備中国・備前国

備中国

二本松峠
文 字
  是 東   備 中 
 哲 多 郡   大 竹 村
  
場 所
 備中国哲多郡大竹村(公領/岡山県新見市哲西大竹)と備後国比婆郡福代村(芸州領/広島県庄原市東城町福代)の境、二本松峠に。現地で対に建つ備後国境石はレプリカ。
備 考
 ※「より」の文字ですが、「從」に横棒が足してあります。この字は見たことがあります。

 筑前 多久村・神在村 村境石

他では見ない文字かつ、私のパソコンでは出せない文字でもあり、筑前の石は村仕事(村普請)であろう山中に建つ実務的な境石でしたから、てっきり書いた(彫った)人が間違えたのかと思っていましたが、別々の場所で同じ文字が彫られ(書かれ)ています。

二本松峠の石は公領の地に建つ街道上の国境石です。考査されているでしょうし、多くの人目に触れて来たものですから間違いのはずがなく、異字体としてこの文字もあったのでしょう。

二本松峠に現在ある備後(広島)側の国境石はレプリカ(オリジナルは東城町東城の徳了寺)ですが、新見市教育委員会教育部生涯学習課文化振興係にお尋ねしたところ、備中国側の国境石はオリジナルで間違いないそうです。
サイズ
高さ 180×横 23.5×奥行 20(cm)


備前国

興除(こうじょ)新田一帯


 吉備の穴海(後の児島湾)は巨大な干潟を持ち、その干潟は奈良時代には、すでに小規模な干拓が始まっていたようです。岡山市の南部に当たる箕島(三嶋/岡山市南区箕島)やそれに隣接する早島(早嶋/都窪郡早島町)、さらには児島半島などの島が付く地名は、単独島だったものが干拓や土砂のたい積の結果、陸続きとなったことを表す地名です。岡山市や倉敷市の南部を歩くと、網の目となったクリークに驚きますが、耕作地が整然と開発され続けた結果なのでしょう。

クリークにも歳神様をお迎えする準備が  岡山市南区

 岡山大学が公開している、池田家文庫絵図公開データベースシステムから、元禄14(1701年)の国新御絵図写(T1−21)を見ますと、



 都宇(つう)郡(窪屋郡と合併して都窪郡)には、妹尾村(岡山市南区妹尾)・箕島村(同箕島)・早嶋の各村(都窪郡早島町)が海沿いの村として描かれ、その先の児島湾には洲らしきものが見えます。(備国都宇郡の村々は、別途表記をしない限り、旗本 戸川氏知行地。)

 ここから備国の村が沖へ干拓を進めていき、早島沖新田(倉敷市茶屋町早沖)及び帯江沖新田(倉敷市茶屋町)が、宝永4(1707)に備国側の新田として完成しています。

 江戸時代の農民は基本的に現金収入を持たず、年貢を納めた残りが家族の食料ですが、いくらも残らなかった・不作の年には足りなかったはずです。しかし、児島湾岸の農民は、目の前に広がる干潟そして海が、家族が食べる食料として、また現金収入を得る海産加工物(というには素朴な物でしょうが)の原料として、大きな恵みを与えてくれたことでしょう。

 児島湾岸の備前・備中両国の村間では、干拓地や漁場を巡る領地・領海争いが長年続き、何度か江戸幕府の調停を受け、最終的に文化13(1816)年に「海縁堤際限り備中地内」との裁定が下ります。これにより備国は大福(岡山市南区)・妹尾・箕島・早島沖新田・帯江沖新田の現有陸地まで、その先の海(干潟)は備のものとなり、興除新田として開発が行われます。

 同データシステムから、すべて制作年不明ながら、児島北西及備中早島・妹尾等入海之図(1)(T2−100−1)を見ますと、のちに興除新田となる備側はまだ干潟で、国境線(黒太実線)が引かれ高札場らしきマークが見えます。

 児島内海岸古図(T2−99)では、国境に樋門が作られ、興除新田は葭(葦)生場となっており、耕作地にはなっていませんが、陸地化しています。

 そして、備前・備中国境絵図(T2−98)では、備国内の村境や神社などが描き込まれ、すでに新田として機能しているようです。

 備国側の村人にしてみれば、目の前の海を閉じられてしまうのは、まさに死活問題と言えたのではないでしょうか。

 文化13年の幕府裁定で、すでに陸地であった備国現有陸地の先の海(干潟)はすべて備域となりましたので、六間川の河口部も興除新田と共に開発され、鶴崎新田として文政7(1824)年に完成します。

 整理しますと、備側の国境の村は、現代の町名では、笹ヶ瀬川東から大福・妹尾・箕島(以上、岡山市南区)、都窪郡早島町、茶屋町早沖・茶屋町(除く字鶴崎)(以上、倉敷市)で、その先に新たに備国域として干拓された、興除・鶴崎新田の国境の村に該当する現代の町名は、東畦・内尾・中畦・曽根・西畦(以上、岡山市南区)及び茶屋町字鶴崎(倉敷市茶屋町)となります。

