北九州市内

境ヶ谷 荒谷越西尾筋 荒谷口 欠損境石(筑前) 大蔵三条 八王子町第4 八王寺町第3 八王寺町第2 八王子町第1 金毘羅池境石 江ノ口控石 江ノ口

 
 北九州市内は、八幡東区田代〜吉川城址〜金山川〜三条〜金毘羅池〜境川のラインで筑前・豊前の国境が引かれていました。(元禄13年《1700年》の箱崎協定にて)

 古絵図によると、18基の国境石が建てられ(筑前・豊前・控石含む。内、豊前国国境石の境川筋境石は豊前国のページにあります)、現在13基の国境石が現存しています。
 
 北九州市の国境石はほとんどが移設されています。そして、現存する石は大事にされているようです。また、どちらでも良いことですが、私は「国境石」を「くにざかいいし」と読んでいますが、北九州市では「こっきょうせき」で統一されているようです。

 北九州の国境石に関しては、「豊前・筑前 国境石」(北九州市文化財調査委員会編・1969年)を参考にしています。文中「資料」としていますのは全て同書のことです。

 北九州市内の国境石については、八幡東区田代から境川(戸畑区中原・小倉北区中井)へ紹介しています。文中、上・下とありますのは、上が田代側・下が中原側です。

 八幡東図書館前の欠損境石(豊前)と戸畑区役所内の境川筋境石は豊前のページに移動しました。

欠損境石(筑前)・欠損境石(豊前)および八王子第一の3基は、現在いのちのたび博物館のバックヤードにあり、非公開になっています。

黒田新続家譜の記載内容

 

境ヶ谷
文 字
  是 西 筑  國   前の異字体については欠損境石欄で

2015/05/28 画像を追加

  
場 所
 河内ダムの上、河内病院の一番奥畑の中にありますが、民有地ですのでご注意ください。

2015/5/28 追記
現在は畑ではなく公園化されています。それに伴い重大な環境変化がありますので、下の備考欄に書きます。

2023/04/01
国立公文書館が公開する天保の筑前国絵図及び同じく天保の豊前国絵図で見ますと、筑前国遠賀郡畑村と豊前国企救郡田代村を結ぶ山越え道が描かれ、両絵図共に「境石」の文字が見えます。

天保の筑前国絵図では柿こ坂の小名が記されていますが、筑前國續風土記の国境の小名欄には柿のこ坂として記載があります。筑前国郡絵図 遠賀郡(年不詳)で見ますと、旧字の柿に「ノコ坂」と書かれていますが、その北にタ道カ谷口の小名が見え、筑前國續風土記の国境の小名欄には、だ道が谷として記載があります。天保の筑前国絵図筑前国郡絵図 遠賀郡・筑前國續風土記の国境の小名には境ヶ谷の記載はありません。

今昔マップから、徳力 大正11年測図 大正14.10.25発行で見ると、境界(同地図当時は、遠賀郡香月村と企救郡西谷村の境)が見え、確かにここを小徑(径)が通っており、音滝観音(畑観音)に繋がっています。
備 考
 西に向いて「是より西」の文字があります。大きな自然石ですので場所はオリジナルでしょう。

2015/05/28 追記
画像を追加していますが、新しい画像を見てもらうとわかるように、この石の環境が大きく変わってます。

この石の特徴は「從」と「是」の間に石自体の傷(凸凹)があり、「從」と「是」が離れて彫られてしまっていることです。そんな、ある意味不細工な銘は、他に見たことがありません。

まず,、田代の3つの石に書かれた文字は、筆跡や文字の大きさ、左流れの字筋から、同じ型(下書き)から起こったものであることは間違いないでしょう。


境ヶ谷        荒谷越西尾筋        荒谷口

そうであれば、石工が勝手に大きさ(もちろん筆跡も)を変えるわけにはいかず、指定された通りに彫らなければなりません。

さて、久しぶりに境ヶ谷の国境石を見ましたが、今回追加した一番上の画像を見るとわかるように、石の周りが掘られ、石の下部まで露出しています。

現在の状況ならば、石の傷(凹凸)を避けてその下から彫りだせば、從と是が離れてしまう、石工としても不本意であろうことはしなくてよかったように錯覚しますが、下の10年以上前の画像を見るとわかるように、この石は本来「國」のすぐ下から土に潜っており、文字を傷(凹凸)の下まで下げて彫り始めると、全体が入りきらなかったのです。(向かって右にずらせばスペースは確保できますが、石の凸凹がある。)

このまま10年も経てば、今の状態があたり前になって、単に石工がうっかりさんだったと思われる恐れがあるので、なぜ從と是が離れなければならなかったかを、しっかり確認しておきたいと思います。
サイズ゙
高さ 150×横 ×奥行 (cm) 自然石

