神代鍋島家には上記の東西神代村のほかに上伊古村 と古部村の領地がありました。東からみると、土黒村(島原領)→東西神代村(神代鍋島領)→西郷・下伊古村(島原領)→上伊古村(神代鍋島領)→伊福村(島原領)→古部村(神代鍋島領)→三室村(島原領)とモザイクになっています。
外海の深堀領・大村領のモザイクもそうですが、これほど細かく村単位でモザイクに領地を切っていくというのは、為政者(幕府)に何らかの意図があったとしか思えません。
(よそでもないわけではありませんが、その場合交互<モザイク>にはならず隣の隣は別の人<三番目の領主が登場する>の領地となる場合が多いようです。)
普通に考えるとキリスト教弾圧(相互監視)のためでしょう。
旧瑞穂町内の境石に関しては、領境石があるとの情報を聞き現地に飛んだものの見つけられず、藁にもすがる思いで飛び込んだ瑞穂町図書館(一応仕事をしているので、調査はいつも役所が閉まっている土日になります)の方を通じ、地元のT先生を紹介していただきました。T先生には島原藩に関する数冊の著作があります。
2010/10/10
東西どちらの石も裏銘の「之」が抜けていました。修正しています。
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