西伯利(シベリア)出兵


シベリア略図



ロシア領  中国領
大正9年4月19日付東京朝日新聞

 大正

 大正期の日本と日本を取り巻く状況である。

 山縣を始めとする怪物<元老>はまだ跋扈していたが、明治の終わりとともに藩閥政治は終わりを告げ、政党政治に移行していく、いわゆる大正デモクラシーの時代である。

 しかし、1913(大正2)年まで陸海軍大臣現役武官制を強いており、明治45年第二次西園寺(公望)内閣時に、歳出の1割減を目指す西園寺と、強行に2個師団増設を求める陸軍及び上原勇作陸相の間で、元老をも巻き込んで壮絶な綱引きが行われたが、2個師団増設を拒否された上原は辞職、陸軍は後任の陸相を出さないという暴挙にでる。組閣の出来なくなった西園寺内閣は総辞職した(その後、山本権兵衛内閣時に勅令の改正によって現役武官の「現役」の文字を削る)。陸海軍の協力なくては組閣が出来ない時代だった。

 世界に目を移すと、1914(大正3)年にドイツ・オーストリア・オスマントルコ・ブルガリアの同盟国と、イギリス・フランス・ロシアの連合国の間で、ヨーロッパをニ分する第一次世界大戦が勃発した。

 日本は日英同盟に基づき連合国に加わったものの、遠いヨーロッパでの戦争であり、出兵は青島・膠州湾のドイツ租借地や南洋諸島の攻略、インド洋・地中海での船団の護衛等限定的に留まり、逆に戦争特需に沸いていた。

 ところが1917(大正6)年のロシア革命によって、ロシアが連合国から脱落してしまう。西部戦線(対ロシア)への憂いがなくなったドイツは、東部戦線に兵力を集中できるようになる。さらに、ウラジオストクに集積されていた膨大な軍需物資が、ドイツの手に渡る可能性も出てきた。

 当時の、ウラジオストクを始めとするシベリアの各地には、多くの日本人が住み、漁業や森林伐採を中心とする事業を展開していた。レーニン政府は成立したが、辺境の地シベリアでは、一旦入り込んだ赤軍が白軍に追い出され、レーニンを支持する革命派・白軍・コサック入り乱れての、無秩序状態になりつつあった。日本政府・軍部としては、ロシア全土が赤化してしまい、日本や日本の利権である満州が、直接共産化の波にさらされることはなんとしても避けたく、この際、シベリアに緩衝国家を建設することが望ましかった。

 連合国側は1918(大正7)年1月、日本・アメリカにシベリアへの出兵を要請する。これに反応して海軍は1月12日、居留民保護の名目で戦艦石見をウラジオストクに派遣、4月にウラジオストク在住の日本人が強盗殺人に遭うと、陸戦隊1個中隊を上陸させた。

 しかし、これはあくまでもウラジオストクに限っての海軍陸戦隊の上陸であり、日本政府・陸軍はシベリア出兵を躊躇していた。一口にシベリアと言っても広大であり(日本の4倍以上、黒龍州<アムール州>だけでほぼ日本と同じ面積)、その広大な森林地帯にポツンポツンと町がある。町と町の間には広大な森林とぬかるんだ大地があるだけだ。移動手段は鉄道と船しかなく、その船も極寒の冬季には沿岸・河川が凍結して利用不能となる。中途半端な出兵はかえって日本及び陸軍に大きな傷を残す。

 度重なる英・仏の出兵要請に対して、アメリカはレーニン政府が共和政体を取っていたこともあって様子見を決め込み、出兵に消極的であった。日本政府・軍部は出兵に傾いていたが、アメリカは日本の領土的野心を見透かして、日本の単独出兵に同意しなかった。

 そこで英国はチェコ国民軍救援という名目を見つけた。チェコは第一次世界大戦中オーストラリア・ハンガリー帝国の支配下にあったが、第一次世界大戦を独立の好機とし、チェコ国民軍は決起し、ロシア軍の支配下に入り、ウクライナ戦線に配置されていた。ロシアが戦線を離脱した後、この5万人のチェコ国民軍をフランス軍に移すことにしたが、移動手段不足のために、また反革命軍に加わるのではないかと疑われ、シベリア各地のロシア革命派に移動を妨害され、各駅(町)ごとに立ち往生していた。

 ここで不測の事態が発生し、チェリアビンスクでチェコ軍とロシア側との衝突が起こる。この争いはすぐに周辺の町にも派生した。歴戦のチェコ軍はシベリア鉄道を支配下に置くことになった。