荒谷越西尾筋
文 字
  是 西 筑  國   前の異字体については欠損境石欄で 

2015/05/28 画像を追加

  
場 所
 荒谷口石の先、尾根上。
備 考
 絵図によると、上の境ヶ谷の石とこの石の間にもう一基あるはずですが、所在不明です。台座は後世のもののようです。

2015/5/28
画像とサイズのデータを追加しました。

2023/04/01
今昔マップから、徳力 大正11年測図 大正14.10.25発行で見ると、境界(同地図当時は、遠賀郡香月村と企救郡西谷村の境)が描かれています。(真ん中のマークが荒谷越西尾筋の境石に相当します。)

境ヶ谷と荒谷越西尾筋の間にあったはずのもう一基ですが、私が建てる立場ならばここに建てたでしょう。
サイズ゙
高さ 70×横 55×奥行 7(cm) 自然石なのでサイズはおおよそです。(旧サイズは高さのみで80としていました。)

荒谷口
文 字
  是 西 筑  國   前の異字体については欠損境石欄で

2015/05/28 画像追加

  
場 所
 河内病院の下の道より、畑隧道に抜ける山道の途中にあります。
備 考
 文字が南向きであること、台座があることから移設のようです。この石の東側にもう一基あったみたいですが、いつの時代にか流失したそうです。

2015/5/28画像とサイズの追加。
この石は「前」と「國」の間で折れており補修されています。その他にも傷がありますが、折れに関しては破却かも?

2023/04/01
筑前国郡絵図 遠賀郡(年不詳)で見ますと、荒谷口の小名が書かれています。タ道カ谷口(だ道が谷口)との間に荒谷の小名も見えますが、荒谷は筑前國續風土記の国境の小名には記載がありません。

今昔マップから、徳力 大正11年測図 大正14.10.25発行で見ると、境界(同地図当時は、遠賀郡香月村と企救郡西谷村の境)が描かれています。東<右>のマークが荒谷口の境石に相当します。この地図を見ると、荒谷越と思われる小徑(径)が描かれ、最終的に遠賀郡香月村畑(同地図当時)まで繋がっていることに驚きますが、江戸時代の山道は、おしなべてこのくらいのものだったのでしょう。
サイズ゙
高さ 120×横 76×奥行 30(cm)自然石なのでサイズはおおよそです。(旧サイズは高さのみで110としていました。)

欠損境石(筑前)
文 字
上部不明  筑  
 
場 所
 三条の国境石の上に建っていたといわれる国境石です。
現在は下の豊前石と向かい合って建っていますが、往時は向かい合っていたわけではなさそうです。
現在は、八幡東区の図書館前に移設されています。

2019/06/01
先日久しぶりに当地を訪れたところ、八幡図書館の位置には市立病院が新設されており、八幡図書館は横にずれていました。そして豊前・筑前の両欠損国境石は見当たりませんでした。地域環境の変化に伴いいのちの旅博物館に保管されていますが、今のところ公開については何も決まっていないようです。(現状非公開
備 考
 筑前・豊前の石とも同じようなところから割られていますので、明治になったときに壊されたのでしょう。(2023/04/01 すみません、「明治になったときに『一緒に』壊されたものでしょう」としていましたが、この両境石がそもそも向かい合っていたものかもわかりませんので、「一緒に」は取り消させてください。)

筑前側の上の文字は「西」のようです。

2015/05/28 追記
田代の国境石の文字を考察していて、「前」の字の「月」の下の「ー」が構えからはみ出していることに気づいたのですが、この石の「前」も同じ特徴を持っています。田代の国境石3基とこの石は文字の大きさも違い、写真で見ただけでは確定的なことは言えませんので、今のところ「前」に同じ特徴があるという私の覚書程度です。

 「前」の異字体については、東峰村(小石原村)・添田町国境石群の欄に少し書いています。
サイズ゙
高さ 50(現存部)×横 18×奥行 18(cm) 砂岩 

欠損境石(豊前)は豊前(筑前境)のページへ移動しました

大蔵三条
文 字
 従 是 西 筑 前         

 
2019/06/01画像追加

 

場 所

八幡東区高見2丁目の住宅街にあります。長崎街道東の出入口に威風堂々建っているはずですが、現在は見事に高級住宅に囲まれています。隣は北九州市長公舎です。

備 考
 長崎街道の出入口として「原田の国境石」と対になるものです。この石自体は天保5年(1834年)の再建との記録があります。

文字がとても深く彫り込んであります。(竹底彫という二川相近が編み出した彫り方らしいのですが、同じ彫り方の原田の国境石よりも彫りが深い気がします。)

