文 字
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(数文字不明) 石(と思える「ノ口」) 領
表) 分 境
(数文字不明) 路 領 |
裏) 嘉 (数文字不明) 十二月
建之 |
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場 所
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神戸市西区神出広谷(明石郡広谷村)と加古郡稲美町草谷(加古郡草谷村)の境です。 |
備 考
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明石領明石松平家8万石(10万石格)と姫路領酒井家15万石の、親藩とたびたび老中・大老を勤めた譜代という、領境争いを起こしそうにない二家(以下藩と表記)です。
この領境石が建つ発端となったのは、嘉永4(1851)年に、加古郡の加古新村および田岡新村と同郡の草谷郷8ヶ村(草谷・下草谷等)の間で、加古大溝の利水を巡って争いが起こっています。(いなみ野ため池ミュージアムから「”いなみ野”台地の開発の歴史」を参考にしました。リンク先はPDF、P15に記載。)
これを見ると、最初は姫路藩加古郡内のいざこざだったようですが、いったん揉めだすと一つ一つは小さなことでも、積年の不満が爆発し、加古大溝の取水点である明石藩側の広谷村も巻き込まれていったのでしょう。その結果、近隣の村の仲介による話し合いを経て、4基の両藩並記領境石を建てたようですが、そのうちの2基が現存しています。
領境争いをしそうにないと書きましたが、「”いなみ野”台地の開発の歴史」を見ると、美嚢郡側も含めてたびたび衝突しています。この地域は新田村が多いことから盛んに開拓が行われたようですが、現在もため池が多く残る地域であり、台地であればこそ水では絶えず苦労し、水が火種になったことがうかがえます。
それでも最終的に両藩並記の領境石を建てるのは、村人の間で見解の相違はありましたが、お家同士は穏便に話し合い、確認しただけのことですよということでしょうか。領境石は、領境よりも若干下げて自領内に収まるように建てられるものですが、この両藩並記の領境石は、逆にちょうど境界の中心に石の真ん中が来るように建てなければならず、それはそれで細かな作業だったことでしょう。
表面の「東明」「西姫」・裏面の「永六癸丑年」と彫られていたであろう部分は、削れて文字が読めません。砂岩なので風化しやすいということはあるのかもしれませんが、次に紹介する100mしか離れていない川端のものは完品で残っており、こちらの道端のものは意図的に削られたようにも見えます。
この両領境石は地中に埋まっていたものが見つかり、再建されたそうですから、明治維新以降に新政府の指示で撤去され、壊すのは忍びなくて埋設したのでしょう。地中に埋まっていればなおさら表面は剥離しないでしょうから、人為的に削ったものなのでしょうか。
また、川端石の裏面には「改正」の文字がありますが、道端石にはそれがありません(書かれていた痕跡がない)。これに関しては、今のところは推測する手立てがありませんので、その事実を書き留めておくだけです。
今昔マップから 三木 明治43年部修 明治45.3.30発行で見た、南(下)が道端石、北(上)が川端石。 |
サイズ
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高さ 140×横 30×奥行 28(cm) 砂岩 2024/01/01 |