2018年にみさとシティハーフマラソンに参加した際に、越谷市大成町の忍領境石だけは見学していましたが、忍領境石はその他にも数基現存しています。画像越しに見るその姿かたちに共通性があることからこの目で確認したく、2021年でしたか取材を計画したのですが、当時は新型コロナウィルスの感染状況が芳しくなく、行動制限もあったため断念しました。
ほぼ制限もなくなったことから、2023年のゴールデンウィークに取材に行きました。その際に前砂の境石が現存しているお宅のご主人や、熊谷市の熊谷市美術・郷土資料展示室の学芸員さんから資料をいただきました。それら資料の中から、行田市郷土博物館研究報告 第8集(2016年)「<調査報告>忍領境界石の現況」(以下は行田市報告書とします)を中心に構成します。
WEBでの事前検索で、「忍領境石は16基建てられた」「安永9(1780)年に、それまで建っていた境木を境石に改めた」と認識していたのですが、いただいた資料には「安永9年正月29日に御分木 (石原村の)2本ともに石に替わり立ち」「御領分中残りなく石に建て替わる。柿木共に石数16本なり」となっています(埼玉地方史第81号「忍藩領分杭の成立・立替の経緯と意義」澤村怜薫著2021.4より引用/出典は松崎十右衛門 御用留。参考:天明3<1783>年に石原村名主松崎十右衛門が記した御用留 浅間山噴火の日記。)
村の名主の立場での記録ですから、実際に作業した日付であることは間違いないでしょうが、全体の本数は役人から漏れ聞いた伝聞情報になるかと思われます。この点は考慮する必要がありますが、現存する数少ない記録ですので、御用留を受け入れてこれを元に考えていきます。
八潮市立資料館の八潮の歴史文化ナビから「明治4年(1871) 廃藩置県直後の諸県図を見ますと、忍県(忍藩領)は行田を中心とした本拠(城付領)と秩父域に大きく分かれ、さらに1村から数村単位の飛び領があったことがわかります(阿部時代は摂津に、松平時代は伊勢にも領地を持つ)。もちろんこの図は松平時代幕末の姿で、領境石を建てた阿部時代とは細かい村の付け替えがあっている可能性があります。村の付け替えは、領域の塊の中心をぽっかり抜かれることは珍しく、他領との境である領域塊の外縁で行われることが多かったはずです。その結果、領境が村単位で変わることがあったかもしれません。
石原村名主の安永9年正月の御用留には「柿木共に16本」となっており、忍城を中心とする本拠の他に、柿木には建てられた記録があります。柿木は廃藩置県直後の諸県図で見た右下、草加の上にある飛び領になります。
こちらも行田(忍城下)と同じ埼玉郡ですが、忍領境石が建てられたと思われる東方村を始め、麦塚・別府・見田方・南百(なんど)・四条・千疋(以上越谷市)、柿木(草加市)の8村が該当します。幕末時の数字になりますが、旧領旧高取扱帳データベースから該当の村の石高を足しこむと4928.6石(小数点第2位を四捨五入)あります。
一方、秩父の忍領域は、寛文3(1663)年の阿部 忠秋の2万石加増によるものであり、大宮郷(秩父市大宮)に代官所が置かれていました。同じく幕末時の数字になりますが、1万石を越える小大名に相当する領地を持っています。こちら側には領境石が建てられなかったのか、私は今のところはその記録に触れていません。
その他の村単位の飛び領に関しては、先述しましたように石原村名主の御用留に「柿木ともに16本」となっており、本拠(城付領)に加えて「柿木ともに」という意味でしょうから、その他の地域には建てた記録がないということになります。
行田市報告書には、「御領分絵図」及び「忍御領分村々覚」(いずれも文政年間<1818〜1830年>)等で9基の存在は確認できるが、残り7基は情報が皆無となっています。境石が建った時から、御領分絵図及び御領分村々覚が記された時には4〜50年が経ち、この忍領は松平時代の領域になることに留意しなければなりません。
行田市報告書に記載がある忍領境石は、
埼玉郡屈巣村(鴻巣市) 1基
足立郡前砂村(鴻巣市) 1基
大里郡石原村(熊谷市) 2基
埼玉郡上新郷村(羽生市) 2基 の現存が確認されており、
埼玉郡袋村(鴻巣市) 1基 御領分絵図 忍御領分村々覚共に記載あり、写真もあるが現在は不明
埼玉郡小針村(行田市) 1基 御領分絵図 忍御領分村々覚共に記載あり
大里郡肥塚村(熊谷市) 1基 御領分絵図 忍御領分村々覚共に記載なし とされています。
大成町(越谷市)の領境石は、石原村名主の御用留にいう「柿木」に建てられた忍領境石ですので、これを加えると16基のうちの10基は情報があることになります。
以降、せっかく史料がありますので、御領分絵図・忍御領分村々覚についても、行田市報告書から引用し、各欄に記載しています(一部をひらがなにしています)。