「筑前國御境目日記」(戦災で焼失)によると、この石は荻浦の福岡領境石を参考にして建てられたそうです(記載は八幡市史に)。

この石に関する吉田松陰「西遊日記」の記述

2019/06/01
画像を追加しています。周りのつつじが取り払われ、基礎部がよく見えるようになっていました。基礎の画像も撮って来ましたが、馬市の基礎石と比べると小さく、この竿石を支えるには頼りなげです。二段になっていて、見えない部分はもっと大きいのでしょうか。

2023/04/01
国立公文書館が公開する天保の筑前国絵図で見ますと、遠賀郡大蔵村が国境の村となり、「此所国境杭有」となっています。一方、同じく天保の豊前国絵図で見ますと、企救郡荒生田村の内 新町が国境の村となり、同じく「此所国境杭有」と記されており、境川(現在は板櫃川)の北を長崎街道が通っています。

両絵図を見ますと、ちょうど長崎街道上で豊前が凸、筑前が凹となっていたようで、現在の高見は両国域が含まれるようですから、現在この国境石が建っている場所は、原位置のイメージに近い位置と言えるのでしょう。

また、筑前国郡絵図 遠賀郡(年不詳)で見ますと、同所の小名に久保尻・タイ田が見えますが、筑前國續風土記の境の小名欄に、くぼ尻・たい田として掲載があります。

一応今昔マップから、同地域の一番古い地図、八幡市 大正11年測図 大正14.5.25発行で見た三条の国境石の現在位置です。同年時点ですでに製鉄所の官舎として市街化されており、南側では中尾(八幡市)と荒生田(企救郡板櫃町)の間に確かに境界が引かれているのですが、街中ではその境界を追えず、この地図から現位置=原位置を証明することは出来ません。
サイズ゙
高さ 329×横 51×奥行 43(cm) 花崗岩

八王子町第四
文 字
  是 西 筑 前  

  
  
場 所
 高見5丁目北九州盲学校の横にある阿弥陀寺の前にあります。
北九州市立盲学校の裏(北)が現在の区境ですので、ここが筑前・筑後境だったのでしょう。少し南に移動されていることになります。
備 考
 この石と三条の国境石の間にあるはずの1基が行方不明のようです。
サイズ゙
高さ 87×横 18×奥行 18(cm) 花崗岩

八王子町第三
文 字
  是 西 筑 前  
 
場 所
 下の八王子町第4の北側に八王子町第3・第2と並んでいたようですが、現在は個人のお宅にあります。
備 考
 八王子町第2・第3は「北九州市文化財調査報告書 豊前・筑前 国境石」が編纂された1969年の時点で個人のお宅で保管されているとなっていたため積極的に探さなかったのですが、北九州まちかど探検の永楽庵さんに所在地を教えていただきました。
サイズ゙
高さ 85×横 18×奥行 18(cm)

八王子町第二
文 字
  是 西 筑 前  
 

場 所
元々は八王子第3と八王子第1の間にあったようですが、現在は八王子第3のすぐお隣の民間施設内にあります。
備 考
サイズ゙
高さ 98×横 18×奥行 17.5(cm) ※資料値は高さ83cm

八王子町第一
文 字
表)  是 西 筑 前 
横) 天保十五年甲辰三月再建之
横) 遠 賀 郡 中 原 村 抱
 

 
  
場 所
現在の金毘羅池のほとり、次のページの金毘羅池境石の上にあったようです。現在は、(旧)八幡西生涯学習センターの前にあります。

2019/06/01
この石も旧八幡生涯学習センター(市立教育センター)前から姿を消しました。いのちのたび博物館にメールで問い合わせたところお返事をいただき、地域環境の変化に伴い、現在はいのちのたび博物館で保管されています。(現状非公開
備 考

自然石ですが形状が玄武岩らしく金毘羅池境石とそっくりです。(天保15年は1844年)
サイズ゙
高さ 150×横 37×奥行 30(cm) 玄武岩


北九州の国境石の筆跡

 「豊前・筑前 国境石」(北九州市文化財調査委員会編・1969年)には北九州市内の筑前国境石の内、田代3基・欠損境石・三条・金毘羅池・八王子第一〜第四の計10基を二川相近の筆、八王子町第一・江の口の2基を相近の養子方作(二川友古)の筆とされていますので私もその記述に従っていましたが、常々疑問に思っていました。

 例えば、三条の国境石と金毘羅池の国境石の銘を見比べると全く別のものです。もちろん三条の石は籠字ですので単純に見比べるわけにはいけませんが、金毘羅池の石には全く相近らしさがありません。

