日露戦争旅順陥落後


 戦士の憂鬱


 旅順陥落後、解散だけは免れた第三軍司令部だったが、そのスタッフと隷下の師団の司令部スタッフはほとんど総入替になる。

 第七師団参謀の3人の内、石黒参謀長(奉天後の4月14日に異動)と竹上はそのまま留まるが、白水だけは1905(明治38)年2月7日付発令で、第四軍兵站参謀長に飛ばされる。

 兵站(補給・後方支援)は近代戦に於いてきわめて重要だ。兵站がうまくいくかが戦争の勝敗を決めると言っても過言ではない。しかし、日本に於いては、古来より兵站は非戦闘員がやるものだという認識があり、日本軍も兵站を重視していなかった。その結果が満州の地において、銃弾・砲の未着や移動部隊の欠食につながるのだが・・・

 しかも、来るべき奉天会戦で第四軍は中央を担当し、その最後の最後まで陣地に居座り前進しない計画になっていたから、第四軍兵站参謀長は確かに閑職と思われていたであろう。

 白水自身もこの人事に不満だったようで、以下の漢詩を作っている。



   乙巳の夏 予為第四軍兵站参謀長其居名混沌窩塵事粉々 

                                   不寝数日戯作一絶



 不名 埃 不功    始 覚 身 心 似大 空

 俯 仰 観 来 無別 事   混 沌 窩 裡 楽 天 翁





   乙巳(明治38年)の夏 予第四軍兵站参謀長となる、

    其の居を混沌窩(こんとんか)と名づく、

    塵事粉々(じんじふんぷん)として寝る能わざること数日、一絶を戯作す。



 名を求めず、功を貧らず、始めて覚ゆ心身大空に似たることを、

 俯仰観来れば別事なし、混沌窩裡の楽天翁



  漢文が読めない私が見ても「そんなにいじけなくていいのに」という感じだ。

 「塵事粉々不寝数日」わずらわしいことが色々あって数日寝付けないと言っている。

 名も功も捨てれば我が身は大空のようだ、周りを見渡しても特別なことは何もないと言い、

 自分の宿舎を「混沌窩」(混沌とした穴ぐら)と名付け、

  (宿舎<民家>の数が圧倒的に足りず実際に洞穴を掘って将校の居室としたようである)

 戦場にある現役陸軍中佐が「楽天翁」を名乗ってしまっている。

 いきなり旅順の激戦の中に放り込まれ、失敗(多数の死傷)の責任を取らされ、閑職に左遷させられてしまったことがよほど悔しく、そこから何とか自分自身切り替えようとしたのだろう。



 奉天会戦後の7月12日には再度異動になる。奉天会戦の激戦を終えて最前線の将校にかなりの死傷が出、数が足りなくなってきたのであろう。第三軍第九師団歩兵第六旅団所属の歩兵三十五連隊長になっている。今度は自ら先頭を切って戦場を走り回る職で、当然戦死の危険が高い職だが、鬱積していた職業軍人にとってこれほどやりがいのある仕事はなかったであろう。

 第三軍第九師団は、白水が台湾総督府陸軍参謀時代に台湾総督だった乃木が引き続き軍司令官、第六旅団副官として日清戦争に出征した際の旅団長大島久直が師団長だったので、あるいは引っ張ってもらったのだろうか?

 しかしこの時期、陸軍はその体力がほとんど尽きかけており、進攻する姿勢だけは見せているものの、小競り合い程度の戦闘しか起きなかった(もちろん小競り合いの中でも死傷者は出るのだが)。

 5月28日には海軍の威信をかけた日本海海戦の決着もついており、アメリカ主導により講和風も吹きだし、9月5日にはポーツマス条約が調印された。



 乃木希典の日記


 乃木の日記がある。この日記は明治6年の少佐時代からはじまり、西南戦争・日露戦争を経て明治45年の学習院校長時代まで続くが、非常に途切れ途切れにしか残っていない。

 例えば旅順攻囲戦の日記は、手帳に鉛筆で書き込んであるだけで、作戦のことにはほとんど触れられてなく(そのために参謀がいたわけだから、そういうことは自分の日記に記す必要がなかったのだろう)、簡潔にどこに行った・誰が来た・何が送って来た等が記されている。

