江戸の中期以降は、普請の割り当てや参勤交代による出費、天候不順による飢饉、大名家の驕奢な暮らし向きにより、財政難に苦しまないお家はいなかったと言えます。それこそが版籍奉還がスムーズにいった(各藩主は本音ではもう投げ出したかった)要因の一つと言われています。
延享4(1747)年より三河国刈谷領を治めた土井家(23,000石)も財政難の中で、領内に無理な賦課を求め続けますが、寛政2(1790)年、ついに耐え切れなくなった農民の蜂起により、寛政の一揆と言われる大規模な騒乱が起こります。この一揆はほどなく鎮圧されますが、譜代の土井家に起こった一揆を重く見た幕府は、領主 土井利制に謹慎を命じるとともに、その領地の一部を付け替える処置を行います。
一方、陸奥国福島領板倉家(23,000石)は、かねてより幕府へ領地替えを願い出ていましたが、このタイミングでそれが叶い、寛政4(1792)年に刈谷領23,000石のうちの碧海郡21ヶ村13,000石が板倉家に付け替えられ、土井家には福島領の内伊達郡及び信夫郡の10,000石と磐前(いわさき)郡の公料3,000石※1が付けられます。
結果は13,000石ずつの付け替えですが、福島領だった陸奥国内の10,000石は、板倉家が領地替えを願い出る土地柄だったこともあり、土井家にとっては実質減封となったようです。
Wikipediaの刈谷領に於ける寛政一揆及び領地替えの記述
これにより三河国内東海道上で、刈谷領と岡崎領の間に福島領が入ることになります。
寛政4(1792)年以降 東海道上の諸領
尾張国
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三河国
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知多郡
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碧海郡
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東阿野村
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今川村
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今岡村
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一ツ木村内
泉田村内
一里山村
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知立村※2
池鯉鮒宿
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牛田村
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来迎寺村
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里村内
野池村
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今村
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大濱※3茶
屋村
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尾崎村内
茶屋村
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尾張領
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刈谷領
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福島領
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岡崎領
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豊明市
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刈谷市
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知立市
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安城市
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※3以降は「浜」の字を使用します。
こうして新たに領境となった、刈谷領知立村(池鯉鮒宿/知立市山町・中町・本町・西町など)と福島領牛田村(知立市牛田及び牛田町)の境には刈谷・福嶋(以下領境石の表記に従い、領境石のみ「福嶋」と表記します)両領境石が、また福島領大浜茶屋村(安城市浜屋町)の岡崎領尾崎村内茶屋村(安城市宇頭茶屋町)境には福嶋領境石が建てられました。(後述しますが、その時点で岡崎領茶屋村の西端には、是より東岡崎領境石が建っていました。)
三河国刈谷領今川村と尾張国尾張領東阿野村(豊明市阿野町)は境川を国境とするため、国境石は建たなかったようです(刈谷領土井家が東海道上に建てたのは、福島領境の1基のみ)。17世紀末時点での情報 (天和元<1681>年頃の作製とされる )になりますが、 国立国会図書館デジタルコレクションから東海道絵図巻第八 赤坂ヨリ宮マデの18/23コマで該当部を見ても、三河尾張堺橋の両詰に標柱状のものは認められません。(国境標が建っていたと思われる例として、同絵図巻第三の10/14コマには、「相模伊豆堺」に赤い標柱状のものが描かれています。)
国境石・領境石とは関係がありませんが、国立公文書館デジタルアーカイブから 天保の三河国絵図を見ると、堺橋を挟み今川村から尾張国阿野村まで十八町七間半(約2Km)となっています。東阿野村は元々は 天保の三河国絵図の表記通り阿野村だったようですが、知多郡内にもう一つ阿野村(西阿野村<常滑市西阿野>)があるために、江戸中期以降は東西で呼び分けられたようです。
同じく国立公文書館デジタルアーカイブから 天保の尾張国絵図を見ると、東阿野村から今川村(刈谷市今川町)ではなく三河国泉田村(刈谷市泉田町)までが同じく十八町七間半と記されています。名古屋市図書館が公開する 元禄の三河国絵図では、今岡村(刈谷市今岡町)と境川の間には、今川村ではなく泉田村内茶屋村が見えます。角川地名大辞典刈谷市 今川村(近世)では、「泉田村の出郷である茶屋村が分村して今川村となった」とされていますので、 天保の尾張国絵図の言う泉田村は、枝郷の茶屋村(後の今川村)のことでしょう。
天保の国絵図が作製された時期には、三河国絵図がいう阿野村は東阿野村に、尾張国絵図がいう泉田村は今川村になっていたはずですが、このあたりは両国絵図ともに、元禄の国絵図からUPDATE出来ていないようです。
角川地名大辞典 豊明市 東阿野村(近世)欄には、東海道上境川に架かる橋は土橋(木橋に土舗装)だったとされており、「幅が4間(約7.3m)で、長さ7間半(約13.6m)が尾張分・5間4尺5寸(約10m)が三河分」とされています。現在ここに架かる橋は境橋ですが、当時から25mプールほどの長さの橋が架かっていたようです。( 現在の境橋はもう少し長いか?)
泉田村内茶屋村に大浜茶屋村( 元禄の三河国絵図で見ると里村の内)・尾崎村内茶屋村と、どれだけ茶屋が建つのかという感じですが、これが東海道の繁栄であり、村域に東海道を抱えつつも中心部が街道上になかった村々は、街道上に競って新村を立て経済利益を得たのでしょう。
※1陸奥国内の刈谷領は後に整理され、旧高旧領取扱帳データベースで見ると、幕末時には伊達郡11ヶ村10,210.6石(小数点第2位以下を四捨五入、以下同)しか残っていません。一方で、角川地名大辞典の記述では、碧海郡高浜村・吉浜村(高浜市)、高棚村(安城市)・新百姓村(知立市八ツ橋町の北側)はそれぞれ刈谷領でしたが、寛政4(1792)年の領地替え時に一旦公料になり、文化11(1814)年に再度刈谷領になったとされています(高棚村は寛政4年の領地替え時に、半域は福島領に付け替えられ残り半域が公料となり、文化11年には公料部分のみが刈谷領に復す)。この4村の石高を足すと、同じく幕末の数字にはなりますが2928.6石あります。
陸奥国内の刈谷領を整理した段階で、3,000石は碧海郡内に付け戻されたのかと思いましたが、旧高旧領取扱帳データベースの刈谷領をすべて足すと26,419.7石になってしまい、3,000石が丸々浮いてしまいます。この時期の土井家は加増もあっていませんので、明治初期の実石が26,000余あったということなのかもしれませんが、ちょうど3,000石増えているというのがちょっと不思議です。
※2知立町・池鯉鮒村(町)とも。知立村に表記を統一しています。IME環境で「ちりゅう」と入力すると池鯉鮒に変換できるのは、人生で初めて池鯉鮒を入力する私には驚きでした。
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