その特徴としては、御領分絵図には「境標」と表示されたものが塚の上に描かれています。私の手元にあるものは粗い白黒画像ですが、行田市報告書では「塚が緑色に着色されており、盛り土が崩れないように植栽されていたと見られる」とされています。その向きは、道路面に文字を向けて建っているように描きこまれたもの(屈巣・石原「上の方」・前砂)と、文字を相手領(もしくは自領)に向けて建っていたように描かれたもの(上新郷の2基と、現存はしていない袋村・小針村)が混在しています。
一面彫りの境石は文字面を道路に向けて建て、他領から自領に入ってくる人だけではなく、自領から他領に出ていく人に対しても自領域を主張するものと思っていましたが、絵図を見る限り4基の忍領境石は、相手領を向いて建ち、他領から自領に向かって歩いてくる人に対して、「ここからは阿部豊後守(能登守)さまのご領内である」ことを主張していたように描かれています。
これが領境石の建つ向きを正確に描写したものなのか、単に絵図のスペースの関係でそう描きこんでしまっただけなのかは、今のところ判断できません。しかし上新郷「羽生道往還石」・袋村・小針村の3基は、川端に建っていたという共通点があり、川を渡ってくる(分絵図・村々覚の記述上は、袋・小針は橋が架かるが、上新郷は橋が架かっていなかった)人の目に入りやすように、実際に文字面を川(橋)に向けていた可能性があるのかもしれません。(この件は、 まとめ欄にも少し書いています。)
もう一基の上新郷「別所外の堤下石」は、堤下の丁字路というべき場所に建っており、分絵図を見る限り、この向きでもおかしくはないのかなと感じます。(この石だけがこの向きで描きこまれていたならば、ありえないと感じたでしょう。)
忍御領分村々覚には、領境石の所在場所として「往還の左(もしくは右)」と書かれていますが、これは忍領の村から領境を見て、道の左端もしくは右端に建っていたことを示しているようです。
忍領境石の最大の特徴は、大きく面を取ってある丁寧な仕上げです。
屈巣村の忍領境石
大きく面を取ってある領境石は波佐見町三領境石(長崎県)で見たことがありますが、こちらは三領境の三角柱という特殊な形をしており、角が鋭角になり欠けやすいので面を取ったと推測できますが、四角柱の境石ではこれだけ大きな面取りは記憶がありません。
波佐見町三領境石
数年前に大成町(越谷市)の忍領境石を見た時から、これが最大の特徴だと思っていましたが、今回現存する忍領境石7基すべてで、面が取られていることを確認しました。
また、7基の忍領境石はすべて安山岩で作られています。石質にはまったく素人なので言及できませんが、関西以西では花崗岩製の碑を優勢に感じますが、関東では安山岩の碑や石垣をよく見ます。
サイズもほぼ一定しています。本来は地中になる粗仕上げが露呈している石原「上の方」石は竿石となる部分の全長が170cm、同じく上新郷(現 本陣)石が169cmです。前砂は頭を切られていますので154.5cm、屈巣と上新郷(現 脇本陣)は粗仕上げが露呈しておらず(本来の竿石以下になっていると思われる)それぞれ166cm・160cmと、いずれも170cm程度(5尺7寸仕様か?)で作られたと考えられます。( 大成町石だけが157.5cm<粗仕上げが露出しており、それを引いた正味全長>とかなり低い。)
横幅は30cmで揃っていますが、厚は前砂の20.5〜屈巣の24.5cmまで若干のバラつきがあります。
最後に、各領境石の筆跡を比較してみたいと思います。私が現認した7基の忍領境石のうち、石原村「下の方」石のみが折れて上部が欠損しており、「従是」部分がない上に、「領」の文字は石が敷き詰められており半分以上が見えません。7基すべてに共通する文字は「忍」です。
はじめは「忍」で比較しようと並べてみたのですが、「忍」は元々冠と脚でバランスが難しい上に、上の方角文字(「北」と「南」では画数が大きく違う)とのバランスをとる必要があったのかバラバラで、これを同じ人が書いた文字と言うことが出来ません。すべての石で文字を書いた人が違うのか?と思ったほどでした。
そこで石原村「 下の方」石は対象外になりますが、「是」の文字で比較すると類似点が多数あります。
@全体的に右肩上がりなところ。
A「日」ではなく「曰」になっている(前砂石は「日」になりかけていますが、留められています)。
B2画目が4画目を越え、5画目に達している。
C6画目が5画目の中央に乗らずに右に寄っている。
DCの結果、5画目と7画目の右端がほぼ同じ長さになっています。
大成町
最後に、冠と脚のバランスが崩れそうなところを、力強い払いで見事にまとめています。今回は「是」の文字で比較しましたが、「従」の文字にも多くの類似点があります。すべては挙げませんが(あとで この特徴を使いたいので)一点だけ示すとすれば、
上新郷「脇本陣」
四画目・五画目の「ソ」が大きく、多少のバラツキはありますが旁の1/3程度を占めています( 大成町石は特に大きくて、半分に達っそうかとしている)。「忍」の字があまりにもバラバラなので、同じ人の文字と言い切ることをためらいますが、「従」や「是」に関してはよく似た特徴を持っているといえます。
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