまま引き継いでいるでしょう。津門(北)と今津(南)は中国街道を境に南北(上下)に接しており(オンライン)、中国街道上で是より西が完全に尼崎領と言えるのは、今昔マップから西ノ宮 明治42年測図 明治44.9.30発行で見ると、このあたりでしょうか。現代の住所では、西宮市津門宝津町10もしくは11先になります。

一方、津門村の西隣りは西ノ宮町ですから、明和6(1769)年以前は領境ではありませんが、収公(上知)後は領境となり、津門村は中国街道上で東西とも領境がある村となります。今昔マップから西ノ宮 明治42年測図 明治44.9.30発行で見ると、西宮町と今津村の町村境が引かれており、中国街道上の境界はマークの位置になります。現在の染殿町はほぼ西宮町域だが一部津門村域が含まれるとのことですが、ここは明治42年時の村境が、現在も町丁境です。

明和6(1769)年以降は、西宮市津門川町1もしくは2の先に「是より東尼崎領」石が、上記の津門宝津町10もしくは11先には「是より西尼崎領」境石が建っていたはずだと思うのですが。

さて、津門村の領境石は、前面と右面(文字がない面を裏として)が同じ「従是西尼ア領」銘ですが、上の画像で確認してもらうとわかりますが、両者で文字のイメージがかなり違います。一番顕著なところを一点だけ示すと、尼の「ヒ」です。



前面のヒは曲げが丸いですが、右面のヒは角ばっています。この両面の文字の違いは一目見てわかるほどで、もしや左右で書き手が違うのかと、正月二日の朝、現地で20分くらい文字を眺め続けましたが、今のところは、手本などを置かずフリーハンドで石柱に「エイヤ」と墨書した結果だろうと考えています。

また、尼崎市内の尼崎領境石3基は筆跡がよく似ていますが、小松村と津門村の尼崎領境石は、中国街道上今津村を挟み近接するものですが、手がまったく違います。
サイズ
高さ 180×横 22.5×奥行 23(cm) 花崗岩                          2023/09/01


 東灘区・芦屋市の収公(上知)による尼崎領の移り変わり
 神戸市東灘区・芦屋市の尼崎領境石について書く前に、まずは明和6(1769)年の灘目収公(上知)による同地域の尼崎領の移り変わりを確認しておきたいと思います。

 国立公文書館デジタルアーカイブ天保の摂津国絵図を、菟原郡境から住吉川の範囲で見ますと、同地域には枝村を除き、

 打出村・芦屋村・津知村・三条村(以上現芦屋市)

 森村・中野村(明和6年以前も明和6年以降も尼崎領と公料の入組<相給>)・小路村・田辺村・北畑村・岡本村・野寄村・深江村・東青木村(明和6年以前は大和国小泉領との入組<相給>)・西青木村・魚崎村・横屋村・田中村(以上現神戸市東灘区)

 の17村が確認できます。収公(上知)以前は、菟原郡境〜住吉川の範囲の、これらすべての村が尼崎領(中野村と東青木村は入組<相給>)だったわけですが、打出村・芦屋村・深江村・東青木村・西青木村・田中村・横屋村・魚崎村が収公(上知)され尼崎領から外れ、海には面していない三条村・津知村・森村・小路村・北畑村・田辺村・岡本村・野寄村、そして入組(相給)の中野村が尼崎領として残ります。

 尼崎領として残った村のうち、三条村だけが西国街道上には村域を持たず(明治17<1884>年の三条村誌<リンク先はPDF 7/24枚目 P127>にも三条村内の道路として旧西国街道の言及はなく、「津知街道」と「森街道」のみ記載)、他の村は西国街道上に村域を持っていました(本山村誌から引用された明治時代の本山村の字図による各大字が、江戸期の村域と変わらないとして)。

 また海際の村を収公(上知)されていますから、西国街道沿いはすべて公料となっており、尼崎領域は残っていません。

 なお、菟原郡境以西を見て来ましたが、打出村は菟原郡の東端になりますので、打出村の東側も確認しておきます。

 打出村の東隣りは武庫郡 越木岩新田村(西宮市の夙川以西かつだいたい久出川以北)・西ノ宮町の内 守具村(同夙川以西かつだいたい久出川以南)になります。越木新田村・守具村の東は夙川を挟み越水村・西ノ宮町となり、西ノ宮町と津門村の境はすでに検討済みです。