 このチェコ軍救出の名目での出兵ならば、日本は他国に領土的野心を疑われずにすみ、アメリカもまた人道を前面に持ち出されれば反対しにくい。

 8月の始めにはウラジオストク共同出兵が決定した。

 政府のシベリア出兵決定とほぼ時を同じくして、米騒動が発生する。前年まで一升20銭程度だった米価が、第一次世界大戦の好景気によるインフレ、シベリア出兵による米の需要増をにらんでの売り惜しみから、この7月末には一升50銭を越えた。2.5倍である。

 富山県のおかみさんたちの実力行使はやがて全国に波及していく。

 この米騒動の記録を読んで面白いのは、もちろん一部には暴徒化した地域もあって、略奪・放火事件も起きたりしたが、そのほとんどが、あくまでも米価の引き下げ要求であり、略奪や暴動ではない。多くは米屋を取り囲んで討ち入っても、米を強奪するのではなく、店主に安売りすることを約束させて帰ってきている。当時の日本の市民層がいかに純朴であったかであろう。

 一時過熱した米騒動も、政府の政策によって米価が引き下げられたことで、徐々に沈静化していく。

 シベリア出兵

  シベリア・ウラジオストクを漢字表記すると、現在ならば西比利亜・裏塩であるが、上に引用した地図にもあるように、当時は軍・マスコミともそれぞれ西伯利・浦潮と表記していた。

  ここでは当時の表記に従いたい。


 前記の通り、アメリカは何よりも、日本のシベリアに対する領土的野心を警戒していた。度重
なる 交渉の結果、このウラジオストク出兵は米・英・仏・伊から12,000人、地理的に近い日本
から1 2,000人、これにチェコ軍・ロシア反革命軍、さらには若干の中国軍の八ヶ国軍とし、そ
の指揮を、一番派兵人数が多い、日本軍浦潮派遣軍司令官大谷喜久蔵大将が執ることとなっ
た。

 しかし、日本はウラジオストクへの限定出兵に留まる気は更々なく、ウラジオストクに約束の
2.5倍の3万人を、さらにウラジオストクの安定には、バイカル湖以東のシベリア鉄道確保が
必 要であると考え、満州在駐の第七師団(師団長藤井幸槌中将)をザバイカル州に、さらに内
地から第三師団を派兵した。12,000人が10万人規模の出兵にすり替わってしまっていた。

 ウラジオストクに上陸した第十二師団は、チェコ軍救出のため、ウスリー鉄道沿いに、過激派
軍との戦闘を繰り返しながらハバロスク方面を目指し、9月6日にはハバロフスクを陥落した。
時を 同じくして、海軍も北方の黒龍江(アムール川)河口の街ニコラエフスクに上陸して、ハバ
ロフスク に至る黒龍江海運の確保に着手した。

 無秩序化していたシベリア各地の市民(特に知識層)は日本軍を歓迎した。対する赤軍過激
 派はしょせん寄せ集めであり、兵士としての錬度が低く、また指揮系統もはっきりしないため、
 日本軍に蹴散らされて撤退を繰り返す。

 ウラジオストクから北上してきた第十二師団は、ハバロスクから黒龍鉄道沿いに西に進路をと
る。第七師団第十四旅団もまた黒龍江のラインに進出した。

 浦潮派遣軍はシベリア(ザバイカル州以東)の掌握を宣言し、参謀本部は在シベリア軍の守
備範囲を以下のように定めた。

 第十二師団(浦潮派遣軍) 沿海州・黒龍州

 第七師団           ボルジャ河以東のザバイカル州

 第三師団           ボルジャ河以西のザバイカル州

 11月11日、同盟国の中で最後まで戦いを継続したドイツは、休戦条約に調印する。ここに
第 一次世界大戦は終結を見た。チェコ軍の移動も日本陸軍のシベリア制圧で解決しつつあ
り、ウ ラジオストクの軍需物質もドイツの手に渡ることはなくなった。国際的なシベリア出兵の意
義は消えうせつつある。

 しかし、レーニン政府はまだロシアを統一できずにいた。シベリアにはいくつかの地方ごと
に、 反革命ロシア人政府が乱立していた。英・仏はウラル以東に反革命政府(白ロシア)を作く
り、レーニン政府の東進を食い止めたい。アメリカはその性格上、ロシアのことはロシア人が決
めれ ばいいという立場であった。

 11月10日には、全ロシア臨時政府が誕生し、一応シベリアを統一する政府が出来た。しか
し、この全ロシア臨時政府も内紛が続き、全ロシア政府と極東政権に分裂していく。

