まず、この争論ですが、簡単に言うと現在は脊振山頂を中心に、稜線の北側が福岡県(筑前領)・南側が佐賀県(肥前領)なのですが、脊振山頂(弁財天宮)を超えて南斜面の二重平(にじゅうたいら・筑前側地名/肥前側地名では笹平《ササンジャーラ》)が、どちらに属するのかが争われたものです。
現在の脊振山頂付近の地図を見るとわかりますが、背振の山頂は稜線上に乗っておらずピークが少し北側にずれています(おかしな表現で、山頂に続く尾根が稜線なのですが)。これでは「もめてくれ」と言っているようなものでしょう。
脊振山周辺の地図
この争いに負けた側の「黒田新続家譜」は、この争論に関しては簡単にしか触れられていませんが、勝った肥前側には「肥前脊振弁財嶽境論御記録」(付録を合わせて14冊)という膨大な記録が残っています。
「肥前脊振弁財嶽境論御記録」によると、まず天和3(1683)年に肥前 多聞坊が筑前板屋村庄屋 九右衛門から「(脊振山頂の)弁財天の祠が傷んでいるので修理する。」と通告を受けます。
多聞坊は「現在の祠も先年肥前側が修繕したものであり、祠は肥前のものであるから、修理する必要があるなら肥前側が行う。」旨を返答しますが、筑前側は普請を強行します。当然、多聞坊より肥前側役所に連絡が行きますが、肥前側はこの段階では監視に留まります。

脊振神社(脊振山頂弁財天宮中宮)
続いて貞享元(1684)年正月、肥前久保山村の村民が、筑前板屋村の村民から、脊振山頂の南斜面 二重平(肥前側の地名では笹平《ササンジャーラ》)を畑にするため検地すると通告を受けます。
その二日後には実際に検地の一団が二重平に向かいますが、肥前久保山村の村民に阻まれて帰ってきます。当然のことながら、この時点で検地の一行には、郡奉行ら筑前側役人が同行していますから、この争いを仕掛けた筑前側としては、最初から村人の独断ではなかったことがうかがえます。
その後、村人同士による交渉から、両藩主も巻き込んだ争論になっていきますが、ついに筑前側村民が江戸幕府に強訴する事態となります。
ちなみに「肥前脊振弁財嶽境論御記録」には、筑前・肥前両国は長崎番を交互にしていることもあり、肥前の殿様(五代 鍋島 光茂)としては大げさにしたくなかったと書かれています。また、筑前側が強訴したことについては、黒田家側に関が原の東軍としての驕りがあって、不本意ながらも西軍についてしまった鍋島家との争いならば、江戸幕府も黒田家の味方をしてくれると思ったのであろうと書かれています。21世紀を生きる私には「そこまでは」という気もしますが。
以降、「黒田新続家譜巻之八」を参考にします。
さて、評定所に両国村民が呼ばれ審判が始まり、双方有利な資料を提出し正当性を主張しますが、ここで筑前側不利の決定的証拠が出てきます。正保の国絵図を官庫から引っ張り出してきたところ、筑前国の正保の国絵図には脊振山が載っておらず、肥前側には弁財天上宮がちゃんと記載されていました。
一転不利となった筑前側村人ですが、へこたれることなく「国絵図に載っていないのは国絵図を作った役人のミスである。」と言い張り、遂には検使を現地に引っ張り出します。
元禄6(1974)年5月江戸幕府より、佐久間小左衛門と設楽勘左衛門の2名が検使として差下されます (6月18日博多着) 。この検地の模様も「肥前脊振弁財嶽境論御記録」にはこと細かく、一方「黒田新続家譜」にはいかに検使をお接待したかが書かれています。煩雑ですので詳細は避けますが、一点だけ肥前側資料におもしろい話が載っていましたので紹介します。
検地の最中、ある日検使が「ところで弁財天はどちらを向いている?」と聞いたそうです。弁財天が北の筑前側を見渡していれば筑前の神様であるし、南を向いていれば肥前の神様であろうと言うことを聞いたわけです。筑前の役人も肥前の役人も「それはもちろん我が国の方のはずであるが、今一度確認して参る。」ということで人を走らせます。期待しながら祠の中の弁財天を見ると、祠の中の弁財天様は、この争いをあざ笑うかのように南北どちらも向いておらず、そっぽを向くように紛争の地である稜線の方を見つめていたそうです。
尚、この話は、聞いたのは老中 大久保 忠朝で、聞かれたのは両藩主(黒田 綱政と鍋島 光茂)だった、聞かれた場所は江戸城詰めの間と言う話もあります。この話では両藩主は江戸から早馬を仕立てて、弁財天の向きを見に行かせたということになっています。
結局、元禄6年10月12日に裁許が下り、肥前「勝訴」となります。
この裁許状にはそうそうたるメンバーが名を連ねていますので紹介しますと、
稲 伊賀守 (勘定奉行 稲生 正照)<旗本>
松 美濃守 (勘定奉行 松平 重良)<旗本>
能 出雲守 (江戸町奉行 能勢 ョ<頼>相)<旗本/南町>
北 安房守 (江戸町奉行 北條<条> 氏平)<旗本/北町>
本 紀伊守 (寺社奉行 本多 正永)<舟戸藩主・後に沼田藩主>
戸 能登守 (寺社奉行 戸田 忠真)<後の佐倉→高田→宇都宮藩主>
松 壱岐守 (寺社奉行 松浦 棟)<平戸藩主>
山城 (老中 戸田 忠昌)<佐倉藩主>(寺社奉行 戸田忠真の父)
加賀 (老中 大久保 忠朝)<小田原藩主>
「黒田新続家譜」には、この後愚痴がこぼしてありますが、最後にこの争いは決して村民の罪ではなく、正保の絵図に脊振山を描き忘れた有司(役人)の責任であると書いてあるのは、何をか言わんなんでしょうね。
脊振山の国境石
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