 越水村は、桜井松平家入部の正徳元(1711)年に、先に尼崎領から公料となりましたが、西ノ宮町〜芦屋村までは明和6(1769)年に収公(上知)されており、越木岩新田村・守具村とも収公(上知)前は、周りの村と共に尼崎領の村です。越水村と越木岩新田村の境は、正徳元年〜明和6年まで公料と尼崎領の境になりますが、夙川を間に挟むとともに主要街道沿いではありません。(西が尼崎領となり、また越水村は入組<相給>ではないことから、現存する各領境石とは表示が合わない。)

 そして、収公後は周りを公料に囲まれた公領の村々です。よって収公前後ともに尼崎領境石が建つ環境ではありませんので、以降は菟原郡境(芦屋市境)から西を検討します。
2023/10/01 

現 三条八幡宮
文 字
 左) 従 是 東 尼  領
 前) 従 是 東 尼  領
              尼
 右) 従 是 西       入 (以下不明)
              
 裏)        延享五年
 
前面/右面(文字のない面を裏として)

   
左面上部                    左面下部                   裏面
場 所
 現在は、芦屋市三条町の三条八幡神社に。
備 考
 この領境石の裏面に記された延享5年は1748年ですから、明和6(1769)年の収公(上知)以前の設置になります。よって、以下はすべて収公(上知)以前の領域での話になります。

尼崎領三条村(芦屋市三条町・三条南町)が西面(これより西が入組)で接するのは、北から南まで尼崎領森村(神戸市東灘区森北町・森南町・本山町森)ですから、この入組領境石は三条村に設置されたものではありません。(明治17<1884>年の三条村誌<リンク先はPDF 6/24枚目 P124>)に、明治の三条村域として「東は芦屋村の山岳及び耕地に接し、西は森村に界し(以下略)」と記載あり。)

ではどこから持ち込まれたのでしょう?

あまり遠くからは曳いていないでしょうから、菟原郡境から住吉川までの範囲で、延享5(1748)年時に尼崎領と他領の入組(相給)だったのは、中野村(公料との入組/神戸市東灘区本山各町の東部)と東青木村(小泉領との入組/神戸市東灘区青木各町の東部)になり、西が入組ですから、尼崎領森村(後述通り、深江村は西国街道上で中野村と接しておらず、中野村と接していたのは西国街道の北沿はもちろん、南沿いも森村です)の入組である中野村との境、もしくは尼崎領深江村(神戸市東灘区深江各町・本庄町)の入組である東青木村との境からだろうと検討してみます。

この領境石は現在は三条の八幡神社にありますが、その前は三条の個人宅に建っていたとの情報があります。もし森村に建っていたものならば、明治維新までは現役として中野村との境に建っていたはずですから、それ以降に一貫して行政区域の違う、三条に持って行く理由を説明できません。森村の日常的な管理(抱)だったはずですから、明治以降不要になったとして、あえて三条へ運ぶならばそれなりの経緯が必要です。(例えば三条の人が対価を払って引き取ったとか、森村域の人が引き取ったが、その後に三条の人へ譲り渡したとか。)

一方、深江村の東青木村境に建っていたものを、明和6(1769)年の収公(上知)の際に引き揚げてきたもので、その後も尼崎領域に残る村へ運び込んだと考えるならば、津知村の方が近く、津知村を越えてあえて三条村に曳いていく理由(例えば三条村に大庄屋があったとか、津知村も収公されそうだったとか)が見当たりません。

なお、芦屋市清水町の古美術店前に、「従是東 尼崎(現認していないため、ア・崎の確定は出来ません)領」が2面・「従是西 尼崎領 佗領 入組」が一面の尼崎入組領境石が、(古美術店の商品として)建っていたとの情報があります。私も一応粗い白黒写真では確認しましたが、こちらには建立年がないことから、現三条の入組領境石とは別の物です。

こちらの領境石は現在行方不明とのことですが、現三条の入組領境石と一時清水町にあった入組領境石の、どちらかが西国街道上 深江村の東青木村境に建っていたもので、もう片方が西国街道上 森村の中野村境に建っていたものと考えることに矛盾はないでしょう。(この地域で、西が入組になる主要街道上の領境は、その2ヶ所しかない。)

