怡土郡内の他領について


 筑前黒田家に関して、よく「ほぼ筑前一国の領地」と言われますが、その「ほぼ」から外れる部分が、ここ怡土郡西部(糸島郡二丈町・
前原市<現在は両者糸島市>)です。

 慶長2年(1597年)小早川領の一部だった怡土郡西部36ヶ村※1を、当時公領だった博多と交換して、ここ怡土郡西部が公領とな
ります。 その後、初期は肥前唐津領となり、さらに中津藩や対馬藩にこの土地の一部を与えますが、領地の場所や広さは時代によっ
て度々替わったようです。

 ちなみに、この時(慶長2年時)の小早川家当主は小早川秀秋ですが、秀秋は豊臣秀吉の妻ねねの兄・木下家定の五男として生ま
れ、秀吉の養子となり、さらに小早川隆景の養子となった人です(秀吉は毛利本家に養子に入れたかったようだが、本家を乗っ取られ
ることを察した小早川隆景の機智で隆景の養子となる/慶長2年時16歳ほど)。しかもこの2年程前には、秀次事件に連座して領地
(小早川領ではなく自領)の丹波亀山を没収されたりもしています。

 このあたりの、秀秋に与えた領地の切り貼りは、秀吉の思いのままにという感じなのでしょう。

 筑前國續風土記 巻ノ二十二 怡土郡には、福岡領に属さない村の記述があります。筑前國續風土記の完成が宝永6(1709)年、
唐津領の土井治世が元禄4(1691)年から宝暦12(1762)、公領の一部が豊前中津領になるのが享保2年(1717年)、対州領
なるのは1818年(文化15年→文政元年)です。

 東村 古は河上東村という 
 本村 古は河上本村という 
富 村
有田村
平原村
蔵持村
八島村
香力村
飯原村
長野村
小蔵村
瀬戸村
松国村
波呂村
長石村
満吉村
唐原村
片峰村
石崎村
武 村
神在村
岩本村
加布里村
田中村
濱窪村
松末村
片山村
深江村
河原村
淀川村
一貴山村
真名子村
堀村
佐波村
大入村
※2公領

※2縦書きを横書きにしたたため、左右がおかしくなってしまいました。「以上」と読み替えてください。

  福井村  
 福井浦 福井村の内  
  鹿家村  
吉井村
※2唐津領
土井氏領之○福井村の内、公領少しこれ有り

 ※1慶長2年(1597年)時には36村でしたが、風土記に書かれた村の数は38村(と1浦)です。また以下の公領・各領を足すと37
村(と1町・2浦)になります。村といっても総戸数10戸以下だったりしますので、災害や干ばつで立ちいかなくなって合併したり、また新
田開発等で新屋(家)が建ち、ある程度戸数がまとまれば本村から独立することもあったのでしょう。

 


 
 豊前中津領
有田蔵持飯原長野小倉・川付・瀬戸神在【以上現前原市<現在は糸島市>】 
松国波呂長石満吉石崎片峰河原松末一貴山深江・深江町・淀川佐波大入【以上現二丈町<現在は糸島市>】
の計23ヶ村1町

 奥平時代の中津藩は10万石ですが、現在の大分県中津市周辺に約6万石、広島県神石郡三和町(現在は神石高原町)を中心に
約2万石、そして福岡県糸島郡二丈町<現在は糸島市>に17,908石と三カ所に分かれた領地でした。

 享保2年(1717年)小笠原家の改易により、奥平昌成が丹後宮津から転封してきます。奥平家は丹後宮津に9万石を持っていたの
ですが、中津には6万石しかなかったため(ちなみに小笠原時代は8万石)、公領をくっつけて無理矢理10万石にしたのでしょう。

 この3つの領地は三御領と呼ばれていましたが、遠く離れてバラバラにあったため、藩政の運営にはかなり苦労があったようです。 
代官所は最初は武(二丈町<現在は糸島市>)にありましたが、寛政11年(1799年)に深江(二丈町<現在は糸島市>)に移転していま
す。

 怡土郡の中津領は、幕府がここに持っていた36ヶ村※1の内の23村(と1町)ですので、大部分と言ってもいいのでしょう。

 武代官所跡地

 深江奉行所跡

 船着き場

 深江の奉行所跡は唐津街道から離れた海岸のすぐ側、高台の上にあります。なぜこんなところにと思いますが、すぐ裏手が船着場
になっていますので、物流・交通の便を考えてのことでしょう。(私は代官統治だと思っていましたが、現地の案内板では奉行所があっ
たとなっています。)

追記(2019/4/7)
備後中津領の領境石について調べていたところ、備後中津領に於いては、小畠村の大庄屋村田氏を代官とした一方、本藩から郡奉
行等数名の役人が派遣されていたそうです。税務(年貢の徴収)は現地の事情に詳しいものに責任を負わせて、行政・司法権は本藩
が握ったということでしょうか。筑前領の中津領にも当てはまるのかはわかりませんが、武では代官所だったものが深江では奉行所に
なったのは、そういう事情かもしれません。

 


 対馬領(対州領)
初田=本村の一部【前原市<現在は糸島市>】
 浜窪田中片山福井福井浦吉井・吉井浦・鹿家【以上二丈町<現在は糸島市>】の7村2浦

 現在の二丈町<現在は糸島市>の最西部(中津領の西側)から佐賀県東松浦郡浜玉町にかけては対馬領(対州領)でした。対馬府中
藩宋家も対馬本島、肥前田代(現佐賀県鳥栖市・三養基郡)とここ(肥前国松浦郡から筑前国怡土郡にかけて)、さらに下野国(現栃木
県)安蘇・都賀郡に領地を持っていました。

 ここ肥前浜玉から筑前糸島に掛けての石高は、肥前国松浦郡内に9,117石・怡土郡内に6,760石です。
 (肥前田代に12,837石・下野国安蘇郡に279石・都賀郡に2,112石)

 ここが対馬領(対州領)になったのは、1818年(文化15年→文政元年)で朝鮮通信使易地聘地を務めた賞です。

 


 幕府領(御料・公領・天領)
香力東村本村【初田を除く】千早新田・岩本加布里【現前原市<現在は糸島市>】の6村

 幕府領はわずかしか残りませんでしたので、個別に代官は置かれず日田代官の支配下に置かれ、重大事件が起これば日田代官が
出張してきたそうです。(現在ならば99%が高速道路ですが。)

 その代わりに各庄屋に帯刀させ、他領の庄屋より一格上に扱わせるのみではなく、長槍をその玄関に並べさせ、幕末には野戦砲ま
で持たせてあったそうです。 


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