 それは長男勝典に続き、次男保典が旅順の地で戦死した時でさえ変っていない。

 この日記の旅順時代を読んで面白いのは、日本国内いたるところから旅順の乃木に手紙が送られてきている。内容までは書かれていないが激励・叱責諸々あったのであろう。その内の多分乃木の心に留まったものだけであろうが、乃木は日記に住所と名前を記している。

 さらに、お菓子がやたら往来している。「饅頭を食べた」だの「どこの司令部を尋ねた時にカキモチを持って行った」だの、お菓子といっても、干し柿・のし梅などの素朴なものばかりで、目をひくのはカステラくらいだろうか。お酒(シャンパン・ウィスキー等)もよく出てくるが、お酒よりお菓子のほうが出てくる回数は多いだろう。

 極限状態にある者にとって、甘いお菓子が肉体的にも精神的にも効果があるのは、今も昔も変わらない。



 さて、この乃木の旅順攻囲戦時期の日記にも白水が2回ほど出てくる。もちろん、戦争中であり簡潔に用件しか出てこないが、以下に紹介する。どちらも12月中旬だから、203高地が落ち、旅順に対する掃討戦を行っていた時期だ。(原文は漢字カタカナ交じり)



 12月14日『夜来雪五寸積るこの日は、第九師団の励督に赴き、二龍山・松樹構を視察して司令部に帰っている。『第七師団より白水参謀来る、前進の事。

 12月21日『曇』、この日は朝から第七師団司令部に赴き、203高地に登り『保典の墓に詣す』そして、『斎藤少将・白水参謀と別れ、海軍十五珊《サンチ・砲》の砲床を見て帰る。』

 次男の墓に一人で参ることさえも私的なことして遠慮していたのかもしれない。乃木らしい。斉《太郎歩兵第十四》旅団長か白水、もしくは付いていた幕僚の誰かから「この近くですよ。寄っていかれません?」と勧められてはじめて寄ったのであろう。

陸軍大将伯爵 乃木希典

 台湾総督時代の日記も残っていれば、2人の親交がもっと色濃く出たのだろうが、残念ながらその期間は残っていない。



谷寿夫と機密日露戦史


 このホームページには多くの資料を利用させていただいているが、日露戦争に関しては谷寿夫著「機密日露戦史」に依るところが大きい。「機密日露戦史」を主史料に選んだのは、その内容が一番「坂の上の雲」に近く、司馬も「坂の上の雲」執筆時に主要な史料として利用したであろうと思われるからだ。再刊されており現在は捜すのが難しい本ではないが、司馬が「坂の上の雲」を執筆した時には、どこででも手に入る本ではなかったようだ。

 著者の谷寿(壽)夫(執筆時大佐/後に中将)について触れておこう思う。

 谷は士官候補生を明治36年11月30日15期で卒業している。日露開戦が翌37年2月だからすぐに出征、その後陸軍大学校入学、参謀本部部員、イギリス駐在武官を経て、大正8年4月より断続的に陸軍大学校兵学教官(大正14年より海軍大学校教官も兼補)を勤め、大正14年頃から新設された陸軍大学校専攻科講述用テキストとして「機密日露戦史」を書いている。

 本書はあくまでも講述用テキストなので、一部に「口述のみに留める」とか「研究の外とする。」等記述されていない部分がある。また人名についても不名誉な場合には「某参謀」等ぼかしてある場合もある。

 その後、谷は1935(昭和10)年第六師団長となり、1937(昭和12)年7月28日〜12月28日の南京攻略戦を戦う。

 昭和14年8月1日に予備役となるが、前任の藤井洋治中将が原爆の犠牲となったため、昭和20年8月12日(終戦の3日前)急遽召集され中国管区司令官・第五十九軍司令官となる。

 戦後、南京大虐殺の戦犯として中国側に身柄を引き渡され、南京裁判にかけられ昭和22年4月26日処刑された。谷は裁判の申弁書で「掃討戦を起こしたのは第十六師団であり、第六師団は無関係。」と主張している。

 私は恥ずかしながら南京事件については不勉強であり、ここで語ることはできない。

 このホームページでは「機密日露戦史」の記述のうち、「坂の上の雲」で引用済みの部分はなるべく重複しないようにと思ったが、重要な部分でそういうわけにもいかずかなりの部分で重複してしまった。



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一瞬の静寂
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