西国街道上 深江村の東青木村境の領境石は、区画整理は考慮できませんが、現代の地図では神戸市東灘区深江本町4−2もしくは4−3の先に建っていたのでしょうか。今昔マップから御影 明治43測図 明治44.10.30発行で見ると、このあたりになりそうです。(明治期の本庄村の字図で見た字踊松に該当か?/踊り松地蔵は深江本町3−4に。)

深江村は明和6(1769)年の収公(上知)以降は尼崎領ではなくなり、ここに領境石が建っていたならば、明和6年でお役御免になります。


西国街道上 国道2号の北側は、現在の住所では森南町3丁目1(本山村誌から引用された明治時代の本山村の字による字では森字林開地)と中山中町1丁目11(同中野字籾取)が領境になります。(下図の「●従是西 尼ア領 佗領 入組」とした地点。)

一方、国道2号の南側を現代地図で読み込むと、本庄町3丁目9と中山南町6丁目10が、尼崎領深江村と入組(相給)の中野村の領境だったように錯覚します(下図、「現在の本山南町と本庄町の境」とした地点)。しかし、明治時代の本山村の字図を見ますと、中野村(同字図当時は大字中野/以下同)の字串田と長者田、及び森村の字大町と長田が、西国街道(国道2号)を南に越えて、現在の本庄町側に張り出しています。

確認ですが、今昔マップから御影 明治43年測図 明治44.10.30発行を見ると、明治期の旧西国街道は今の国道2号とまったく同じ場所を通っています。日本に初めて自動車が輸入されたのは明治31年ですが、本格的に国内を走り出したのは大正になってからですから、明治末期の道路はまだ江戸時代の道と、鉄道が通った・橋が架かった等がない限り、さほど変化がないと考えています。(=江戸期の西国街道は国道2号と同じ場所を通っていた。)

それらを現代地図に落とし込むと、中野字串田が本庄町3丁目8・9あたり(明治時代の本山村の字図で見た、串田の西国街道を挟んだ北は中野字籾取だが、国道2号籾取交差点は本山中町1−11先)、中野字長者田が本庄町3丁目7・10あたり、森字大町が本庄町2丁目11・12(本庄町2丁目9・10・13はほぼ大町で、一部長田が混じるか?)、森字長田が本庄町1丁目11・12・13あたりに該当しそうです。(江戸時代の村境は当然このような直線ではありませんが、道を限りにの区画整理は考慮していません。●に領境石が建っていた証拠はなく、建つべき場所を推測したものです。東<右>の●従是西尼ア領については、次の現芦屋市美術博物館石で触れます。)


出展 地理院地図

よって、深江村は西国街道上では中野村とは接しておらず、中野村と境を接していたのは、西国街道を挟み南北ともに森村です。これは字図がないと見落としてしまい、収公(上知)以前の西国街道南沿いでは、尼崎領深江村と入組(相給)である中野村の村境だったとして、領境石が建つべき場所を間違えてしまうところでした(その場合は、「●従是西 尼ア領 佗領 入組」とした地点が、是より東は完全に尼崎領と言える場所となったでしょう)。字図を残してくださった先人に感謝。

しかし上図のように、西国街道上で森村と中野村の境と言える地点が2ヶ所あります。「●従是東尼ア領」とした地点では、「是より東は完全に尼崎領」域ですが、西はオンライン区間となりますので「是より西は尼崎領と他領の入組」とは言い切れません(西国街道北側は森字林開地)。一方、「●従是西 尼ア領 佗領 入組」とした地点では、「是より西は完全に入組」ですが、東側はオンライン区間になり「是より東は尼崎領」とは言い切れません(西国街道南側は中野字長者田)。

このような場合、尼崎が領境石を建てるならば、「ここからは完全に尼崎領」と言える場所に建てるでしょうから、「従是東尼ア領」とした地点に建てたのではないかと推測します。


現三条・一時清水町にあった両領境石の、どちらがどちらに建っていたものなのか、確定的なことを判断できる資料は私の手元にはありません。しかし、散々文化財の「盗られた・保護した」、「原位置に戻せ・ここにあるのには正当な根拠がある」を見てきましたが、この地域でそのような話を聞きませんので、明治になって森(本山村→神戸市)から一貫して行政区域の違う三条(精道村→芦屋市)に運び込まれたと考えるよりも、収公(上知)の際に、深江村からその後も尼崎領に残る村へ運び込んだ、もしくは収公(上知)後も原位置(深江村の東青木境)近くに遺棄された状態で残っていたものを、近世以前のどこかの時点(最も遅くて、廃藩置県翌年の第一次府県統合までは、「尼崎藩(県)のもの」として三条の村人が権利を主張できそうです)で、三条村の人が引き取ったと考える方が、しっくりくるのかもしれません。

