肥後の境石

玉名郡境石
文 字
 従 是 西 北 玉 名 郡

 
2019/07/08 画像追加

  

場 所

和水町岩 永ノ原台地。永ノ原台地は西南戦争時に田原坂と並ぶ激戦地だったそうですが、この境石はまさにそれを見ていたことになります。

場所がよくわからず、歴史の道の入り口に車を止めて、腹切坂をぶらぶら歩いて行きました。



ほんの5〜600mですが、豊前街道(初期の参勤交代道/確か後期になると、参勤交代は豊後に出て船便だったと記憶しています)が往時の雰囲気を残しています。割り(側溝)もコンクリートではなく石造りにしてあり、趣がある静かな道です。

現地(歴史の道上<東>)の案内板を読むと、急坂だったこともあり、ちょうど車社会に変わっていくタイミングでバイパスが出来たため、運よく取り残されたようです。
備 考

文字面だけを平らに仕上げてありますので、少し頭でっかちになっています。そのせいではないのでしょうが、かなり倒れ込んで来ています。倒れこんでいることや「つば」(頭)がついていることから、サイズを計測しにくい環境にあり、私は背面の高さを計っています。

サイズ゙
高さ 148(背面)×横 32×奥行 30(cm)
現地(歴史の道下<西>)にあった案内板では、高さ 153×横 32×奥行 31.5cm

山鹿郡境石
文 字
 是 ヨリ 北 山 鹿 郡
  天保八丁酉(※一字不明)二月建

 
場 所

玉名郡境石(和水町永ノ原)の横に建っていた案内柱には、この山鹿郡境石は山本郡との境に建っていたと書かれています。現在は山鹿市南島の県道55号線(旧豊前街道)沿いに建っていますが、南島の南側、鹿央町岩原・郷原・鹿央町持松・鹿央町米原は菊池郡です。(明治3年に山鹿郡へ編入。)

山本郡に属するのは、現在の山鹿市で言えば、鹿央町梅木谷・鹿央町北谷・鹿央町仁王堂・鹿央町霜野・鹿央町大浦・鹿央町中浦ですから、ざっくり言えば九州縦貫道の南側です。案内板に従えば、そのあたりからの移設なのでしょう。

 和水町 玉名郡境石の案内柱
備 考

天保8年=1837年。「従」(從)を「より」とひらがな表記してある境石は時々見かけます(糸島の福岡領境石鵜沼の尾張領境石)が、「ヨリ」とカタカナ表記は境石では記憶にありません。(一番下に参考のために貼ったの石のように、追分石・道標では珍しいことではない。)

この石がいつここに運ばれて設置されたのかはわかりませんが、下部の変色(画像左下)は、長年土中に埋まっていたことから起きたことのように思います。(ここに移設されてからの期間も長いようですから、別の要因かもしれません。)この部分が20cmあることを記しておきます。(境石としての本来の高さは130cmの可能性がある。)

 

※裏銘のうち、「酉」と「二」の間の一文字を読めていません。現地では単純に「年」と読んで疑わなかったのですが、家に帰って画像で確認すると(画像右上)、間違いなく「年」だとは言い切れませんでした。次に行く機会があれば、100回でも指でなぞってみます。

「指でなぞる」と書きましたのでついでに書くと、勝手にチョークを入れる行為は、文化財の破壊だと思っています。また時代を経て建ち続ける石は、地域のシンボルとして尊敬の対象になり、明確に何の神様ということはなくとも、素朴な信仰の対象になっている場合が多く、他人の信仰心を土足で踏みにじる行為でもあります。

実際に私が銘のある石を目にして、チョーク跡が無残に残っているとがっかりします。せめてきれいにふき取っていけよといいたいですが、ふき取っていくような良心の持ち主は、そもそも文化財にチョークを入れないでしょう。


参考:チョーク跡が残る道標兼法塔(関西地方)

全然違う趣旨でこの画像を貼りましたが、偶然この石の下部も土に埋もれていた跡があります。ただしこちらの石は、下から1文字半が土に埋まっていたようで、何らかの拍子に倒れて深く埋めなおした後、相当な年数の経過後、現在のコンクリート埋設にしたのか、今が本来に近いかたち(今でも半文字埋まっている)のようです。さらにいえば、この石の銘は「是ヨリ大川へ」とカタカナの「ヨリ」です。

サイズ゙
高さ 150×横 33.5×奥行 23(cm)

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