 ここから地獄が始まる。

 日本軍の進攻で、一旦は四散した過激派(ドルゴセーエフスキー軍)は、冬季に入り再度進入
し始めていた。翌1919(大正8)年に入り、黒龍州に過激派部隊が出没しだした。日本軍は過
激派出没の報に出動するが、情報の精度が悪い上に、駅・村ごとに少数の兵を分散させている
ため兵力を集中できず、-40℃を下回る極寒の地でのこともあり、連戦連敗となり、死傷者・凍
傷者の数だけがいたずらに増えていった。

 過激派側も去年の秋とは異なり、組織化されており、巧妙になっていた。1,000人単位で町を
 襲い「次はどの町を襲う」と揚言し、町が襲われたという報を聞いて駆けつける小隊単位の日
本軍を待ち伏せし、度々全滅させた。

 「シベリア出征日記」松尾勝造(第十二師団第十二連隊第二大隊八中隊二小隊所属)による
と、敵は両側の山の上で待ち伏せし、その間の谷に日本軍を誘い出し、日本軍の先行部隊が
通過するのをやり過ごし、本隊が谷に差し掛かった頃に一斉射撃したり、少数の日本軍を両
翼 から包囲するように攻撃し、全滅させた。パルチザンのゲリラ戦というよりも、より軍隊として
高度な作戦能力があったことがわかる。

 度重なる全滅に、第十ニ師団は兵力を集中し、敵過激派を追い詰めていく。日本軍の猛追を
受けた過激派は解体され、小グループに分れて行った。第十二師団はこの小グループをも完
全に追い詰めようとした。


 第十四師団長


 3月29日、第十四師団(栗田直八郎中将)に出征命令が下った。第十四師団は4月の下旬にはシベリア入りし、順次第十二師団と交代していった。

 白水は1919(大正8)年4月1日付で第十二師団司令部付(留守師団長)を拝命している。参謀本部は長くなりつつあるシベリア出兵を見据えて、第十二師団を第十四師団に、第七師団と第十六師団を、第三師団と第五師団をそれぞれ交代させるべく派遣しつつあった。

第十二師団正門跡(旧 鉄<くろがねもん>門) 小倉城
現地案内板より
第十二師団司令部跡(小倉城内)


この第十二留守師団長人事は、白水の近い将来の第十四師団長含みで行われたようで、同年11月1日付で第十四師団長を拝命した。


白水の第十四師団長就任を伝える記事
 師團長更迭
  白水中将十四師團長
西伯利(シベリア)出征中なる第十四師團長
栗田直八郎中将は東京衛戍総督に
第十二師團司令部附白水淡中将は
第十四師團長に親補せらるべく一日
 之が発表を見るに至るべし

  (読みやすいように改行しています)

  ※淡に「たん」とルビが振ってある 
大正8年11月1日付
東京朝日新聞(2面)


 日本の胸算用としては、バイカル湖以東(東シベリア)を日本の勢力下に置き、その西(西シベリア)にオムスク政府を自由主義国家の緩衝地帯とし、レーニン政府の東進を防ぐというものだった。

 しかし、オムスク政府は、赤軍の進撃を受けてなすすべなく後退を繰り返し、11月14日にはオムスクが陥落してしまう。過激派軍はオムスクを越え、12月の下旬にはイルクーツクに迫っていた。アメリカはオムスク政府の崩壊を見て、シベリア出兵の意義はなくなったとして撤兵を決めた。日本も単独でのシベリア駐留はなりがたく、日本政府はチェコ軍の撤退完了を持って撤兵することを決定した。しかしこのことはまだ内密であった。

 混乱の中、日本軍は黒龍州と沿海州北部に第十四師団・沿海州南部に第十三師団を置いて、ここを防御線とみなし、あくまでもシベリア鉄道の安全と利権を守ろうとした。

 白水第十四師団長は隷下の2旅団のうち、第二十七旅団(山田軍太郎少将)をウスリー鉄道からブレーヤ河までのハバロフスクを含む東部に、第二十八旅団(山田虎夫少将)をブレーヤ河からブラゴエシチェンスク方面の西部に充て、警備に付かせていた。

 革命を支持する過激派と、反革命ロシア軍は、各地でいざこざ・戦闘を起こし始めた。浦潮派遣軍司令官大井成元中将(1919<大正8>年8月21日大谷大将の後を受けて就任)は、日本政府・参謀本部の方針に従い、ロシアの内政には関せずの方針だったが、町は次々に赤化して行き、1月31日ついにウラジオストクも沿海州自治会(ウラジオストク臨時政府)の手に落ちた。