    
金毘羅池                               三条

 「二川相近風韻」(二川瀧三郎/1936年)によると、相近以降二川家が書いた「従是西筑前國」の記録は1枚(他に北3・西北1枚)しか残されていません(幅壱尺五寸・長壱丈五寸)。大きな文字(象徴国境石)の分だけ記録を残したのかもしれませんが、藩の祐筆の仕事として書いたのである以上、二川家が書いたのであれば、小さな国境石の銘に関して全く記録に残していないのも不思議な話です。(この件詳しくはこちらに)

 北九州市内にある筑前国境石の内、相近の筆であると断言出来るのは三条のみのようです。特に金毘羅池と八王子町第一は、初め藩の事業として八王子町第二〜四と同じものを建てたが、洪水・山崩れ等で紛失してしまい、その後村仕事(村普請)として、そのあたりに転がっていた玄武岩の自然石を使い作リ直したのではないのでしょうか。

 同じように欠損境石も「豊前・筑前 国境石」に於いて、豊前側「木部市左ヱ門」とされていますが疑問です。特に「豊」の文字は他の文字と比べても頭でっかちでバランスが悪く、この文字が「豊前」と書くことが仕事の一つであったと言ってもよい藩の祐筆の文字なのか?と疑問を抱きます。

  
筑前                    欠損境石           豊前

 「豊前・筑前 国境石」に於いては単に建立年を見て、その時代の藩の祐筆の銘としてしまったのかもしれません。
2007/01/20 2007/07/14加筆


金毘羅池境石
文 字
表)  是 西 筑 前  
横) 文化十四年丁丑三月
            再建之
裏) 遠 賀 郡 中 原 村 抱

 
2019/06/01画像追加

  
場 所
 中央公園の池の中です。池の中に建っていたわけではなく、明治期以降になって池が作られたそうです。(当然、台座は近年のものですが)
備 考
 横・裏としていますが、正確には玄武岩らしい五角柱のような形です。(文化14年は1817年)

画像を目一杯拡大していますので、ちょっと荒れ気味の画像になってしまいました。

2019/06/01画像追加。
サイズ゙
高さ 150×横 37×奥行 30(cm) 玄武岩  (資料値転載)

中原 江ノ口の控石
文 字
従此控石江ノ口壱番御境石
東外面正半迄十五卯ノ
分当但壱間六尺五寸縄  
遠 賀 郡 中 原 村 抱
寛 政 九 年 八 月 建 之
 
場 所
 元々は戸畑区境川の河口近くあったそうです。現在は中原東の中原公民館にあります。
備 考
 位置・距離から北九州市立博物館にある中原江ノ口国境石控石として作られたようです。寛政9年は1797年。

この石と同じ石(記された方角・距離が違う)がもう一基あったそうですが、残念ながら行方不明です。尚、「北九州市文化財調査報告書 豊前・筑前 国境石」には所在不明になった石については載っていますが、この石に関しては記載がありません。

もう一基の銘文

従此控石江ノ口壱番御境石
東外面正半迄七十二
分当但壱間六尺五寸縄 
サイズ゙
高さ 88×横 27×奥行 30(cm) 花崗岩

中原 江ノ口
文 字
 従 是 西 筑 前 
 

  
「是」と「西」の間あたりで裏面に補強があります。    

 中井浜公園にあるレプリカ
場 所
 当時の境川河口にあった国境石です。現在は、北九州市立いのちのたび博物館に展示されています。
備 考
 相近の養子「二川 友古(方作)」の書といわれています。天保12年(1841年)に再建されたものとの記録があります。

裏面の補強については、明治以降に不要なものとして破却しようとして、目的を達さなかったのかもしれません。

元あった場所の境川をはさんだ(下に訂正があります)小倉北区中井浜公園内にレプリカが置いてありますが、レプリカといっても年季が入った石です。

博物館の許可を得て撮影させていただきました。

2023/04/01 追記
国立公文書館が公開する天保の筑前国絵図では、江ノ口の小名は見えますが、国境石については触れられていません。一方、同じく天保の豊前国絵図では「此所國境杭有」となっていますが、これは豊前の国境杭表記の中で唯一、筑前国内に筑前を向いて書き込まれており、もしかすると豊前の国境杭ではなく、筑前江ノ口の筑前国境石を指しているのかもしれません。

今昔マップから、八幡市 大正11年測図 大正14年11月25日発行を使い、境川河口の西岸を指すと、現在レプリカ石が置かれている中井浜公園に刺さります。どうやら河川改修されており、それに伴う区画整理があっているのでしょう。よって、レプリカ石が建っている場所は、現在は境川東岸で小倉北区ですが、筑前であり原位置もしくは原位置のイメージに近い場所と言えそうです。
サイズ゙
高さ 175×横 25×奥行 25(cm) 花崗岩



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