黒田家譜

 
 黒田家譜は筑前黒田家の公式の記録です。寛文11(1671)年に貝原益軒が黒田家譜の編纂を始め元禄元(1688)年に完成されて以来、続家譜・新続家譜が作られ、各々数度の改訂を受けています。

 私は現在のところ「新続家譜」の中でしか「国境争い・国境石」に関する記述を見つけられていません。この本を読みだすと、たまたまキリスト像(マリア像?)を畑で掘り当ててしまい、正直に届け出たために拘留されてしまったお百姓さんの話など、おもしろい話が多くてなかなか先に進めません。(ちなみにこの話は、誰も耶蘇の像を知らず、長崎に重役を出張させ鑑定してもらいます。気の毒なお百姓さんは後に釈放され、正直に届け出た褒美を貰います。)

 「黒田続新家譜」に関しては。著作権の利用許可が取れませんでした(出版社の連絡先が不明なため)。そのため私が乏しい知識を駆使して意訳しています。

 

黒田続新家譜1
 怡土郡・唐津領 寛文元(1661)年 (2巻)

 筑前領怡土郡と唐津領の境が明らかでなかったため、この年(寛文元年)6月14日に両国より役人を出して、その境を正しています。唐津領大久保家より堀江金左衛門・花井久右衛門・坂部龍右衛門という役人が出てきて、福岡領黒田家からは奥西善右衛門 郡奉行・西村半四郎 郡奉行が差出され、福岡領雷村と唐津領長野村との境で落ちあい、正保の絵図を元に境目を正し、道路を境とし境石を立置いたことが記されています。

 私の手元にある限り、最初に「新続家譜」に出てくる国境石を建てた記録です。この国境石が具体的にどの石を指すかは不明です。古賀敏朗さんは「くにざかいの碑」の中で井原周辺の民家に現存する石の先代の石にあたる石ではないかと推測されています。

 

 宝珠山・日田 元禄4(1691)年 (8巻)

 豊後国日田郡鶴河内村の枝村小鹿田(おにた)村と、筑前国上座郡宝珠山村の枝村合楽(ごうらく)村と村境争いは、元禄3(1690)年の夏に起きて、元禄4年10月に至って相決しました。

 その始まりは合楽村(筑前)の農夫與(与)三右衛門が、合楽川の向いの畠に麦を植えたのを、小鹿田村(豊後)の農夫甚右衛が、その前年麦畑にしようと焼いた場所であるため、互いに争いとなりました。

 6月29日、鶴河内の庄屋喜右衛門が、宝珠山村(筑前)の庄屋善太郎に手紙を送り、「両国の境は南は合楽村下より北は何右衛門鹿垣<しかき>(=ししがき=動物の侵入を防ぐための柵)まで谷川限、両国の境はこれにて紛れない所であるので、この畠も甚右衛門(小鹿田村人)が作ってきたものだ。與三右衛門(合楽村人)は不届きだ。また、甚右衛門の畠は山奥にあるのに、近年道を塞ぎ通れなくしてしまった。この件について與三右衛門を問いただしてくれ。」と申し入れます。

 善太郎(宝珠山村庄屋)よりこれに返答し、「小鹿田・合楽の境を谷川限というのは、前は確かにそうだったが、洪水の時谷の流れが変わり、甚右衛門(小鹿田村人)の田畠も谷川を越えて筑前側に来ている。與三右衛門(合楽村人)の田畠も谷川の日田側に行っていて、今の谷川は境と限らない。昨秋より論じられている畠は與三右衛のものに間違いない。甚右衛門の方が狼藉者ではないか。また、道についても古道は(洪水で)自然に塞がり、近年は與三右衛宅の敷地内を人が通っていたのを塞いだに過ぎないが、大げさにしてもしょうがないので内々で話を済まそう。」と申し入れます。

 その後数度の書の往復がありますが、話は解決せず、喜右衛門(小鹿田村庄屋)が公儀の代官へ申出ると言い出したため、宝珠山村側も郡奉行梶原十兵衛に届け出ます。郡奉行は合楽村の隣村の穂坂村の庄屋藤吉に才覚があったことから、彼と林田村の庄屋の孫一が談判に当たるよう指示します。2人は小鹿田村庄屋に直接談判しても仕方ないと思い、その隣村の祝原・高野・関村の3庄屋に相談します。双方相談の後、喜右衛門(小鹿田村庄屋)に「兎角双方相手を責めることをやめ、問題点をを二等分して境とするべき。」といいますが物別れに終わります。そのうち喜右衛門より、松崎の代官所 服部六左衛門に訴え出ることとなります。


