安芸・備後国


備後(広島領)の国境石

赤名峠
文 字
表)  従 是 南   備 後        石の向き(表裏)は下で考察しています。
左)  従 是 南    州 領
裏)     三 次 郡 横 谷 村
 

 
場 所

備後国三次郡横谷村(広島領/広島県三次市横谷)と、出雲国飯石郡上赤谷村(広瀬領<飛び地>/島根県飯石郡飯南町上赤名)を結ぶ、国道54号赤名トンネルの上、旧道(石見銀山街道)にあったもの。明治以降道路拡張に伴い横谷瀬戸の八幡神社に移設され、下記の旧境石と共に建っていたものを、平成19年に再移設。

天保3(1833)年「藩名変更のため」に建てかえと現地の案内板にありました。


赤名峠

 

備 考

この石の表は「備後国」・「芸州領」のどちらになるのでしょう。現在は道路に面して「芸州領」を表にして建っています。は必ずしも文字が書かれていない面が裏だとは思っておらず、「文字が書かれていない面を裏とすると」というまどろっこしい表記をしますが、文字が書かれていない面を裏とすると、「芸州領」が表になり領境石に国境を併記した形になります。

しかし、江戸時代の外様の大名家が、国境の地に境の石標を建てるのに、国名よりも領名を優先させるというのは納得がいく話ではありません。(ただし、国持ではない中小<城主格以下>大名家の場合は、国境にも領名のみが記された、実質国境石となる領境石を建てています。)

この石が往時にどちらを表にして建っていたかにかかわらず、正面を「備後国」と考えると裏銘が「三次郡横谷村」となり、瀬戸の八幡神社にある先代石と同じ形(先代踏襲)になります。

また、広島浅野家の国境石のうち、この赤名峠(三次市)と二本松峠(庄原市)の2基は、「備後国」と「芸州領」を併記した3面彫りで、栗谷峠口(安芸高田市)・三坂峠・亀谷峠(共に北広島町)の3基は、表に「安芸国」・裏面に「抱」を示す「村」を記した二面彫りです。

安芸は全域が広島領だったので、国名と裏に村だけでよく、備後には他領(福山領・中津領・一部に公領)があったため、安芸国境石と同じ形式で、表に国名・「抱」を示す村名を裏に彫り、さらに横銘で備後国内の芸州領域である(浅野家に行政権がある)ことを示したのでしょう。

では、実際にこの石がどちらを表(道路)に向けて建っていたのかですが、もし「備後国」が道路に面していたとするならば、現在の道路西端に東を向いてではなく、逆側の道路東端に西を向いて建たないと、「芸州領」が石見国側を向きません。(自領に「芸州領」をアピールしても仕方がありません。)

私の常識からいえば、備後国を道路に面して建たせる方が正しいような気がするのですが、街道を石見側から歩いて来る人に対して国境をアピールする目的ならば、正面を出雲国側に向けて建っていてもおかしくはないのかもしれません。

同じく三面彫りの「二本松峠の備後国境石」は、明治以降横倒し放置からの移設ですが、現在は庄原市の徳了寺に正面を「芸州領」として建っています。この石が徳了寺に移設されたのが明治30年代前半から中盤に掛けてのことですので、あるいはこの石が実際に二本松峠に建っていた時の記憶に基づいて、現在の向きになっているのかもしれません。


「芸州領」を表にして徳了寺に建つ二本松峠国境石(左は先代石)

また、同じ広島浅野家が建てた「安芸国境石」は全て近接移設ですので、往時と同じ向きとは限りませんが、三坂峠と亀谷峠が道路に面して正面を向けて、栗谷峠口は石見国に正面を向けて建っているというバラバラな状態です。

 
     道路に面して建つ亀谷峠                石見国を向いて建つ栗谷峠先 

この国境石が赤名峠がから八幡神社に移設されたのが明治も20年になってのことのようですので、赤名峠に建ってい
た時の姿の、文書・絵図・写真等が残っている可能性もあると思い少し探してみたのですが、私の捜した範囲では見つかりませんでした。

