尼崎が建てたと思われる領境石には、以下の3パターンを見ることが出来ます。
@ 多面彫り(三面もしくは四面彫り)で尼崎領のみが彫られる。
A 二面に尼崎領と、尼崎領の逆方角を指して、尼崎と他領の入組であることが彫られる。
B 一面に尼崎領・他の面は「他領」と彫られる。
@の多面彫りで自領のみを示す領境石は、街道の領口に建ち、行政権・司法権を主張するものであると考えています。 荒巻畦道の領境石を例にとると、西は他領である安倉村になるのですが、西川石のように「西は他領」とは彫られず、三面に「是より東は尼崎領」と彫られています。これは、この領境石の目的が、紛争の結果(紛争に備えて)領境を確定させるものではなく、街道を歩く人に「ここからは松平 遠江守様のご領内」であることを知らしめるためのものだからと考えます。
私はこれを街道上に建つ「象徴的な境石」と呼んでいます。
一方、一例しかありませんがBの西川の領境石は、「東は尼崎領」と同時に、「西と北は他領」であると明確に彫られています。街道上で行政権・司法権を示すためならば他領を彫る必要はなく、というよりも他領は他領で自領を主張するために領境標を建てますから(公料の場合、木柱だったため現存していない)、「明石領 姫路領」等の並記はありえても、わざわざ「他領」を彫る必要はありません。
西川の領境石に「是より北(または西)他領」と彫られているのは、「ここから東は尼崎領」を主張すると同時に、自領民に対して「是より北と西は他領であるから、紛争を起こさないように」と釘を刺しているものだと思われます。
私はこれを、紛争の結果(紛争に備え)建つ「実務的な境石」と呼んでいます。
では、Aの入組が書かれたものはどうでしょう? これはBの類型ではなく、@のバリエーションであろうと考えています。
例えば東に尼崎単独領のA村があり、西に尼崎と他領の入組(相給)であるB村があるとした場合、A村の街道上の西はずれに三面彫りで「是より東は尼崎領」と表示すると、B村の自領(入組)を否定してしまうことになりかねません。
尼崎と他領が一村を分け合うことについては、坪分け(領地区切り)ではなく入組(民居入り交じり)となっていますので、村の中で尼崎領と他領の線引きをしてあるわけではなく、この農家は松平様・こちらの農家は何々様と、それぞれが持っている石高になるように、農家一軒ごと(時には一軒の農家が半々)に分けられており、字や組では分けられていなかったはずです。
相給の行政権の行使については、多くの例がありそれぞれ違うとしか言えません。片方がほんの数石しか持たない場合は、もう片方に委託してしまう場合もありますし、例えば五給・六給だったある村では、最終的な処分は各領主の裁量ですが、そこに至るまでの事務は、月替わりでそれぞれの代表(名主)が務めています。
しかし尼崎の持つ入組は、それぞれが結構な規模で、本拠地尼崎に近い摂津国内であり、近隣に尼崎単独領の村もありますので(大庄屋や郡奉行の存在)、尼崎の持ち分に関しては尼崎が行政を執り行っていたでしょう。
それならばA村とB村の境には領境はなく、表現が正しいかはわかりませんが、東ははっきりとした尼崎領ですが、西もふんわりとした尼崎領であり、紛争に備えて尼崎領と尼崎領(の入組)の境を主張するのはおかしな話しです。それでも村同士の境争いが起こる可能性はないわけではありませんが、もし境界争いが起こる(種がある)ならば、村境石を建てて対処したでしょう。
そう考えると、Aの領境石は街道上に建ち、ここから東は松平 遠江守様ご領内であることを示し、かつ西にも明確な線引きは出来ませんが、尼崎の行政権が及ぶことがありますよという表記をしたのでしょう。
街道上に建つならば、通常(三領境等の複雑な条件がない限り)は「他領 入組」は、必ず尼崎領の逆方向を指すことになります。(紛争防止<予防>のために建てるならば、 西川石のように必ずしも二方向だけが領境になるとは限らない。)
2023/07/01
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