朝倉郡東峰村(宝珠山村)


 2024/05/01

 小石原の豊前境に続き、宝珠山の豊後境も2024年3〜4月に再訪しましたので、このページは全面的に書き替えます。

上座郡福井村の(象徴)国境石

 この石をbPとしていましたが、旧bQ以降が実務国境石に対して、日田街道上に建つ象徴国境石です。よって、福井村の(象徴)国境石とします。

文 字
 表)従 是 北 筑 前 國 
 横)上 座 郡 福 井 村 抱 
 裏)  天保五年甲午○月建 実務国境石bPを見ると、建の下に「之」の文字があるか?)

表銘

 
横銘 (後ろの壁に掲げられたものは、大正12年の日付が入る里程標)     裏銘
場 所
 国道211号福岡県朝倉郡東峰村と大分県日田市の境、日田街道と言われた道です。

国立公文書館デジタルアーカイブから天保の筑前国絵図(天保9<1838>年)や、福岡県立図書館 デジタルライブラ筑前國郡絵図 上座郡(時期不明)で見ると、該当の場所には福井村の内米代村が見えます(地理院地図で見ると現在は延田という字のように思えます)が、筑前國續風土記拾遺の上座郡福井村欄には、米代及び延田は福井村本村の民居の一つとされています。

筑前国絵図筑前国郡絵図 上座郡で見ると、豊前国吉竹村(大分県日田市大肥/地理院地図では吉竹の字がここに見えます)まで七町四拾三間(約840m)でしょうか。国立公文書館デジタルアーカイブから豊後国絵図で見ると、日田郡中嶋村内吉竹村と見え、筑前国福井村までが同距離とされています。
備 考
 一部折れ、補修のため裏銘の月の上の文字は読めませんが、宝珠山村誌では残存部から「十」と推定しています。

現在この国境石は、「従是北筑前國」の表銘を豊後国(南)に向けて建っています。本来ならば表銘が道に対して正対(西向き)ではないかと思うのですが、道路拡張のため2回ほど移転(バック)しているようです。そもそも折れていますので、明治維新以降、不要のものとして掘り出されて破却されかかったのかもしれません。

境石とは関係がありませんが、筑前国絵図には米代権現社が、筑前国郡絵図 上座郡には米代村の横に、名の記載はありませんが社らしきものが描かれています。福井神社は筑前國續風土記拾遺には「米童権現社ならびに天満宮」として記載があり、「(大肥川の)水に臨みて社建てり。(福井村の)産神なり。」とされています。


      現在の ↑天満宮                 福井神社

拾遺には「梅が多く生えていたので天満宮を勧進した」とされていますが、隣接する豊後国大肥庄側は安楽寺領だった時期があり、その所縁で天満宮・老松宮があります。
サイズ
高さ 187×横 28×奥行 23(cm)    初回公開日不明(2005/3以前)・20024/5/1更新

宝珠山駅
 
現在の宝珠山駅                             プラットホームが一部残る
 福井村の国境石の大肥川を挟んだ西側に、JR日田彦山線宝珠山駅があります。同駅はプラットホームが福岡県(筑前国)と大分県(豊後国)にまたがる珍しい駅でしたが、平成29年の九州北部豪雨により日田彦山線は大きな被害を受け、現在はバス高速輸送システム(BRT)が同路線を走っています。 

 宝珠山駅はバス路用にプラットホームが撤去されていますが、ちょうど県境(筑前・豊後国境)の部分はモニュメントとして残されています。


ありし日の宝珠山駅(現在残っているホームは、南側の舗装されていなかった一段低い部分。)


平成29年九州北部豪雨の被害(宝珠山駅すぐ北側の大肥川に架かる橋梁)

 この2枚の画像は、このすぐ脇のお宅で災害ボランティア活動中、線路が玄関に巻きついているのが理解できず、「どこから線路が押し寄せたのでしょうね?」とお聞きしたところ、依頼者さんから「すぐ裏が線路だから見てきてご覧」と言われ見に行ったときのもので、JR日田彦山線が鉄道としての機能を失ってからの、近隣活動中のものです。

福井村の(実務)筑前国境石
 
 このページをいつ公開したのか記録に残していませんが、「宝珠山村の教育委員会に聞いた」としていましたので、平成17(2005)年の平成の合併以前のことであるのは間違いないようです。その頃は知識もあまりなく、今自分で読み返すと恥ずかしくてすべてを消してしまいたくなる稚拙さです。

 当時私がどのような資料を根拠としたのか、本来ファイルされているはずの資料が見当たりませんが、今回少し調べたいことがあり、久しぶりに福岡市総合図書館に行き、そこで初めて宝珠山村誌を見つけ目を通しました。私は当時11基の筑前国境石が現存しているとの認識でしたが、宝珠山村誌には15基が現存していると書かれています。

