福岡領境石(対中津領)


荻浦 多久川端
文 字
表) 従 此 川 中 央 東 北 福 岡 領   
左) 志 摩 郡 荻 浦 村 抱           (石工 上○○兵衛)
右) 文 政 元 年 戊 寅 九 月 建 之
裏) 由比氏顕之碑  以下碑文
 

 

   
以前の画像
場 所
現在は荻浦の天神社前にあります。多久川を挟んで中津領の多久川端御境石と並んでいたものと思われます。
備 考
糸島郡誌によると「神在川中」にあったものを明治24年頃ここに移設し、由比五八氏(荻浦出身、江戸期より荻浦の発
展に努め、明治以降は県会議員等を歴任したらしい)を顕彰する「由比氏顕之碑」としたそうです。

画像では分かりにくいのですが、下の右側の画像矢印より下の部分は荒削りです。領境石としてはこの部分より下は
地中にあったと想像できます。

左面のかなり下部に「石工」の名前が彫ってありますが、この部分は領境石当時は地中と思われますので、この石工
は「由比氏顕之碑」を彫った石工さんなのでしょう。

この領境石は糸島郷土民俗研究会の方に案内していただきました。文政元年(文化15年)は1818年です。

筑前要鑑(宮崎 大門)には「多久村小川公領堺也 ニ川相近所書堺石立」との記載が見えます。

この石の筆者と建立年の考察についてはこちらを。

 2007/11/25追記

 久しぶりに訪れたら正面に建っていた民家がなくなり、また文字に墨を入れてあり撮影しやすい状況になっていまし
た。この状況で見ると、「從」としていた文字が「従」の崩し字であることが確認できました。今まで「從」としておりま
したが「従」と訂正いたします。

サイズ゙
高さ 370(領境石としては300と思われる)×横 49×奥行 47.5(cm)


前原市 有田
文 字
從 是 北 福 岡 領
 
  
場 所
現在は前原市有田の民家に。元々の設置場所は不明です。
備 考
怡土郡内では今までこのタイプ(1石1領・從<従>是の銘)の福岡領境石を見つけることが出来ませんでした。

日本各地の国境石を見ても単独の国(領)名で「從(従)是」という表記がスタンダードですが(もちろん多くの例外が
あります)、怡土郡内の単独(1石1領)の福岡領境石である荻浦の領境石は「川中央東北福岡領」ですし、
野の領境石は「此道より東福岡領」という銘です。

怡土郡内の福岡領と公領境は、多久・東の領境石三坂・香力の領境石ももやい(両面彫り)になっています。公領
境は幕府への遠慮があってもやいだったとしても、福岡領と接していた中津領境石にはこのタイプ(1石1領・從<従>
是の銘)の領境石がありますので、それに対する「1石1領・從<従>是」の銘の福岡領境石もあったはずだと思ってい
ました。


また、この石は玄武岩です。怡土郡内では玄武岩の境石は多久・神在の村境石にわずかに例を見ることができま
す。前原市は今でも花崗岩がいくらでも転がっており、この地域の領境石のほとんどが軟らかくて加工しやすい花
崗岩を使っています。

この有田の福岡領境石は明治になってどこかからこのお宅に持ち込まれたようですので、元々どこに建っていたか
は不明ですが、北が福岡領になること、玄武岩であることから、有田もしくは富(中津領)と篠原もしくは多久(福岡
領)との間あたりにあったと考えるのが適当ではないかと考えます。


この石は糸島郷土民俗史研究会の方が聞き込んでこられて教えていただきました。

前原市周辺の民家にはきっとまだいくつかの領境石が残っているのではと思っています。多久・東の領境石も半分
ほどは行方不明ですし、三坂・香力も1基だけではなく昔はもっとあったと地元の方は言われます。また、西端の
津市側には残っている対馬(対州)領境石が、東端の前原・二丈側からは1基も出てこないのが不思議です。

もし、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら是非教えてください。          2006/04/09
サイズ゙
高さ 117×横 46×奥行 32(cm) 玄武岩 

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