実際にいずれの向きに建っていたとしても、正面は「備後国」ととらえるべきだと考えています。

サイズ゙
高さ 170×横 24.5×奥行 24.5(cm)                                     2019/06/01

赤名峠 先代
文 字
表)  是 南  嶋 領   廣は「まだれに黄」の異字体
裏)     横 谷 村
 


 
場 所

赤名峠の先代石。現在は横谷 瀬戸の八幡神社境内に。

備 考

享保5(1720)年建立、天保3(1833)年に「藩名変更のため」建てかえとの記録。簡単に書いていますが、この境石の現役期間は優に100年を越えることに、また来年2020年には建立300年ということになります。

現在の高さは185cmですが、本来地中にあるべき粗削り加工部が露出しており、境石としての高さは164cmで採っています。

この石が建て替えられた理由が「藩名変更のため」となっていますが、私はそこにいまいちピンときていないのですが、それについては広島浅野家の境石が出揃ってから書きます。

サイズ゙
高さ 185(164)×横 21.5×奥行 18.5(cm)                          2019/06/01

二本松峠
文 字
表) 従 是 西   備 後 國         文字の向きの考察は赤名峠の欄で
左) 従 是 西    州 領
裏)   奴 可 郡 福 代 村

 

場 所

備後国奴可郡福代村(広島領/広島県庄原市東城町福代)と備中国哲多郡大竹村(公領/岡山県新見市哲西町大竹)の境、二本松峠に備中国境石と並び建っていたもの。現在は庄原市東城町東城の徳了寺境内に、先代の石と並び建つ。


現在、二本松峠には、芸州石先代のレプリカ(備中石はオリジナル)と、往時を再現した境杭木が建つ。
右奥の家(広島領側番所跡)の石垣は一部が当時のもの。

備 考

次代の石の右面(現在の向きでいうと裏面)には「すゑひろの松」と彫られて削られています。すえひろの松は「二本松」の一本だそうで、現在も牧水二本松公園にあるそうです。(現地まで行きながら、残念ながら私は見ていません。)

この次代の石は、明治以降のある時期、裏返して「すえひろの松」の表示石となっていたようです。



サイズ゙
高さ 175×横 25×奥行 24.5(cm)                                    2019/07/01

二本松峠 先代
文 字
表)  是 西  備 後  
裏)  奴 可 郡  福 代 村

 
左が先代石(右は次代の石)                           右が先代石(左は次代の石)

場 所

現在は次代の石と並んで徳了寺に。

備 考

徳了寺の国境石の前に建つ、石に刻まれた由緒書きが面白かったので書き写します。( )内は私の注です。



   

    石材拂下願

 比婆郡東城町大字福代字二本松
 第五百三十七番地官有地荒地上(

 一 石材壱個 長 六寸三尺
           巾 八寸角
    代償金 五十錢

 仝 (同住所)

 一 石材壱個 長 壱丈壱尺
           巾 七寸角
    代償金 五十錢

 但 備前國ト備中國ノ境即比婆郡東城町大

 字福代地内二本松於テ富時廃物属シ居候

 旧藩主所領境ラテセシ標石シテ石ノ表面○(カタカナ一字不明、「ニ」か)

 是西藝州領壱個ハ従是西備前國ト掘(ママ)入ミ

 アリ富今ハ従是西廣島県ト記シアル標木換へ

 該(?)石ハ附近○(漢字一字不明 「仆の下に王」か)取草中顛倒至居候



 石ハ本寺庭内○(カタカナ一字不明)温セル三百年餘ノ○(漢字一字不明)朽乾支 

 ノ柱用ヒ松石トモ永遠ニ保存到度候ニ付御

 ○(一字不明)成下度此段相願候也

   比婆郡東城町大字東城
      徳了寺住職
          (個人名)