 私はこの件は、日田代官が日田の代官所で扱ったと思い込んでいましたが、天和2(1682)年に日田が一旦松平(越前)領となった折に、鯛尾金山を含む西側8,000石だけは公領として残り、天草代官の支配下に置かれます。松平家が去り、公領に復した後も元禄11(1698)年までは、日田代官ではなく天草代官がこの地を見ていました。また貞享2(1685)年には、久留米有馬家の支藩松崎領を没収し公領とし、ここも天草代官の支配下に置かれています。(松崎は元禄10<1697>年に有馬家に戻される。)

 この事件は一貫して、天草代官が松崎の代官所にて取り扱っています。ちなみに天草代官 服部六衛門の墓は、今も松崎宿の霊鷲寺境内にあります。

 
天草代官 服部六衛門の墓(小郡市松崎 霊鷲寺)        現地案内板には後任の代官の氏名は不明と書かれている

 服部代官より福岡側に通牒があり、慌てた黒田家は郡奉行梶原十兵衛他を合楽村に派遣し、絵図を描かせ、村人の口状を取ります。その内容は、

「宝珠山村の内合楽村と、日田郡鶴河「内」村之内小鹿田村と両国の境は、合楽村下より谷川限り、山はかくめあしふり岩限り、三取合小杉五かくら段々峰を限りが両国境と申し伝えられている。しかし川は度々の洪水が起こり川筋が替り、ただいまは畑が入交りってしまっている。川を越え東小鹿田の方に合楽の作所畠が四ヶ所ある。また合楽の方に小鹿田の作所畠が一ヶ所と萱野もある。黒田長政様御入国の時分は、宝珠山村は山深き在所だったため、両国境はなきに等しかったため、両国の庄屋同士で話し合ってある。」ということで、古くからの開墾の様子などを書き、この口状と絵図を松崎代官所の服部代官に送りますが、12月28日服部代官が急死したためにこの件は沙汰止みとなります。

 この春(元禄4年)より近隣の庄屋同士の話し合いが断続的に行われますが、中々まとまらなかったのですが、服部氏の後役今井九右衛門が代官として天草に下向し、8月24日松崎より日田郡祝原に行き、9月8日筑前を経て松崎に帰ってきます。

 この日、三笠郡二日市に一泊しますが、梶原十兵衛(郡奉行)が今井代官を尋ね、このたびの合楽境の争論の始終を演説したそうですから、前任者急死で引継ぎ不充分だったであろう代官を口説き、それ相応のご接待をしたのでしょう。28日に代官手代と福岡側郡奉行以下が合楽境に赴き、急転直下、「山は何右衛門鹿垣、下は谷限に境を定める。與三右衛門(合楽村人)井手料といえる田は一畝二十六歩同人居宅の辺、小鹿田村の内に引き受取る」と福岡側主張で決着しています。そして日田郡より河内村庄屋伊助、鶴河内村庄屋喜右衛門他三人が各與三右衛門宅を尋ね料理を食し仲直りの宴会を開いています。また喜右衛門には樽肴を与えています。そしてこの日双方証文を取り交わしています。

 

 脊振山国境争論元禄6(1693)年 (8巻)

 まず、この争論ですが、簡単に言うと現在は脊振山頂を中心に、稜線の北側が福岡県(筑前領)・南側が佐賀県(肥前領)なのですが、脊振山頂(弁財天宮)を超えて南斜面の二重平(にじゅうたいら・筑前側地名/肥前側地名では笹平《ササンジャーラ》)が、どちらに属するのかが争われたものです。

 現在の脊振山頂付近の地図を見るとわかりますが、背振の山頂は稜線上に乗っておらずピークが少し北側にずれています(おかしな表現で、山頂に続く尾根が稜線なのですが)。これでは「もめてくれ」と言っているようなものでしょう。

脊振山周辺の地図

この争いに負けた側の「黒田新続家譜」は、この争論に関しては簡単にしか触れられていませんが、勝った肥前側には「肥前脊振弁財嶽境論御記録」(付録を合わせて14冊)という膨大な記録が残っています。

「肥前脊振弁財嶽境論御記録」によると、まず天和3(1683)年に肥前 多聞坊が筑前板屋村庄屋 九右衛門から「(脊振山頂の)弁財天の祠が傷んでいるので修理する。」と通告を受けます。

 多聞坊は「現在の祠も先年肥前側が修繕したものであり、祠は肥前のものであるから、修理する必要があるなら肥前側が行う。」旨を返答しますが、筑前側は普請を強行します。当然、多聞坊より肥前側役所に連絡が行きますが、肥前側はこの段階では監視に留まります。


