その他の筑後境国境石

白鳥  長淵  うきは市吉井  志波村控石

筑前町山隈
文 字
 是 北 東 筑 前 國 
 
場 所
国道500号線脇にあります。旧軍太刀洗飛行場のため一度撤去されたそうです
が、戦後戻されています。
備 考
元禄10年(1697年)の設置と隣にある案内板に書いてありましたので、案内板
通りだとするとかなり初期のものになります。(ちょっとあやしそうですね)

文字は薄っすらと読める程度です。

朝倉市白鳥
文 字
筑前)從 是 北 筑 前  以下不明
筑後) 是 南 筑 後 國
 

 
場 所
現在の朝倉市白鳥にあった石です。甘木市(現朝倉市)の学芸員さんにお聞き
したところ、「白鳥村は少し筑後が筑前側に張り出しているめ国境石が置かれ
たのでは」とのことです。
現在は、甘木歴史資料館の前庭に「郡境石」と共にあります。
備 考
この石の設置に関しての資料は残ってないそうです。
石自体は切りだされたままの虎目が残る石です。


朝倉市長淵
文 字
表) 従 是 西 北 筑 前 國 
右横)文 化 十 二 年 乙 亥 三 月
左横)上 座 郡 長 淵 村 抱
 
 
場 所
長淵村(現朝倉町長淵)も筑後川北岸に筑後領がはみだしていました。現在は旧、朝倉町公民館の玄関に鎮座し
ています。
備 考
文化12年の前年に洪水があったという記録があり、境が分からなくなったため建てられたと考えられています。
この石は、昭和40年頃筑後川下流の河原で埋まっているのが見つかり、ここに移設されました。
(以上、朝倉町公民館のご担当の方に資料をいただきました。)

設置の資料等はないそうです。埋まっていたからでしょう、とてもきれいな文字です。文化12年は1815年。
サイズ゙
高さ 199×横 68×奥行 40(cm) 花崗岩


 古毛村控石について

 古毛村控え石は、2つの石を一つの項にまとめていましたが、現在この両石は筑前(朝倉市古毛)と筑後(うきは市)に分かれて建っていますので、別々の項に分けます。

 現代の地図では、うきは市吉井町長栖が筑後川を越えて、朝倉市古毛に張り出しています。福岡県立図書館のデジタルライブラリから筑前国郡絵図 上座郡を見ますと、古毛村の内三嶋村(朝倉市古毛/三嶋村名残りの三島神社は古毛2678)の南に、古毛村の内三嶋津留渡場が見え、その西で筑後川(千歳川)北岸陸地上に境界線が描かれており、この部分が該当すると思われます。

 長栖は、明治9年に近隣の村が合併して出来た村名で、この筑後川を越えた長栖の凸の付け根に、今泉八幡宮(うきは市吉井町長栖1029)があることからわかるように、江戸時代は今泉村域となります。角川日本地名大辞典の今泉村(近世)欄には「筑後川沿いの村で、対岸の福岡藩領側に飛地(文政年間に2町5反)があり」と書かれており、ここがその2町5反の飛び地に該当するのでしょう。

 古毛村1の控え石は、現在筑後川の北岸にあることから、古毛村の今泉村飛び地との境に建てられた、筑前国境石の控え石として置かれたものでしょう。

 一方、同じく筑前国郡絵図 上座郡を見ると、古毛村の内中嶋村(朝倉市古毛)が筑後川(千歳川)を越えて南に張り出しています。

 国立公文書館のデジタルアーカイブから天保の筑後国絵図で見ても、生葉郡高田村(うきは市吉井町江南)の北で、筑前が川を越えて張り出しているのが見え、同絵図には高田村より筑前國中嶋村への距離が書かれています。

 元文2(1737)年に筑前古毛村と筑後高田村の間で国境争いが起き、最終的に豊後国関村(大分県日田市関)の庄屋の調停を得て解決しています。

 古毛村控石2はこの筑後川川南にある、筑前(古毛村の内)中嶋村の筑後高田村との境に建てられた、筑前国境石の控え石として置かれたと思われます。


 現在の市境がいつ確定したものかはわかりませんが、千歳川(筑後川)は氾濫を繰り返し、そのたびに流れを変え、両国(村)の境を複雑にして行き、その結果、国境石やその控え石、そして村境石が朝倉・うきは両市にたくさん現存しているのでしょう。
2015/06/13

22023/04/01
 古毛村の控え石2基を筑前の村境石欄に置いていましたが、あきらかに国境石の控え石ですから、この欄に移動すると同時に追記しています。

古毛(こも)控え石1 (朝倉市古毛)
文 字
 古 毛 村 控 (以下不明)
 
