3月29日、第十四師団(栗田直八郎中将)に出征命令が下った。第十四師団は4月の下旬にはシベリア入りし、順次第十二師団と交代していった。
白水は1919(大正8)年4月1日付で第十二師団司令部付(留守師団長)を拝命している。参謀本部は長くなりつつあるシベリア出兵を見据えて、第十二師団を第十四師団に、第七師団と第十六師団を、第三師団と第五師団をそれぞれ交代させるべく派遣しつつあった。
第十二師団正門跡(旧 鉄<くろがねもん>門) 小倉城
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現地案内板より
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第十二師団司令部跡(小倉城内)
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この第十二留守師団長人事は、白水の近い将来の第十四師団長含みで行われたようで、同年11月1日付で第十四師団長を拝命した。
白水の第十四師団長就任を伝える記事
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師團長更迭
白水中将十四師團長
西伯利(シベリア)出征中なる第十四師團長
栗田直八郎中将は東京衛戍総督に
第十二師團司令部附白水淡中将は
第十四師團長に親補せらるべく一日
之が発表を見るに至るべし
(読みやすいように改行しています)
※淡に「たん」とルビが振ってある |
大正8年11月1日付
東京朝日新聞(2面)
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日本の胸算用としては、バイカル湖以東(東シベリア)を日本の勢力下に置き、その西(西シベリア)にオムスク政府を自由主義国家の緩衝地帯とし、レーニン政府の東進を防ぐというものだった。
しかし、オムスク政府は、赤軍の進撃を受けてなすすべなく後退を繰り返し、11月14日にはオムスクが陥落してしまう。過激派軍はオムスクを越え、12月の下旬にはイルクーツクに迫っていた。アメリカはオムスク政府の崩壊を見て、シベリア出兵の意義はなくなったとして撤兵を決めた。日本も単独でのシベリア駐留はなりがたく、日本政府はチェコ軍の撤退完了を持って撤兵することを決定した。しかしこのことはまだ内密であった。
混乱の中、日本軍は黒龍州と沿海州北部に第十四師団・沿海州南部に第十三師団を置いて、ここを防御線とみなし、あくまでもシベリア鉄道の安全と利権を守ろうとした。
白水第十四師団長は隷下の2旅団のうち、第二十七旅団(山田軍太郎少将)をウスリー鉄道からブレーヤ河までのハバロフスクを含む東部に、第二十八旅団(山田虎夫少将)をブレーヤ河からブラゴエシチェンスク方面の西部に充て、警備に付かせていた。
革命を支持する過激派と、反革命ロシア軍は、各地でいざこざ・戦闘を起こし始めた。浦潮派遣軍司令官大井成元中将(1919<大正8>年8月21日大谷大将の後を受けて就任)は、日本政府・参謀本部の方針に従い、ロシアの内政には関せずの方針だったが、町は次々に赤化して行き、1月31日ついにウラジオストクも沿海州自治会(ウラジオストク臨時政府)の手に落ちた。
同日、浦潮派遣軍司令官大井中将は、隷下の全軍に次の命令を出す。
「@派遣軍駐在の目的はチェコ軍救出と居留民保護である。この目的を達するために鉄道
及び電線を確保し、必要があれば駐屯地付近の治安を維持する。
Aその目的を妨害したり、日本軍に敵対行動を取らない限り、いかなる政治団体も攻撃し
ない。
B以下略」 (浦潮命十五号)
浦潮派遣軍は完全にロシア内政に対して中立の方針を打ち出した。そして、大井中将は撤兵の準備に取り掛かる。
この時日本軍は、第五師団がザバイカル州に、第十四師団が黒龍州に、第十三師団が沿海州に配置されていた。このうち第五師団が一番内陸部(西部)の赤軍に近い地点にいたのだが、第五師団の引き上げはそんなに問題ではなかった。というのも、南下して黒龍江(アムール川)を渡れば、そこはもう満州だからである。第十三師団は赤軍から一番離れた地点にいるので、赤軍の東進を見ながら、ウラジオストクより撤退することが出来る。
問題は、黒龍州の黒龍鉄道沿いに、東西に伸びきってしまっている第十四師団の撤兵だった。そこで大井中将は黒龍州放棄もやむなしと考え、ブラゴエシチェンスク在駐の白水に「近々ハバロフスクまで師団を下げる予定だ」との内報を与えた。
2月4日、第十四師団長白水は、浦潮派遣軍司令官大井中将に至急電を打つ。「黒龍州の状況悪化す」と。
ブラゴエシチェンクスでは、コサック・市会・州自治会の穏健三派が、合同政府を立ち上げたが、過激派は地方大隊・コサック連隊の兵に反乱を呼びかけた。日本軍の中立を見て反過激派の行く末に見切りをつけた兵士は、次々に蜂起し、兵舎には赤旗が立っていった。
市内に過激派が進入し始め、将校・公務員・有産知識階級は日本軍兵営に逃げ込み、下層市民は市内に赤旗を立てた。白水の耳には「過激派が戦闘準備をしている。」との情報も入ってきた。白水は沿線上に小部隊を駐留させておくのは危険だと考え、各部隊に原隊復帰を下命した。
白水は大井中将に打電する。「今やほとんんど意義のない黒竜州駐留から撤退するなら今しかない。現在の小康状態のうちに撤退を完了すべきだ。」と。第五師団長の鈴木壮六中将からも同じように撤退の具申電報が大井の元へ来た。
ところが大井の元へ田中義一陸相からの「沿道の治安を確保する名目で、ザバイカルからウラジオストクの沿線上、貴官の定める区域において、過激派の存在を許さない旨宣言せよ。」との陸相指示が届く。現場の師団長の判断とは逆に、陸相はまだ過激派を追い出して、緩衝国家を設立する夢想を捨てていなかった。
大井も白水もそして鈴木も、撤退が決まっている以上、そして目の前に過激派が迫っている以上、さらに過激派とも敵対するなと言われている以上、兵を無駄に傷つけず、居留民を安全に保護できる余裕があるうちに、日本軍の威信をかけて堂々と撤退したかった。しかし、参謀本部・内閣は緊迫した事態を理解しようとはしていなかった。
その後も白水と浦潮派遣軍の間で電報が交わされるが、陸相指示を受けている大井としては、白水の撤退を承認するわけにはいかない。
白水は独断撤兵さえ考え始めた。それに対して浦潮派遣軍司令部の若手参謀達からは、「白水は臆病風に吹かれたのではないか」との声も上がったが、もちろん司令官大井中将は、黒龍州の険悪な状態を把握しているので、『批判する一部の幕僚をたしなめた。』(平和の失速)
その間にも、革命軍は鉄道を使ってどんどん東進してきた。2月26日にはついにハバロフスクにも革命軍を乗せた列車が到着し、「軍革命司令部」が全権を掌握した。
同日、参謀総長からの黒龍州撤退許可が出た。大井は早速成文化して各師団に下命した。前記の通り、ハバロフスクの西側に配置されていたのは主に第二十八旅団であったが、2月22日の山田(虎)旅団長のハバロフスク到着以降順調に撤兵は進み、3月15日には師団本部も白水と共にブラゴエシチェンスクからハバロフスクに到着した。
しかしこの間、白水を悩ますもう一つの事件が北方で発生していた。
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