 そこで宝珠山村誌を元に再取材し、この欄は全面的に書き直します。ナンバーは東(下流側)から2・3と打っていましたが、絵図(宝珠山村誌)では西(上流)から打たれていますのでそれに従います。(私が混乱しますので、旧ナンバーを付記していますが無視してください。)

 bP11の3基が、宝珠山村誌を参考にして今回新たに見つけたものです。

 宝珠山村誌によると、福井村庄屋の末裔宅に「国境石絵図・裏書証文」とされる文書が残っており、「豊前国日田郡中村(大分県日田市大肥/地理院地図では中村の字がここに見えます)と筑前国上座郡福井村との間はこれまで境杭が打たれていなかったので、双方で熟談の上、天保3(1832)年に境杭を建てた(この時はたぶん木柱)。(天保5年に境杭を境石に置き換え)、天保6(1835)年7月に国境石の場所を絵図に書き記し、絵図証文を取り交わした」とのことです。

 この証文は、豊後国日田郡中村の百姓総代・組頭・庄屋が筑前国上座郡福井村の庄屋及び御百姓衆に宛てたものとなっています。双方で取り交わし、豊後国中村側で保管したものは、筑前側が豊後側に差し出した形になっていたのではないかと思います。

 bPの裏銘に「天保五年甲午十月建之」と刻まれており、建立は日田街道沿いの象徴国境石と同時の、天保5(1834)年の10月だったことがわかります。

 日田街道の象徴国境石は、福井村の内米代村域になるのではと思いますが、こちらの実務国境石は、国立公文書館デジタルアーカイブから筑前国絵図や、福岡県立図書館 デジタルライブラリ筑前國郡絵図 上座郡(時期不明)で見ると、福井村の内加治屋村域となるのでしょうか。筑前國續風土記拾遺の福井村欄には、下加治屋が本村の民居の一つとされており、上座郡大山村(朝倉市杷木大山)への道があるとされています。

 筑前國郡絵図 上座郡で見ると、大山峠とナツキ口の間では「従是右谷川境」と川中中央が境となっていますが、ウサウ原(拾遺の国境の小名<小字>では「うそう原」)よりも東は「従是右田畠境」となっており、ここがまさにbP以降の実務国境石が建った場所になります。筑前国絵図豊後国絵図でも「田畠国境」とされています。

 元々はこの区間も川中中央が境だったのでしょうが、いく度かの川の氾濫によって川筋が変わってしまい、筑前国域が川を越えてその南に張り出してしまったので、国境石を建てて筑前国域を明確にする必要があったのでしょう。

 国立公文書館デジタルアーカイブから豊後国絵図や現代の地理院地図で見ると、中村は大肥川の東岸・中嶋村(中島)が西岸に見えます。角川地名大辞典には、老松明神祠(老松天神社/大肥1979)は中島(同書の記載)村にあるとされています。私が目にした資料からは、ここ(筑前実務国境石が建った地点の相対)が中村域だったということは読み込めませんでした。(地理院地図では白岩という字になるようです。)
 初回公開日不明(2005/3以前)・2024/05/01再構成

bP
文 字
 従 是
 天 保 五 年 甲 午 十 月 建 之
 
表(スマホカメラによる撮影)                        裏
場 所
 bPは見つけることが出来ず、たまたま通りかかった地元の方にお聞きしたところ、略図まで書いてくださり、川に降りないと見えないことを教えてくださいました。



川ぎわというよりも川の中(流水域ではない)と言うべき場所で、大雨の際には水に浸かるでしょうし、周りにはまさに大水の時に流れてきたであろう木が引っ掛かっています。何度も流される危機に遭っているのかもしれません、水の流れを受ける側になる、かつ流れの表となる裏銘面から見て右角は、上から下まで傷だらけになっており、「保」の文字あたりにも傷が見えます。

初めからこのような壁際に、表銘が読めない形で建てられたわけではなく、洪水対策で川幅を広くするために削り、その結果、川岸の上に建っていた国境石が川底レベルになったのではないかと思いますが、そのあたりは資料もなくよくわかりません。
備 考
 これより上流では川中中央が筑前・豊後の境ですが、ここ(筑前國郡絵図 上座郡のいうウサウ原)から南にずれ始めます。bQ以降の石は文字面以外は荒仕上ですが、bPはきちんと標柱として形成されています。

