那珂川町(2018/04/01より那珂川市/以下同じ)周辺の国境石のうち、三領堺峠〜佐賀橋※(bP3〜39)は肥前佐賀領との
境です。その内の三領界峠〜七曲峠ai13〜21)までは筑前の石のみが建ってます。七曲峠〜佐賀橋※(bQ2〜39)までは筑前と
肥前の石が交互に建っており、ここがまさに国境争いの問題点であったことが想像できます。佐賀とは元禄9年(1696年)頃烈しい国
境争いがあっており、その後元禄13年(1700年)頃国境石が設置されたと言われています。
※佐賀橋はダムに沈みましたが、この表記はこのまま残します。国道385号線沿いの五ヶ山ダム流入口と読み替えてください。
権現山〜三領界峠(bP〜bP2)は肥前対馬領(対州領)との境です。対馬府中領宗家とは国境争いがあったわけではなく、予防的
に建てられた石です。よって、ここには筑前側の石のみがあり、対州領側の石はありません。宝永元年(1704年)11月4日から翌年
6月24日の間に建てていった記録(田代代官所記録)が残っています。
ここの国境石の銘には、「従」と「從」・「領」と「國」が混在しています。正確には混在ではなく、一定の法則に則って書かれています。
詳しくは別のページで書いていますが、筑前側が「 從」・肥前側が 「従」の文字、肥前対州領との境になる筑前国境石には「筑前領」の
文字が・国持ち大名同士である黒田・鍋島の境は「筑前(肥前) 國」です。対馬領側は結局国境石を建てませんでしたが、もし対州領が
建てたとすれば「従是○肥前國対州 領」と彫ったことでしょう。
2005/07/09追記
那珂川町郷土史研究会の方に「那珂川町文化財ハンドブック 国境石」(2002年/那珂川町教育委員会・那珂川町郷土史研究会)
を頂きました。今回これを参考にして次ページ以降大改定いたしました。一部ナンバーも変更しています。
2010/05/23追記
ここ那珂川町と佐賀県の境の国境石は、那珂川町郷土史研究会のお二人の女性の熱意によって、その全貌が調査されています。
今回、そのお二人から「確認・再調査したいので一緒にどうですか?」とお誘いを受け、糸島郷土民俗史研究会の2名を誘い、計5人
でこのゴールデン・ウィークから再調査に入っています。
再調査に入ってすぐに、新たに1基(肥前石)が見つかりました。皆さんお忙しくてなかなか予定が合いませんが、丹念に調査すれ
ば、もう数基新たな発見があるかも知れません。
2020/03/01
G20財務相・中央銀行総裁会議で、市内での移動が制限される週末に急に思い立ち、2019年6月9日と翌週に9年ぶりに現地を歩
きました(bP〜bQ9)。bR0以降は道が付いていない谷の中ですので、蛇が冬眠して草木が枯れる正月を待って、2020年1月2〜
3日に歩いています。
発見できなかった石も数基あり、また倒れてしまった石・なくなった標識等もあり、修正しています。
この境石群は私が国境石に興味を持ったまさにスタート地点で、ホームページの開設が2004年ですから2000年頃に初めて歩い
たのではないかと思います。その頃はあまりに初期過ぎて経験値が少なく、一つ大きなことを見落としていました。さらには、上の追記
を見るだけでも2005年・2010年にも歩いていますが、そのことに気づかずぼんやりしてしまっていました。
今回歩いて強烈な違和感を感じました。それは、bP〜21までは国境争いがあったわけではなく、予防的に建てられた筑前国の国
境石ですが、その銘が全て自国向きになっています(筑前国境石が文字を筑前に向けて建っている)。実務的な国(領・郡・村)境石
は相手に対して「ここからは我々の領地」と主張するためのものですから、銘を自領に向けるのはかなり特殊なことです。bQ2以降の
筑前・肥前の国境石が交互に建つ紛争のあった地域では、互いの国境石が銘を相手国に向けて建っています。(一部倒れを除く。)
さらにはbQ9以降に至っては、筑前・肥前の両国境石とも筑前向きに銘があるというかなり特殊な状況です。
その明確な理由はわかりませんが、境争いがあったわけでもないのに境石を建てるのは「いつか境争いを仕掛けられんじゃないか」
と疑っているようで相手に失礼なので、「そちらに対して我が領土はここまでと主張したのではなく、当国の村人に対して領土はここまで
だからと示したものです。」という態を取ったのかもしれません。
尚、未採寸だった石のサイズを今回採りました。高さは文字の上を通るように、巾は方角文字の一字目の上限で計りましたが、奥行
き(厚さ)は自然石なので計っても意味がないと採っていません。
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