   仝  仝  仝 (比婆郡東城町大字東城) 
      (役職名読めず)
          (個人名)

 広島県知事 江木 千之 殿

江木 千之が広島県知事を務めたのが、1898(明治31)年12月28日から1903(明治36)年のことです。その時期には「すえひろの松」の案内柱の役目も終えて、草むらの中に埋もれていたのでしょう。

私は本来、全ての歴史的遺産は、原位置もしくは原位置のイメージに近い場所にあるべきだと考えていますが、この2基の境石は、草むらの中に打ち捨てられていたものを、県知事に「永遠に保存する」と誓い、決して安くはない対価(明治30年代の1円)を払い、自動車は当然ありませんので、大八車のようなもので二本松峠から運び込んだのでしょう(道なりで約3km)。

これを読む限り、この両石はここ徳了寺にあるべきものと言わざるを得ません。(たびたび原位置に戻す・戻さないの話になり、その都度正当性を主張するのも面倒だと、経緯を彫り込んで掲示してあるのでしょう。)

また、当国境石散歩には近代の県界標のページもありますが、近代の石造りの県界標は古くても大正時代(大正8年 岡山・広島県界)です。この願書を読むと、広島県に於ける明治30年代の県界標が木製だったことがわかります。

明治21(1888)年に香川県が分離独立して、47都道府県(3府43県1庁)が出揃い、ほぼ現在の都道府県境が確定します。それまでは府県の統合・分離・県名変更が幾度もあり、作りなおしになる可能性を考えて、明治期には石造りではなく木柱だったのかもしれません。

奴可郡が比婆郡に統合されたのが明治31年10月。ちなみに、現在の地図で「庄原市東城町福代538番地(537番地は記載がない)を検索すると、二本松峠の広島側番所跡に当たります。

サイズ゙
高さ 170×横 22×奥行 18.5(cm)                                      2019/07/01


安芸(広島領)の国境石

三坂峠(大塚)
文 字
表) 従 是 東  安  (藝の「云」は半分埋まる)
裏)  山  郡 大 塚 (以下不明
  
場 所

安芸国山県郡大塚村(広島県山県郡北広島町大塚)と石見国邑智郡市木村(島根県邑智郡邑南町市木)の境、広島・島根ともに県道5号線の三坂峠。

備 考

三坂峠にはスノーゲートが掛かっており、昼なお暗い、めったに車も通らない(少なくとも私が滞在している間は一台も通過しなかった)不気味な環境です。トンネルではないのでいたるところから外の明かりが透けて見え、まるで覗かれているような錯覚に襲われ、スピリチュアルなものを一切信用しない私でも気持ちの悪い空間でした。

ここではスノーゲートの写真は撮りませんでしたが、その前に寄った国道261号旧三坂峠(中三坂峠)で撮った画像がありますので、参考のために貼ります。



この石と対になる石見国濱田領境石はこちら

サイズ゙
高さ 139×横 24.5×奥行 24(cm)                           2019/11/01

亀谷峠
文 字
表) 従 是 南  安 藝 國 
裏)  山  郡 新  村
 
場 所

安芸国山県郡宮迫村(ただし、新村の文字)(広島県山県郡北広島町宮迫<もしくは新庄>)と石見国邑智郡亀谷村(島根県邑智郡邑南町上亀谷)の境、亀谷峠。

備 考

まず、この文字は「荘」の異字体なのでしょうか? 初めて見た文字ですし、そもそも草かんむりではなくそいちです。



一応この文字を「荘」の異字体として扱いますが、この文字について知っていらっしゃる方がいらっしゃれば、教えていただけるとありがたいです。

幕末時点で山県郡には74ヶ村あったらしいのですが、その中で「新」が頭につく村は新村しかありません。また現在の北広島町には「新」が付く地名が新郷・新氏神・新都などいくつかありますが、いずれも北広島役場(千代田IC)周辺の地名です。(インターチェンジ一つ分離れている。)