清水町の古美術店前にあった領境石は、西国街道上森村の中野村境に建っていたものが、明治以降は森域の個人宅に移設されていたが、そのお宅の代替わりによる家じまいと共に、公共物・文化財という経緯がわからぬまま一括して他の道具と共に売られたならば、一番近い・もしくは懇意にしていた道具屋が、芦屋市清水町だったということもありうるでしょう。

もちろん森村域から清水町の古道具屋に持ち込まれたという根拠はなにもなく、昭和になって旧深江村域から持ち込まれた可能性もあります。これは今ならばまだぎりぎり森村域・深江村域(の領境近く)で聞き込みをすれば、「(昭和30年代頃?に)××町の○○さんの庭にあったのを見た記憶がある」・「町丁境近くの路傍に横たわっていたはずだが、いつしか見なくなった」等の証言を得られそうですが、あと10年もするとそれも無理になるかもしれません。

私が目にした尼崎領境石のうち、現三条の石だけが幅一尺(その他の尼崎領境石は最大でも7寸程度)と、見た目にもかなり貫禄があり、頭(四角錐)が高くそのエッジが立っています。そして私が現認した限り、建立年が刻まれた尼崎領境石もこの石のみです(実際は少なくとももう1基はある模様)。どうもこの現三条の尼崎領境石だけが異質というか仕様が違うのですが、それが村請負だったからなのかは今のところは判断できません。
サイズ
高さ 134×横 28×奥行 31(cm) 花崗岩                          2023/10/01

現 芦屋市美術博物館
文 字
 ※1三面に) 従 是 東 尼 崎(未確認) 領  
 
場 所
 現在は芦屋市立美術博物館に。その前は打出小槌町の図書館分室前にあったそうです。
備 考
 まとまった休みがある時にしか旅に出られず、2022年の12月31日から2023年の1月2日に掛けて兵庫県を取材しています。公立の美術博物館なので、正月はさすがに閉まっているだろうなと思いながら、庭なので行けば何とかなるかもと考えていましたが、正月云々の前に改修工事のために長期休館中で、門は固く閉じられていました。よって道路から望遠にて撮影しています。

※1資料(近世以前の土木・産業遺産)転載で同一方角三面彫りとしていますが、私が視認できたのは、文字がある一面と文字がない一面のみです。よって、一面彫り以上、3面彫り以下としか確認できていません。また画像の状況でしか文字を読めていないため、私には「大」ではなく「立」の「なべぶた」に見えますが、「ア」「崎」は未確認です。

この領境石は元々どこに建っていたのでしょう? 打出小槌町の図書館分室前にあったそうですが、図書館分室が芦屋市の図書館となったのは昭和29(1954)年のことで、それまでは個人所有の建物だったようです。いつからそこにこの領境石があったのかはわかりませんが、いずれにしろとどこかから移設されており、それ以前のことは不明です。

東灘区・芦屋市の収公(上知)による尼崎領の移り変わりで書きましたように、打出村が尼崎領だったころには、住吉川東岸までずっと尼崎領ですから、三面彫りで「是より東は尼崎領」と主張すべき境はありません。入組(相給)だった東青木村境・中野村境に建てたのならば、一面は「是より西 尼崎領・佗領 入組」と彫らなくてはならないでしょう。

では、明和6(1769)年の収公(上知)以降に建てられたならばどうでしょう。そんなに遠くからは運ばれていないと思われますから、菟原郡境〜住吉川の範囲で考えると、尼崎単独領として残った村の内、西国街道上で西が尼崎領の入組(相給)ではない完全な他領になるのは、津知村と岡本村だけです。西国街道は海際ですから、同街道沿いの村はすべて収公(上知)されてしまい、尼崎領域は残っていません。

