高野(雷山)の福岡領境石に関して私の中にひとつの疑問がありました。「 此道より東福岡領」の石は「福岡領」の文字もあり江戸期
に建てられたものであることはほぼ間違いないところですが、はたして「 境」の傍石もその全てが同じ時期に建てられたものだろうか?
ということです。
「境」の文字に複数の筆跡があり、同一時代の建立でない可能性もあるのではと考えました。
最悪(別に悪ではありませんが)「境」石(の一部)は明治期以降に「此道より」石同士の間を埋めた村境石の可能性もあるのではな
いかと思っていました。(糸島地区には明治以降の村境石が数ヶ所あります)
そこで一つの仮説を立てました。もし、「境」の傍石も江戸時代に藩の事業として建てたのなら雷山村(枝村の高野村・筒原村を含む)
だけではなく、高野村の北側に続く三坂村の領境(対するは公領 香力村)にも同じように「此道より東福岡領」の石と「境」の傍石があっ
たのではないか?と。
仮説に基づいて三坂地区で聞き込みをしたところ、「確かに文字が彫ってある石が昔は建っていたが、今はみかん畑の開墾とゴルフ
場建設で多分残っていないだろう。此道より福岡領と書かれた石は見たことがない。」という証言を得ました。
証言を受け満を持して三坂(福岡領)・香力(公領)の境である山中を探したのですが、なかなか見つからずあきらめて帰ろうとしたと
ころ、なぜか 多久・東の領境石と同じタイプのこの石が出てきました。ここで私の仮説は脆くも崩れます・・・
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