宝珠山村誌には裏銘があるという記載はなかったので、「本当に川の中にあるのだろうか」と川の中を探しながら上がって行き、鮮明な文字が目に飛び込んできた瞬間は鳥肌が立ちました。境石はもう何百年もその場から動いていません。いつも私がその姿を求めて右往左往しています。
サイズ
高さ 103×横 25×奥行 23(cm)

bQ
文 字
 従
 
場 所
bPとbQは少し離れており、bQ以降は田畑の畝道となります。
備 考
 
サイズ
高さ 20×横 30×奥行 27(cm)

 bRは私が見つけられていません。宝珠山村誌には3の場所について「2と3(たぶん4のこと)の中間」となっていて、2と4は10mも離れていないの
ですが、その間にそれらしきものはありません。宝珠山村誌には高さが32cmもあるのに銘は不明とされており、土手もしくは垣に向かって向かって建っ
ているのでしょう。草のない冬に出直します。

bS(旧10)
文 字
 従
 
場 所
 
備 考
サイズ
高さ 26×横 27×奥行 23(cm)

bT(旧9)
文 字
 従 是
 
場 所
 bTからは西に4が、東に6が見渡せます。
備 考
サイズ
高さ 41×横 29×奥行 23(cm)

bU(旧8)
文 字
 従
 
表面                                      裏面


スマホカメラによって文字を撮影
場 所
備 考
 スマホのカメラを差し込んで撮影したところ、「ぎょうにんべん」や旁の部首「そいち」を読めましたので、不明としていた文字を従と確定します。
サイズ
高さ 76×横 26×奥行 25(cm)

bVは宝珠山村誌において「消滅?」とされています。

bW(旧7)
 bXの数m西側、道路沿いにbW(旧7)が建っているはずなのですが、どう探しても見当たりません。どう探してもと言いますか、探さなくても目に入る環
境でした。このロケーションの変化に関してはbXで考察しています。

 もしかすると村の方で保護してあるのかもしれませんが、詳細はわかりません。とりあえずbW(旧7)は以前のまま残しておきます。

文 字
従 是 北 筑  以下不明 
 
場 所
 6(現在の9のことです)の数m先(東)です。
備 考
 2024/3月及び4月時点では見つけられず。
サイズ
高さ 81×横 27×奥行 24(cm)

bX(旧6)
文 字
 従
 
向かって左面/表面         
場 所
 bXと10は近接していますが、川(道)に沿った東西方向ではなく、道と川の間で南(9)と北(10)の位置関係になります。元々はくねっていた川の流れが、北にずれ、まっすぐになったのでしょう。
備 考
 以前は「是」まで文字を読めていましたが、少し埋まったようで今は「従」しか読めませんでした。


6=現在の9・5=現在の10

20年前の画像を見ますと、bX及び10の東側は畦道です。ところが現在は、該当の場所はコンクリート舗装路になっています。もしかするとbVは、このコンクリート路の敷設にともない撤去されたのかもしれません。
サイズ
高さ 56×横 27×奥行 20(cm)

bP0(旧5)
文 字
 
 
場 所
備 考
 苔むして文字がわかりづらくなっていますので、20年前の画像も貼っておきます。

サイズ
高さ 84×横 30×奥行 27(cm)

bP1
文 字
 不明 (「従」らしきものは読める)
 
表/右横                                    裏
場 所
 道路からかなり離れた川沿いです。平たく言えば10の下流ですが、防獣フェンスがあり下流側から周らないと到達できませんでした。
備 考
 宝珠山村誌には、この石は本来の方向と違うとされています。30°程度東を向いてしまっているのでしょうか。土手に面して建っており、一段高い土手の上が大分県(豊後国)になるはずですので、国境線上と言う意味では場所はあっているのでしょうが、一度掘り出されて、再度埋め戻されているのかもしれません。
サイズ
高さ 85×横 24×奥行 30(cm)

 bP2は宝珠山村誌において「不明」とされています。bV、16、17が「消滅?」とされているのに対して、bP2が「不明」とされているのは、宝珠山
村村誌執筆の少し前までは確認できていたということなのでしょう。

bP3(旧4)
文 字
 従 是 北
 
場 所
 道路北沿い。
備 考
 
サイズ
高さ 57×横 26.5×奥行 20(cm)

bP4(旧3)
文 字
 従 是 北
 
表                                                裏
場 所
 bP4以降は道路南側にあります。
備 考
 宝珠山村村誌では、絵図とは場所が違うとされています。道路の拡張・舗装時に道に引っかかり、近接移設されているのかもしれません。
サイズ
高さ 105×横 35×奥行 32(cm)

bP5(旧2)
文 字
 従 是 北 筑
 
表                                                裏
場 所
 善隣会東の道路南側。
備 考
サイズ
高さ 88×横 26×奥行 22(cm)

bP6および17は宝珠山村誌において「消滅?」とされています。

 bP8および19は見つけやすい道沿いにあるはず、かつ県境を挟んで土地の所有者が違うのからでしょうが、土地の利用状況(地目)が異なって
おり、県境は簡単にわかるのですが、私にはその場所からこの2基を見つけることができません。

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