多面彫りで自領のみを示す領境石は、街道上に建ち行政権・司法権を主張するものと考えていますが、津知村(尼崎領/芦屋市津知町)の西国街道上西口(是より東が尼崎)は、接するのは深江村(神戸市東灘区本庄町・深江北町等)ですから、明和6(1769)年以降は尼崎領と公料との境になります(それ以前の深江村は、尼崎領なので領境ではない)。

ここで問題となるのが、現在の津知町の国道2号線を挟んだ北側は芦屋市清水町です。江戸時代の清水町がどこの村域かを、いろいろキーワードを変えて検索してみましたが、地元にとっては当然すぎることだからなのか、ダイレクトに何村域であるという記述を見つけられません。

清水町が尼崎領域ならば、西国街道上で「是より東」が成立します。しかし、江戸期の清水町が尼崎領以外の村に属していれば、西国街道上はオンラインとなり、是より東は尼崎領とは言えなくなります。

国立公文書館デジタルアーカイブの天保の摂津国絵図で見ると、西国街道を挟み北に芦屋村・南に津知村が描かれています。また、角川地名大辞典の芦屋市 芦屋(近代)欄には、「明治の大字芦屋の一部が、昭和19年に清水町になった」旨が書かれています。一方、同辞典の津知村(近世)・津知町(近代)欄には清水町については触れられていません。

これらを見る限り、江戸期の清水町は芦屋村域だったのか?と思いかけましたが、現芦屋市内で「是より東が尼崎領」となる可能性がある主要街道上の場所はここしかなく、もう少し詳しく調べました。(芦屋市の図書館には古地図があるのでしょうが、気軽に行ける環境ではありません。)

まず、明治17(1884)年の津知村誌(リンク先はPDF 9/24枚目 P131に記載)には明治期の津知村域として、「東は芦屋村の耕地および深江村のため池に接し、西は森村および深江村の耕地に接し、南は深江村、北は森村および三条村の田圃に疆(強=境)」となっており、津知村の北側は三条村域と接していたとされています。なお、東が深江村のため池というのは、津知町13−17〜21の凸の東面のことで、白井池(東灘区深江北町1−7)が現在よりも北に広かったのだろうと推測します。(今昔マップから 御影 明治43年測図 明治44.11.30発行で見た、津知町13−17以降と白井池の位置関係。)

次に、今昔マップから西宮 昭和4年修正 昭和7.1.30発行を見ると、現在の芦屋市清水町に津知の記載があります。

さらに天保の摂津国絵図には津知村と芦屋村の間、西国街道上に一里塚(●)が描き込まれていますが、一里塚は津知村にあったとされており、津知と芦屋にあったとはされていません(「文献に描かれた市内・街道筋の風光から」リンク先はPDF P66)。(=西国街道沿いは南北どちらとも津知村域だった。)

その他多くの傍証(例として、清水町にある六条遺跡の「六条」は、津知村の字であること<津知村誌 10/24枚目 P132に字名の記載>・清水町域を流れていた東川は、三条・津知・森・中野・深江の5村が利水していたとされ、芦屋村は取水していなかったこと<ホームページ日本1000公園に掲載の現地看板を参考>)から清水町は芦屋村域ではなく津知村域だったとの結論に至りました。ただし、角川地名大辞典に「芦屋(近代)の一部は清水町になった」と書かれていることから、清水町と前田町の間で若干の区画整理はあっているのでしょう。

それならばこの領境石は、津知町3−12もしくは清水町10−10先に建っていたことになります(下図、「従是東尼ア領●」の地点)。

しかし、そうであれば、本庄町1丁目11・12・13以西は森域であることから(現三条八幡宮の領境石参照)、西国道上に於いて、南側が深江となり尼崎単独領域でないオンライン区間は、本庄町1丁目14(明治期の本庄村の字図見た字泉ヶ坪)、同15・16(同字山王坪)の2ブロック、距離にして200mちょっとしかありません。

津知3−12もしくは清水町10−10先に「是より東尼崎領」を建てたならば、本庄町1−13もしくは森南町1−6先には「是より西尼崎領」が建っていた可能性があります(下図、西<左>の「●従是西尼ア領」とした地点)。ただし、西国街道上が完全に他領域になるわけではなく、北側は引き続き尼崎領(森村の字今北・藤ヶ田)のオンライン区間ですので、「建っていた可能性がある」とします。

