多久・東 領境石のまとめ



 やっと、多久・東の領境石の全容が見えました。結局2年ほどかかって見て回りましたが、最後は糸島郷土民史俗研究会の方に12
の存在を教えていただき、現存数(オリジナルの場所に建つ石)28+1計29基(63基のうち)を見ることができました。


 見つからなかった石のうち、

  2〜9は宮地岳山中ですので丹念に探せば出てくるかも知れません。

  11・13〜30は道路・畑・田になっておりちょっと厳しいようです。
  (11はその後発見しました。)

  38〜47は一旦開墾されてまた荒地に戻っておりここも厳しそうです。

  48はちょうど高速道路に引っかかってしまったようです。

 また、55は前原市文化財発掘調査でも該当無しとなっており紛失のようですが、50番台には「境」とだけ彫られた埋めるタイプの境
石も採用されており、55がこちらのタイプだとすると完全に埋まり込んでいる可能性もあります。(50番代は自然のまま残る尾根道で
逆に1基だけ紛失してしまうのも不自然のような気もします。)

 また、発見に至らなかった石も、近在の民家で保存してあったりする可能性もあると思います。
 

 ここの境石に関しては多久村と東村で交わされた証文と古絵図が残っており、特に古絵図の方は怡土国歴史資料館でそのコピーを
見ることが出来ます。(運がよければ原本を見られるかも知れません)

 「天保2年辛卯六月」(天保2年は1831年)の日付が入った証文には「後年に争論が無きよう『境杭』を建てた」ことが記されています。
 証文は2通あり、多久村が東村 庄屋・衆中に、東村が多久村 庄屋・衆中にそれぞれ差し出したもので、どちらにも加布里村の庄屋
が立会者として署名しています。
 

 この境杭がいつ境石に替わったのかはわかりませんが、元々境杭が建っていたところを後年境石に替えたのなら、「御料」の文字も
「仲津」の文字も解るような気がします。

 本来、幕府が境石を建てる必要はなく(幕府が土地を分け与える方でありこの国の為政者だったわけですから、領土でもめても幕府
側の主張を通せばよい)公領の境石というのはほとんどありません。

 しかし、この境石群が建てる場所が決まっており、福岡藩主導で作成されたのなら(もちろん公領側・中津領側に立会いは求めたでし
ょうが)親切に「御料」の文字を入れ、「豊前中津領」と「豊前小倉領仲津」を混同してしまったのかも知れません。

 ちなみに、中津市歴史民俗資料館にお尋ねしたところ、「中津領」の「中」が「仲」と表記されたことは歴史上ないそうです。


 なぜ、50番台(と33)にだけ「境」とのみ彫られた石が存在するのかという疑問が私の中にありますが、他の場所(特に10〜48の
平地)にもあったのだが地面が開墾等により姿を変えており、完全に埋まってしまっている可能性もあるのかも知れません。また、同じ
旧怡土郡の高野にも「境」とのみ彫られた石が多数あり、1つの仮説は成り立ちそうですがそれはまたいずれ。 


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(27の可能性あり)
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( )内は糸島郷土民俗史研究会の方が付けられた


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