現在の新は亀谷峠のずっと下で、大朝IC周辺にその地名が見えます。同郡内のしかも隣接に酷似した村名が並ぶような紛らわしいことはしないでしょうから、新=新として話を進めます(すでに2つの仮説が重なっています)。

現在の亀谷峠の広島側地名は宮迫で、宮迫村の名も江戸時代から見えます(新庄村と宮迫村が合併して新庄村となるのが明治22年)。亀谷峠の国境石がなぜ宮迫村抱ではなく新荘(庄)村抱だったのか、それを調べる前にまずはこの文字が「荘」であることを、さらには歴史的に新庄村に「」の文字も使われたことを確定させなければなりません。

最悪、明治22年以降の復刻(もしくは裏面の書き足し)で、その時にはすでに宮迫村と新庄村が合併していて「新」新庄村域だったので、単純に間違えたという可能性も頭に入れておかなければなりません。そう考えれば、表の「従是南 安芸國」の筆づかいのスピードや堂々とした感じが、裏面の「山縣郡新荘村」にはないような気がします。(今になって画像を見てそう感じただけで、実際にはもう一度現地に行って見比べなければわかりません。)

亀谷(上・下亀谷)は石見国(島根県)側の地名のようですが、安芸側でも「亀谷に通じる峠」との意で、亀谷峠と呼んでいたのでしょうか。そういえば、赤名峠の赤名も石見側の地名でした。

この石も本来地中にある粗削り部が露呈しています。現在の露呈部全長は188cm(四角錐のとんがり頭は含まない値)ですが、本来の値は170cm(頭含まない)で採っています。

一応は舗装道ですが、現在はもうすれ違う車もないような廃れた道で、宮迫側から上がりましたが、途中で何度も「この道でいいのか?」と不安になりました。

サイズ゙
高さ 188(170)×横 24.5×奥行 24.5(cm) ※高さは「四角錐のとんがり帽子部分」を除いた値です。()内はそこからさらに本来は地中部にあるべき部分を除いた値です。                        2019/11/01

栗谷峠口(智教寺)
文 字
表) 従 是 南  安   
裏)    田 郡 生 田 村
  
場 所

安芸国高田郡生田村(芸州領/広島県安芸高田市美土里町生田)と石見国邑智郡久喜村(公領/島根県邑南郡邑南町久喜)との境になります。
備 考

安芸高田市側には栗谷峠という地名もあるのですが、これは安芸国内の峠で、この石が現在ある住所は安芸高田市美土里町生田智教寺となるようです。

私が現地を走った感想では、二重稜線になっています。



このような場合、どちらかの稜線か、その間の谷底が国境となると思われるのですが、安芸から見て一つ目の峠(栗谷峠)を越え谷底に向かう斜面の途中で国境を切ってあります。こんな特殊な国境の場合、何らかの理由がありそうです。

画像を見てわかるように、本来は地中にある粗削り部分が露呈しています。現在の全長を197cmで計りましたが、粗削り部分を除いた本来の高さは172cmです。画像には写っていませんが、頭は四角錐に尖っています。

サイズ゙
高さ 197(172)×横 24×奥行 24(cm)


広島(芸州)の領境石

防地峠
文 字
 従 是 西    州 領
 
場 所

尾道市防地峠に福山領境石と並んで。

備 考

芸州広島領と備後福山領の境です。福山は水野家・松平(奥平)家・阿部家とも西国の見張りとしての譜代大名、対する広島浅野家は監視される側の外様の大藩であり、ここは山陽道(西国街道)上の重要な領境になりますので、互いの領境石が建てられ、また互いに番所を置いていたそうです。


 
福山側番所跡                             バス停も「番所」
2018/11/11 

 この先、2019/01/05に加筆訂正しています。

福山石の設置場所に若干疑問があります。芸州石は現在の道路(旧山陽道)に面して建っていますが、福山石は道路から数m下がった畑の中に建っています。しかも両境石は離れ過ぎていると感じます。(両石が離れると、その間で両境争いが起こりかねない。)