さらには西国街道上、尼崎領津知村と公料芦屋村の境となる津知1−1もしくは清水町3−2(3−1は確認できず)先には、「是より西尼崎領」が必ず建っていたはずです。(下図、東<右>の「●従是西尼ア領」の地点/ただし、上記の清水町・前田町間の区画整理の影響を受ければ、若干ずれる可能性があり。)

これらを現代地図上にまとめると以下のようになります。赤が尼崎領青が他領(公料)、太線は領境たる村境、細線は同一領内の村境です。


地理院地図

いつも「道を限りとした区画整理は考慮できない」と書きますが、芦屋市津知町(津知村)と神戸市東灘区本庄町及び深江北町(深江村)の市境は、明治以降は一貫して行政区域が違ったからでしょうが、道を限りに区画整理されなかった典型と言えます(これでも小さな凸凹は整理されているかもしれません)。

境石とは関係のない話ですが、もし津知町と深江北町の間で区画整理されていたら、明治17(1884)年の津知村誌に書かれた、東が「深江村のため池に接し」に私は大きく混乱したでしょう。


そして先に書きましたようにもう一ヶ所、明和6(1769)年以降は尼崎領岡本村の公料田中村との境が、西国街道上に於いて是より東は尼崎領になります。

本山村誌から引用された明治時代の本山村の字図で見ると、岡本村(同字図当時は大字、以下同)の字アイキ田・平田と田中村の字久保田・平田との境になると思いますが、字図で見てもこのあたりは凸凹しており、現代地図の東灘区本山中町4丁目3と田中町1丁目1に、そのまま当てはめていいものか判断できません。

さらに、元禄の摂津国絵図及び天保の摂津国絵図の該当部を見ると、「岡本村の内・田中村の内 片町」が見えます。この片町については検索してもほとんど情報が出てきません。たとえば絵図に隣り合って2つの片町が描かれていて、東片町と西片町だったりすれば、村境があったと推定できるのですが、元禄・天保とも摂津国絵図には、岡本村片町と田中村片町が一体だったように描かれています。この絵図でしか判断できない以上は、元禄〜天保期の岡本村と田中村は、西国街道上に於いて村境が曖昧だったかもしれません。本来それでも領境はあるべきですが、そこに「領境石が建っていたはず」と言い切る自信がありません。

そして、西国街道上 公料田中村の西隣は尼崎領(※2)野寄村ですので、岡本村の田中村境に「是より東」領境石が建っていたならば、野寄村の田中村境には「是より西尼崎領」が建っていたはずです。西国街道はこの区間で現国道2号線から北に離れており、明治時代の本山村の字図の、野寄の字を見ると一目瞭然ですが、字往還ノ上と字東・西往還ノ下の間を通っています。

同字図で見ると、その境は本当にごちゃごちゃしていますが、西国街道上で是より西が完全に尼崎領と言えるのは、野寄字天王及び字野寄高田の田中字上高田との境のようです。同字図の田中・野寄の両「手水」と現在の手水公園(田中町3−13)の場所から推測すると、田中町4丁目内となりますでしょうか(田中町4丁目12が野寄字天王か?)。今昔マップから 御影 明治43年測図 明治44.10.30発行で見たこのあたりになるでしょうか。

岡本村の田中村境に「従是東尼ア領」境石が建っていたとして、岡本村は本山村→神戸市ですので、明治以降(明治維新までは現役の領境)になって精道村(芦屋市)に運び込む理由を見出せません。

(※2)角川地名大辞典の神戸市 野寄村(近世)欄には「明和6年からは幕府領」とされていますが、旧高旧領取扱帳データベースジョーのある町 尼崎 あまがさき公式観光サイト内に掲載された、尼崎市立歴史博物館地域研究史料室”あまがさきアーカイブズ”より引用された収公前後の尼崎藩領略図(一番下までスクロールしてください)その他の資料から、収公(上知)されていないと判断しています。
サイズ
高さ ×横 ×奥行 (cm) 未計測                                   2023/11/01

菟原郡小路村
文 字
            
 左) 上部欠損        入 (以下不明)
            
 前) 上部欠損  尼  領
 右) 上部欠損  尼  領

前面/右面(文字のない面を裏として)

    
右面                       前面                      左面
場 所
 現在は神戸市東灘区本山北町の小路八幡宮境内に移設されています。この領境石の「尼ア領・佗領 入」の上の文字は、他の尼崎入組領境石の例から方角を示しているはずですが、「北」・「南」・「西」のいずれでもなく、「東」の六画目と八画目に見えます。