 同日、浦潮派遣軍司令官大井中将は、隷下の全軍に次の命令を出す。

「@派遣軍駐在の目的はチェコ軍救出と居留民保護である。この目的を達するために鉄道
  及び電線を確保し、必要があれば駐屯地付近の治安を維持する。

 Aその目的を妨害したり、日本軍に敵対行動を取らない限り、いかなる政治団体も攻撃し
  ない。

 B以下略」 (浦潮命十五号)

 浦潮派遣軍は完全にロシア内政に対して中立の方針を打ち出した。そして、大井中将は撤兵の準備に取り掛かる。

 この時日本軍は、第五師団がザバイカル州に、第十四師団が黒龍州に、第十三師団が沿海州に配置されていた。このうち第五師団が一番内陸部(西部)の赤軍に近い地点にいたのだが、第五師団の引き上げはそんなに問題ではなかった。というのも、南下して黒龍江(アムール川)を渡れば、そこはもう満州だからである。第十三師団は赤軍から一番離れた地点にいるので、赤軍の東進を見ながら、ウラジオストクより撤退することが出来る。

 問題は、黒龍州の黒龍鉄道沿いに、東西に伸びきってしまっている第十四師団の撤兵だった。そこで大井中将は黒龍州放棄もやむなしと考え、ブラゴエシチェンスク在駐の白水に「近々ハバロフスクまで師団を下げる予定だ」との内報を与えた。

 2月4日、第十四師団長白水は、浦潮派遣軍司令官大井中将に至急電を打つ。「黒龍州の状況悪化す」と。

 ブラゴエシチェンクスでは、コサック・市会・州自治会の穏健三派が、合同政府を立ち上げたが、過激派は地方大隊・コサック連隊の兵に反乱を呼びかけた。日本軍の中立を見て反過激派の行く末に見切りをつけた兵士は、次々に蜂起し、兵舎には赤旗が立っていった。

 市内に過激派が進入し始め、将校・公務員・有産知識階級は日本軍兵営に逃げ込み、下層市民は市内に赤旗を立てた。白水の耳には「過激派が戦闘準備をしている。」との情報も入ってきた。白水は沿線上に小部隊を駐留させておくのは危険だと考え、各部隊に原隊復帰を下命した。

 白水は大井中将に打電する。「今やほとんんど意義のない黒竜州駐留から撤退するなら今しかない。現在の小康状態のうちに撤退を完了すべきだ。」と。第五師団長の鈴木壮六中将からも同じように撤退の具申電報が大井の元へ来た。

 ところが大井の元へ田中義一陸相からの「沿道の治安を確保する名目で、ザバイカルからウラジオストクの沿線上、貴官の定める区域において、過激派の存在を許さない旨宣言せよ。」との陸相指示が届く。現場の師団長の判断とは逆に、陸相はまだ過激派を追い出して、緩衝国家を設立する夢想を捨てていなかった。

 大井も白水もそして鈴木も、撤退が決まっている以上、そして目の前に過激派が迫っている以上、さらに過激派とも敵対するなと言われている以上、兵を無駄に傷つけず、居留民を安全に保護できる余裕があるうちに、日本軍の威信をかけて堂々と撤退したかった。しかし、参謀本部・内閣は緊迫した事態を理解しようとはしていなかった。

 その後も白水と浦潮派遣軍の間で電報が交わされるが、陸相指示を受けている大井としては、白水の撤退を承認するわけにはいかない。

 白水は独断撤兵さえ考え始めた。それに対して浦潮派遣軍司令部の若手参謀達からは、「白水は臆病風に吹かれたのではないか」との声も上がったが、もちろん司令官大井中将は、黒龍州の険悪な状態を把握しているので、『批判する一部の幕僚をたしなめた。』(平和の失速)

 その間にも、革命軍は鉄道を使ってどんどん東進してきた。2月26日にはついにハバロフスクにも革命軍を乗せた列車が到着し、「軍革命司令部」が全権を掌握した。

 同日、参謀総長からの黒龍州撤退許可が出た。大井は早速成文化して各師団に下命した。前記の通り、ハバロフスクの西側に配置されていたのは主に第二十八旅団であったが、2月22日の山田(虎)旅団長のハバロフスク到着以降順調に撤兵は進み、3月15日には師団本部も白水と共にブラゴエシチェンスクからハバロフスクに到着した。

 しかしこの間、白水を悩ますもう一つの事件が北方で発生していた。



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尼港事件
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