 
芸州領境石より福山領境石を見る                福山領境石より芸州領境石を見る

江戸期の道路は最大でも馬がすれ違えればよく、現在の我々が思うほどには広くはありません。この両境石の位置関係・設置場所は、少なくとも福山石は、もしかすると両石とも、移設の可能性があるようです。
 

誤解があるといけませんので、さらに2019/05/01追記します。

いわゆる山陽道はこの両境石の前面を通る道です。両境石の間を通る道が江戸時代に存在したのかはわかりませんが、あったとしても間道・脇街道になりますので、この両境石ほどの道幅はなかったでしょう。
 

サイズ゙
高さ 210×横 32×奥行 30(cm)
基壇(上面) 高さ 80×横 151× 153(cm)                              2018/11/11

篠根
文 字
 従 是 西  藝 州 領
 
左が次代石   右は先代石        

場 所

備後国御調郡篠根村(広島県府中市篠根)は芸州領、芦田川を渡った同国芦田郡父石村(府中市父石)が福山領になります。

現在は府中市篠根町 福塩線下川辺駅前に、先代の石と2基並んで。現地の案内板には、ここは脇街道(本街道は山陽道で、境口は防地峠)だったと書かれています。

備 考

福山は防地峠で芸州領境石と並び領境石を建てていますので、ここでも芸州側が建てた以上、福山側も建てたと思われるのですが、その痕跡はありません。

サイズ゙
高さ 172×横 26.5×奥行 25(cm) 2019/10/01

篠根 先代
文 字
  是 西  廣 嶋 領
  奥が先代石  手前は次代石          

場 所

現在は府中市篠根 下川辺駅前に次代の石と並んで。

備 考

この文字もどこかで見たことがあります。というわけで、赤名峠先代石と並べてみました。


左 篠根先代             右 赤名峠先代

全体的によく似ています。しかし、「從」の7画目「人」や「是」の「ー」の留め方を見ると、篠根の方がより下向きにぐいっと留めてあり、若干癖が違うようにも見えます。

 
「從」  どちらも左 赤名峠 ・ 右 篠根  「是」

また、篠根は「廣」ですが、赤名峠は「まだれに黄」となっているところは決定的に違っています。同じ人が書いたのであれば、あえて異字体と使いわけた理由の説明が必要になります。

実はこうして並べるまで、赤名峠石の「まだれに黄」に気がついていませんでした。同じ人の文字であることを検証しようと並べたのですが、「同じ人の文字のような気もするが、同じ人とは言い切れない」という結論になってしまいました。

広島県の方でこれらの文字を書いた人を特定しているのか、私が目にした資料では見つけられませんでした。
サイズ゙
高さ 165×横 20×奥行 18(cm) 2019/10/01


備後福山の領境石

防地峠
文 字
 三面に)  是 東   福 山 領
  
                                          左面  表面

      表面  右面
場 所

尾道市防地峠に芸州領境石と並んで。

備 考

備後福山(以下、備後国のページに於いては福山と表記)領境石は芸州領境石より少しサイズが小さいのですが、その代わりに三面彫りになっています。

サイズ゙
高さ 164×横 21×奥行 21(cm)
基壇(上面) 高さ 73×横 121.5× 118(cm)                           2018/11/11

行縢村
文 字
 三面に)  是 南  福 山 領
  
       左/正面          (便宜上、文字がない面を裏面として)     正面/右  左奥に中津石

 
場 所

この筆跡(て)はどこかで見たことがあります。といわけで、防地峠の福山領境石と並べてみました。


行縢                        防地峠

全体に右上がりだが、「福」の旁だけが顕著に右上がりなところ、「山」の2画目のつき抜け(「山」は3画ですが、4画で書かれています)等、この両者の文字は同じ癖を持っています。同じ筆跡(て)と言っても差支えないと思いますが、同じ型から起こったものではなく、防地峠の文字の方が若干おおらかに見えます。この石と対になる中津領境石