2015/06/13 画像を追加                     
場 所
現在は古毛の公民館に。原位置は上で考察。
備 考
2015/06/13 追記及びサイズデータの追加
この石の文字を「古毛村控」としていましたが、もう一基の古毛村控石のように、この石も地中部に「石」があろうと推測されますので、「古毛村控 (以下不明)」に改めます。
サイズ゙
高さ 90×横 36×奥行 20(cm)

古毛村控石(川南の筑後側に現存)
文 字
 古 毛 村 控 石
 
2015/06/13 画像を追加

場 所
現在はうきは市吉井町江南(筑後川南側)の民家玄関先に建っています。原位置は上で考察。
備 考
2015/06/13 データの追加・文章の加筆
サイズ゙
高さ 80×横 33×奥行 30(cm)

うきは市(吉井)

 吉井町(2005/03/20よりうきは市)に現存する国境石は、全て昭和28年の大水害の後とスポーツアイランド造成時に、現スポーツアイ
ランドの敷地から掘り出されたものだそうです。スポーツアイランドはその名の通り筑後川の中洲に作られており、洪水で流された国境
石がちょうどこの地で堆積していったものと推測されます。

 スポーツアイランド付近

 したがってこれらの国境石は元々どこにあったのか(スポーツアイランドより上流であることは確実ですが)不明ですし、年代も確定で
きません(年代はばらばらのはずです)。

 吉井町(現 うきは市)とその周辺の石については吉井町郷土史会の方に大変お世話になりました。


 2009年正月に再訪したところ、千年小学校の国境石2基が公民館の前庭に移設されていました。写真を撮り直して来ましたので、現
在公民館にある6基についてはは全面的に書き換えをいたしました。 

 尚、そのうちの3基は筑後の石ですので、筑後のページへ移設します。(2009/01/10)

 
現在は公民館前に6基が揃う                   6基のうち1基は銘文不明の石

 現在うきは市吉井町に現存する国境石のうち、「從(従)是+方角+国名」が読み取れるのは、筑前3基(公民館2基・民家1基)と筑後2
基(公民館1基・民家1基)ですが、全てが筑前「從」・筑後「従」で統一されています。(公民館2は「筑後領」のみが判読可能、公民館3は
「従是西」のみが判読可能。)

筑前石は全て「」   
                公民館1               公民館5               民家1

筑後石は全て「」   
               公民館4               民家2

この地域の国境争いについてはこちらに。


公民館 1
文 字
  是 東南 筑 前 (以下不明)
 
場 所
備 考
サイズ゙
高さ 88×横 47×奥行 33(cm)

公民館 5
文 字
  是 北東 筑 前 領
 
場 所
備 考
 千年小学校内に設置されていた石です。   千年小にありし頃
サイズ゙
高さ 119×横 30×奥行 21(cm)

千年の民家(筑前石)
文 字
  是 北 筑 前 領 
 2015/05/16画像追加

 
場 所
うきは市吉井千年の民家。
備 考
この石の隣家にある筑後国境石はこちら

2015/05/16
画像及びサイズのデータを追加。控え石を別項↓に分離。
サイズ゙
高さ 90×横 30×奥行 27(cm)
 
千年の民家(控え石)
文 字
    天明四年
   従是寅方御境石迄四拾間
            但六尺五寸間   (※間or縄としていましたが間で確定します。)
     甲辰八月

 
2015/05/16 画像追加

 
場 所
うきは市吉井千年の民家。筑前石があるお宅と筑後石がある間のお宅。(3軒並んで国境石がある。)
備 考
千年の民家にあるこの控石が、筑前のものなのか筑後のものなのかは不明です。(天明4年は1784年)

文字の一部が鮮明でなく「六尺五寸」の後ろを「間もしくは縄」としていましたが、今回撮影した画像から「間」で確定させ
ます。
サイズ゙
高さ 84(全長は125※)×横 30×奥行 30(cm) 
この石の全長は125cmありますが、画像で見てもわかりますように、最下部は地中にあるべく荒削り加工になっていま
す。この部分を引くと、控え石として本来露出するのは84cmになります。  2015/05/16


志波村控石
文 字
不明 
不明
志 波 村 抱
 
場 所
志波村(現朝倉市)にあった石であることは間違いないのですが、どこにあった
ものかは不明だそうです。
旧杷木町(朝倉市)は豊後と筑後に接していましたが、志波村は筑後境側で
す。

現在は、朝倉市(旧杷木町)の民間の会社の前庭にあります。
備 考
控石だと思います。

肝心な2面が読めません。いつも思うのですが、家に帰って画像でみると読めそ
うなんですが・・・

トップへ
トップへ
戻る
戻る