尼崎領境石は四方位だけではなく八方位のものもありますが、その場合は「西南」(荒巻村堂ヶ本)・「西北」(塚口 四面彫り石)・「東北」(段上)といずれも東西方向が先に来る表記ですので、この領境石は「北東」や「南東」ではなく、「東」が入組であると主張していると思われます。

このあたりで東が尼崎と他領の入組(相給)になるのは、西国街道上 尼崎領西青木村(東灘区青木各町の西側)と尼崎・小泉領の入組(相給)である東青木村(東灘区青木各町の東側)の境(明和6<1769>年まで)と、西国街道上 尼崎領小路村(東灘区本山北町・本山南町等)と公料・尼崎の入組(相給)である中野村(東灘区本山北町・本山中町等)の境(明治維新まで)になります。

もしこの領境石が西青木村に建てられたものならば、西青木村・東青木村ともに明和6(1769)年に収公(上知)されますので、その時点でお役御免になっており、それが現代に残っているならば、どこか別の場所で保管・保存もしくは遺棄されていたことになります。

明確な証拠を提示できないのですが、現代に残る国境石や領境石の多くが2つ3つに折れた状態なのは、旧来の秩序を否定したい明治新政府の、少なくとも「撤去せよ」との指示があったと考えています。(同じように路傍に建っていた道標は、これほど明確に破壊されてはいない。)

一方で明治維新以前に役目を終え別の場所で保存されていた、または遺棄されていたのならば、新政府の役人もわざわざ見つけ出して壊せとはいわなかったでしょう。

小路八幡宮の領境石は、明確な意図を持って二つに折られているように見えますので、明治になるまで現役で領境に建っていた可能性が高いと考えます。もちろん近代になって交通事故で折れた境石も存在しますが、その場合は補修跡はあっても欠損はしていないでしょう。

なにより、現在この石が建つ小路八幡宮のすぐ横を流れる風呂ノ川〜要玄寺川が小路と中野の境ですから、原位置は小路八幡宮の脇ではないとしても、西青木村から偶然同じように東が入組になる小路村に運ばれたと考えるよりも、小路村に建っていたものと考えるほうが自然でしょう。

よって、この領境石は西国街道上の、小路村の中野村境に建てられたと考えます。現在の住所では、国道2号線要玄寺川橋の西詰、神戸市東灘区本山中町3−1(明治時代の本山村の字図では小路字片田)もしくは本山南町7−8(同字二ノ坪)の先に建っていたと推測します。今昔マップから御影 明治43年測図 明治44.10.30発行で見た西(左)のマーク

入組の中野村を挟んだ反対側の西国街道上の境は、現三条八幡宮の尼崎領境石で触れた、森村の中野村境に建っていた入組境石の原位置としている場所になります。今昔マップから御影 明治43年測図 明治44.10.30発行で見た東(右)のマーク
備 考
上部欠損。

「組」の文字が地表にないということは、粗削り仕上げの地中部分も、本来よりも短くなってしまっていると思われます西川石の例では70cmの地中部分がある)。目に見える部分では2つに折られているように見えますが、3つ以上に折られ、そのうちこの部分だけが現存しているのでしょう。(最低でも2〜30cmは埋めないと安定しないでしょうから、「組」の文字<の大部分>はこの現存部の地中にあるはずです。)
サイズ
高さ 67×横 20×奥行 21(cm) 花崗岩                             2023/12/01

 私が現認した尼崎領境石は以上になりますが、尼崎領境石は他にも

 ○伊丹市立博物館に一基
 ○兵庫津柳原惣門現地説明会資料に書かれた破却された一基(現在はどこにあるのか不明)
 ○尼崎市西長洲町にあるはずの一基(民家にあるとされており、詳しい場所の情報がありません)
 ○尼崎市塚口本町1丁目の見学できなかった一基

 等の現存情報があります。また、私のとっ散らかったメモには、神戸市東灘区森南町に境石がある(あった)ように書かれているのですが、今となっては何を根拠に書き込んだのかさえわかりません。(あるいは西国本街道上 尼崎領森村の入組である中野村境に建っていた領境石か?)

 これらは機会があればいつの日にか。尼崎領境石一旦了。

 2023/12/01

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