脊振神社(脊振山頂弁財天宮中宮)

 続いて貞享元(1684)年正月、肥前久保山村の村民が、筑前板屋村の村民から、脊振山頂の南斜面 二重平(肥前側の地名では笹平《ササンジャーラ》)を畑にするため検地すると通告を受けます。

 その二日後には実際に検地の一団が二重平に向かいますが、肥前久保山村の村民に阻まれて帰ってきます。当然のことながら、この時点で検地の一行には、郡奉行ら筑前側役人が同行していますから、この争いを仕掛けた筑前側としては、最初から村人の独断ではなかったことがうかがえます。

 その後、村人同士による交渉から、両藩主も巻き込んだ争論になっていきますが、ついに筑前側村民が江戸幕府に強訴する事態となります。

 ちなみに「肥前脊振弁財嶽境論御記録」には、筑前・肥前両国は長崎番を交互にしていることもあり、肥前の殿様(五代 鍋島 光茂)としては大げさにしたくなかったと書かれています。また、筑前側が強訴したことについては、黒田家側に関が原の東軍としての驕りがあって、不本意ながらも西軍についてしまった鍋島家との争いならば、江戸幕府も黒田家の味方をしてくれると思ったのであろうと書かれています。21世紀を生きる私には「そこまでは」という気もしますが。


 以降、「黒田新続家譜巻之八」を参考にします。

 さて、評定所に両国村民が呼ばれ審判が始まり、双方有利な資料を提出し正当性を主張しますが、ここで筑前側不利の決定的証拠が出てきます。正保の国絵図を官庫から引っ張り出してきたところ、筑前国の正保の国絵図には脊振山が載っておらず、肥前側には弁財天上宮がちゃんと記載されていました。

 一転不利となった筑前側村人ですが、へこたれることなく「国絵図に載っていないのは国絵図を作った役人のミスである。」と言い張り、遂には検使を現地に引っ張り出します。

 元禄6(1974)年5月江戸幕府より、佐久間小左衛門と設楽勘左衛門の2名が検使として差下されます (6月18日博多着) 。この検地の模様も「肥前脊振弁財嶽境論御記録」にはこと細かく、一方「黒田新続家譜」にはいかに検使をお接待したかが書かれています。煩雑ですので詳細は避けますが、一点だけ肥前側資料におもしろい話が載っていましたので紹介します。

 検地の最中、ある日検使が「ところで弁財天はどちらを向いている?」と聞いたそうです。弁財天が北の筑前側を見渡していれば筑前の神様であるし、南を向いていれば肥前の神様であろうと言うことを聞いたわけです。筑前の役人も肥前の役人も「それはもちろん我が国の方のはずであるが、今一度確認して参る。」ということで人を走らせます。期待しながら祠の中の弁財天を見ると、祠の中の弁財天様は、この争いをあざ笑うかのように南北どちらも向いておらず、そっぽを向くように紛争の地である稜線の方を見つめていたそうです。

 尚、この話は、聞いたのは老中 大久保 忠朝で、聞かれたのは両藩主(黒田 綱政と鍋島 光茂)だった、聞かれた場所は江戸城詰めの間と言う話もあります。この話では両藩主は江戸から早馬を仕立てて、弁財天の向きを見に行かせたということになっています。

 結局、元禄6年10月12日に裁許が下り、肥前「勝訴」となります。

 この裁許状にはそうそうたるメンバーが名を連ねていますので紹介しますと、

稲 伊賀守 (勘定奉行 稲生 正照)<旗本>
松 美濃守 (勘定奉行 松平 重良)<旗本>
能 出雲守 (江戸町奉行 能勢 ョ<頼>相)<旗本/南町>
北 安房守 (江戸町奉行 北條<条> 氏平)<旗本/北町>
本 紀伊守 (寺社奉行 本多 正永)<舟戸藩主・後に沼田藩主>
戸 能登守 (寺社奉行 戸田 忠真)<後の佐倉→高田→宇都宮藩主>
松 壱岐守 (寺社奉行 松浦 棟)<平戸藩主>
 相模    (老中 土屋 政直)<土浦藩主>
 山城    (老中 戸田 忠昌)<佐倉藩主>(寺社奉行 戸田忠真の父)
 豊後    (老中 阿部 正武)<忍藩主>
 加賀    (老中 大久保 忠朝)<小田原藩主>

 「黒田新続家譜」には、この後愚痴がこぼしてありますが、最後にこの争いは決して村民の罪ではなく、正保の絵図に脊振山を描き忘れた有司(役人)の責任であると書いてあるのは、何をか言わんなんでしょうね。

脊振山の国境石



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黒田新続家譜2
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