紀伊国

大川の国境石

文 字
 (※) 是 南 
    紀 伊 國
         大川へ       
 右横) 文政四年辛巳二月


 
場 所
和歌山県和歌山市大川と大阪府泉南郡岬町住吉小島の境、大阪府道・和歌山県道65号線加太港線上に。
備 考
もろい砂岩ですので、かなり剥離してきています。(※)「是」の上に「従」があるのが常識的ですが、「是」と「南」の文字間隔を見ると、その上に「従」はないような気もします。(この石は砕けることはあっても、ポッキリと都合よくは折れないでしょう。)

紀伊国側は言わずと知れた紀州徳川家、対する和泉国側の最南端は、土浦領 土屋家(常陸国)の飛び地となります。(貝掛村・舞村・山中新田・箱作村<現阪南市>、淡輪村・孝子村・谷川村・深日村・小島村・西畑村・東畑村<現岬町>の11ヶ村。)

土浦領となった経緯はこちら(淡輪漁協「淡輪の歴史」)に詳しく書かれていますが、幕末には淡輪村に陣屋(代官所)が置かれたと書かれています。

土屋家も譜代であり、そもそも紀州徳川家5代目領主 徳川 吉宗を8代将軍に擁立(享保元<1716>年)したのは、老中・土浦領主 土屋 政直であり、この両藩は国境争いを起こしそうにありません。紀州徳川家が他の地域に国境石を建てていないこと・土屋家が相対する和泉国境(土浦領境)石を建てた痕跡がないこと、道標を兼務させる(大川へ)など一般的な国境石の形状とは違うことから、単純に村普請だったのかもしれません。

KIX泉州国際マラソン参加の際に当地を訪れましたが、事前に所在地等をにお尋ねをしたところ、当日は岬町教育員会生涯学習課の方にご案内いただきました。ありがとうございました。


追記(2019/03/24)

この稿を書いている時に「土屋 政直」の名前に引っ掛かっていました。国境石に於いて重要な名前のような気がしたのですが、その時には思いだせませんでした。

後からはたと気づきましたが、老中 土浦領主 土屋 政直は、元禄6(1693)年の筑前・肥前による脊振国境争論の裁許状に、「相模」(相模守)として名を連ねています

この紀州国境石が建ったのは文政4(1821)年なので、直政時代よりも100年以上後のことですが、時の9代 土屋 彦直(水戸 徳川家より養子)も、文政4年時は奏者番ですが、後(文政11年)に寺社奉行になっています。国境争いをしている場合ではなく、それを裁く立場の人でした。ちなみにこの時代の紀州徳川家は10代 治宝。

サイズ
高さ 90(下部コンクリート埋め込み)×横 40×奥行 20(cm)                 2019/03/21


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