札木山→五ヶ山ダム(bQ8→39)
札木山から山伏こずみに掛けては、札木山側を南・五ヶ山ダム側を北、筑前側を東・肥前側を西として表記します。
ここがまさに国境争いがあった地点です。この争いは脊振弁財天の国境争いが解決した3年後の元禄9(1696)年に起こり、数年もめつづけた挙句
に、この件もまた幕府の手を煩わせることになります。
この時は結局、お互いの絵図から筑前側が1/3を肥前側が2/3を譲歩して、図面を取り交わして解決を図っています。
bQ7・28
文 字
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27) 従 是 南 肥 前 國 |
28) 從 是 北 筑 前 國 |

2020/03/01画像追加 28から27(札木山)

27(肥前) 28(筑前)
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場 所
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肥前鍋島領内、養父郡原古賀村(三養基郡みやき町原古賀)と神埼郡西小川内村(神埼郡吉野ヶ里町松隈)の郡
村境にもなり、これ以降西小川内村との境に替わります。対する筑前は那珂郡五ヶ山村の枝村大野村(那珂川市
五ヶ山)ですが、筑前国郡絵図 那珂郡には、「大ノ村のうち 谷村」(福岡県立図書館所蔵 筑前國郡絵図
那珂郡<1福図第183号−58>/私はこの文字を読めませんし書けません、以下「※」で代用します)という村が存
在します。一方、「筑前国續風土記」では大野村の枝村は落合村と記されています。
同絵図には「従筑前国大野村枝郷「※」谷村肥前国綾部エ、越道」と境口が記されており、国境は「※」谷村域となる
ようです。
国道385号坂本峠と七曲峠の分岐点が丸山林道口です。那珂川市から旧道の国道385号を上がってくると分岐
点の正面の小山になります。最近神埼町が建てた案内板がありますので、その右横から上がります。
ここが旧肥前街道(肥前から見れば筑前街道)となります。筑前肥前街道といえば、平安末期 平 忠盛が肥前神
埼荘を知行していた時代から、その積出港であった博多までの輸送にも使われた古い道です。(平地経由だと、太
宰府に積み荷の量から荘の取れ高を類推されてしまうため、わざと山道を選んだようです。)
地焼中谷以降は、筑前・肥前どちらの境石も、筑前を向いて文字が書かれているという不思議な状況です。
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備 考
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bQ7だけがコンクリートの台座に座っています。
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サイズ゙
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27)高さ 88×横 62.5×奥行 13(cm)
28)高さ 110×横 48×奥行 20(cm) |
bQ9・30
文 字
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29) 従 是 以下不明 |
30) 從 是 東 以下不明 |

29 2020/03/01画像追加 30

30から29 (右は昔撮った写真)

29(肥前)

30(筑前)
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場 所
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丸山林道口の正面にbQ7・28がありますが、その西側の谷に沿ってbQ9・30以降の国境石があります。(bQ6
より前は、丸山林道口の東丘。)
この辺りは続筑前風土記 国境之小名の地焼中谷に比定されています。
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備 考
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私が昔参考とした資料にはこの石に関して記載がありませんでしたが、国境石に間違いないと思い「?」としていま
したが、2002年版那珂川町文化財ハンドブック「国境石」には記載がありました。
2005/08/29
※今回、那珂川町郷土史研究会の方にご同行・許可をいただきましたので、少し周りの土を掘らせていただきまし
た。自分が掘っていながらこんなことを言うのもなんですが、一度破損した文化財はもう2度と元の姿に戻ることが
ありません。勝手に掘ったり・ひっくり返したり・移動させたり・拓本を取るのは絶対におやめください。
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サイズ゙
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29)高さ 40×横 40×奥行 26(cm)
30)高さ 25×横 40×奥行 20(cm) |
bR1・32
文 字
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31) 従 是 西 南 肥 前 國 |
32) 從 是 東 北 筑 前 國 |

31 2020/03/01画像追加 32
32から31を見る

31 32
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場 所
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この辺りは、続筑前風土記の国境之小名「地焼牟田」に比定されています。
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備 考
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サイズ゙
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31)高さ 57×横 44×奥行 34(cm)
32)高さ 75×横 33×奥行 20(cm) |
bR3・34
文 字
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33) 従 是 西 南 肥 前 國 |
34) 從 是 東 北 筑 前 國 |

33 2020/03/01画像追加 34

33 34(裏から)
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場 所
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備 考
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サイズ゙
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33)高さ 90×横 46(cm)
34)高さ 59×横 40(cm) |
bR5
文 字
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從 是 東 筑 前 國 |

2020/03/01画像追加 横向きに東の文字が見える

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場 所
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備 考
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從・従未確認 |
サイズ゙
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高さ 105×横 45(cm) |
bR6・37
文 字
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36) 従 是 西 肥 前 國 |
37) 從 是 東 筑 前 國 (2020年時発見できず) |
36 2020/03/01画像追加

36

37
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場 所
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備 考
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見つけられずに抜けていた37を、那珂川町郷土史研究会の方々に案内していただきました。
2020/03/01
37はまた見当たらなくなりました。ただし、那珂川市教育員会の文化財担当に、2019年夏前頃「この地域(五箇山ダ
ム流入域)から一基持ち帰って中央公民館で保管している」旨の話を聞いていましたので、たぶん37が該当するのでし
ょう。
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サイズ゙
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36)高さ 87×横 43 (cm) |
bR8・39
文 字
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38) 従 是 西 肥 前 國 (2020年時発見できず) |
39) 從 是 東 北 筑 前 國 |

38

39 2020/02/01画像追加

39
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場 所
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国境之小名「地焼下谷川」に比定されています。
38も発見できませんでしたが、ちょうどその場所でがけ崩れが発生しており、どうやら飲み込まれてしまったようで
す。(38は肥前石なので、37のように那珂川市側が持って帰ることはないでしょう。)
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備 考
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サイズ゙
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39)高さ 60×横 90 (cm) |

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