備 考

現地の案内板によると、一旦公領となったここ行縢(むかばき)村が、再度福山領となるのは元禄13(1700)年のことで、この境石はその時に建てられたとなっていますので、福山領の境石は松平時代に整備されたようです。

サイズ゙
高さ 187×横 21×奥行 21(cm)                                  2019/04/07

御野
文 字
三面に)  是 西   福 山 領
 
    左                                        表/右


場 所

備後国安那郡上御領村(福山領/広島県福山市神辺町上御領)と備中国後月郡高屋村(公領/岡山県井原市高屋町)の境、現在の国道313号の一本北の道が旧山陽道になります。福山側の番所跡(井戸)が今も残っていますが、旧山陽道はこの境石から現在の道を外れ、現在は私有地となる部分を通っていたそうです。

県界標の表記は「深安郡御野村」ですが、安那郡が深津郡と合併して深安郡になるのが明治31年、上御領村が下御領村・平野村と合併して御野村になるのは明治22年。

備 考

現在は近隣の施設に保護されています。この石が建っていた場所には、今も穴が開いており鉄板が被せてあります。その道路を挟んだ手前に県界標(レプリカ)。

地元の方に「明治以降横倒しにされて現地に放置されたが、阿部治世というか江戸時代を懐かしむ村人によって何度も建てられたので、最後には県の役人に破却された。」という逸話を聞きました。

領境石の整備は松平時代と思われますが、福山は代々(国持ではなく)城主ですので、国名は彫らずに領境石の形ですが、実質国境石になります。(防地峠と行縢は、領境であって国境ではない。)

県界標のオリジナルは県界標のページに。

サイズ゙
高さ 未計測×横 21×奥行 21(cm)                                    2019/09/02


中津の領境石

 筑前国内の中津領のところで書きました、奥平中津領の三御領の一つが、ここ備後国内にありました。

 神石郡 22ヶ村 安田村・西油木村・東油木村・下豊松村・新免村・永野村・草木村・阿下村・光信村・小畠村常光村・光末村・
            父木野村・上村・高蓋村・木津和村・田頭村・福永村・牧村・高光村・相渡村(以上、現 神石高原町)
            三坂村(現 庄原市)

 甲奴郡 12ヶ村 階見村(現 神石高原町)
            岡屋村・斗升村水永村・佐倉村・矢多田村・国留村・井永村・二森村(現 府中市)
            抜湯村・太郎丸村・安田村(現 三次市)

 安那郡  2ヶ村 百谷村・北山村(現 福山市)

 の3郡計36ヶ村、約二万石です。代官所は小畠村の現神石高原町役場にあり、小畠村の大庄屋 村田氏が代官を務めたそうですが、現在の5市町に渡る規模ですから、かなり広大な領地といえます。(実際に車で走っても、山間部の相当な広さです。)

 ただし、全てが代官支配だったわけではなく、郡奉行等数名の役人は本藩から派遣されていたそうです。納税は現地に詳しい庄屋に責任を負わせて、司法・行政権は本藩が握っていたということかもしれません。




 
 小畠代官所跡の碑(井伏 鱒二 揮毫)  (どちらも神石高原町役場前)  中津領 西ハ府中/東ハ○○道  南ハ福山道
2019/04/07 

斗升
文 字
 従 是 西 北 中 津 領
 


場 所

府中市斗升町(とますちょう/中津領)と行縢町(むかばきちょう/福山領)の境、現在の県道24号からは外れて、川のほとり斜面に。

備 考

相対する行縢村の福山石の文字を考察していますが、中津石の筆跡(て)も趣があります。

サイズ゙
高さ 161×横 21×奥行 21(cm)                                  2019/04/07

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