 それらを経て文政4(1821)年頃に、後述する絵図によると計10基の国境石が建てられ、すべてが現存しているようですが、2基は地中に埋められ、2基は個人宅にあるようで特定できず、1基はあるはずの場所で見つけることが出来ず、今回私は5基のみを確認しました。(国境石の所在地特定には、ホームページ街道歩きの旅から「興除新田の国境標柱」を参考にし、その記述に従いナンバリングしています。)

 尚、同地域の国境石の呼称に関して、備側の地名で呼ばれているものがいくつかありますが、建てられた10基すべてが備石です。私は本来あるべき地名を採用していますので、若干変わっています。また、1.東畦や10.六間川堤は、文化13年の幕府裁定により備前国域となり、新田開発の結果建てられたものであることは間違いありませんが、興除新田域と言えるのか疑問があり、「興除新田一帯」の国境石といたしました。ご了承ください(9.も鶴崎新田というべきでしょうが、同データベースシステムから備前・備中国境絵図<T2−98>を見ますと、該当の場所は「西疇<畦>ノ内」という扱いです)。


 今回はそこまでの情報を必要としませんでしたので、戸川家と一くくりにしましたが、同データベースシステムから、嘉永7(1854)年の備中国巡覧大絵図(T1−22)には村々が領主色別になっています。



戸川 捨次郎(安道)=早島戸川家は緑丸、戸川 左近守=妹尾戸川家は黄丸に黒点、戸川 伊豆守=帯江戸川家は水色と黄色が半々の丸と、それぞれの村の領主がわかります。備中には一橋領まで存在したんですね。

2022/02/01

1.東畦
文 字
  是 東 南 備 前(と思われる文字の一部)
 
場 所
 先に紹介しましたように岡山大学が公開している、池田家文庫絵図公開データベースシステムには、興除新田に関しての多くの絵図が公開されていますが、興除新田水利絵図(T7−199)には、10基の御境石(●)及び6ヶ所の御高札(□)が掲示されています。また同絵図は水利を目的としていますので、川やクリークが描きこまれており、それらの多くは現代に残っています。以後同絵図を中心に話を進めていきます。(御境石<国境石>・御高札<高札場>とも、東から数えて「〇基目・〇ヶ所目」としています。)



1基目の御境石は現在、東畦(備国児島郡)と大福(備国都宇郡)、さらには藤田(明治45年立村)の3町丁境の、藤田域に建っています(いずれも岡山市南区)。

興除新田水利絵図を見ますと、1基目の御境石(国境石)が描きこまれている場所は、備前と備中の国境線が引かれていますが、クリークの外側になり新田開発地(耕作地)ではないようです。今昔マップから岡山 明治28年測図 明治31.3.30発行(1895〜1898)を見ますと、明治45(1912)年に干拓が完成し、初めて村として発足した藤田は、明治28年の時点ではまだなく、現在の東畦・大福と藤田の町丁境が岸(干潟縁)になりますが、干潟の中にも南北に境界(明治28年時点では、都宇郡と児島郡の郡境)が引かれており、児島(郡)東興除村(明治22<1889>年発足)域であるとされています。また、干潟内の川(笹ヶ瀬川下流域)の中央にも市町村境の境界が引かれ、東岸は御野郡福濱(浜)村(明治22<1889>年発足)になるようです。

よって1基目の御境石は、興除新田東畦の域外、干潟に「これより東南は備前国」ですから、興除新田は備前国のものであると言っているわけではなく(興除新田を指すならば、たとえもう少し西の東畦域内に建っていたとしても、示すべき方角は南もしくは南西)、この干潟は備前国のものであると主張しています。実際にここが原位置だったのかはわかりませんが、今も原位置のイメージに近い場所に建っていると言えるでしょう。正確には東畦外や東畦東というべき場所になるのかもしれませんが、きっと東畦の責任・管理下にあったでしょうから、1.東畦としました。

そして一つ目の御高札が、現在の東畦域(新田内)に、「これより南は備前国」と大福を向いて立っていたのでしょう。
備 考
 この石には、「前」の文字あたりに広く欠けがあります。明治以降に新政府の指示で破却しようとしたのではないでしょうか。頭が丸く盛り上がっているのが、興除新田一帯の国境石群の特徴です(サイズに関しては7.中畦に記載)。


この石と4.内尾(箕島・妹尾境)石の間の、宇野(瀬戸大橋)線大福踏切の西にもう一基現存しているはずですが、笹が生い茂っており、線路敷地内でもあり立ち入ることが出来ず、目を凝らして何往復もしましたが、影さえ認めることは出来ませんでした。

その興除新田の国境標柱」が言われる「二.大福線路」の国境石が、興除新田水利絵図に描かれた2基目の御境石になり、ほぼ原位置と言ってよいのでしょう。ただし現在建つ場所(クリーク北岸)が備前域なのか備中域なのか判断できていません。また、画像を見る限り、文字の向きに疑問を感じていますが、現物を確認していませんので控えます。

2ヶ所目の御高札の西に川が見えます。川の名前がわからなかったのですが、今昔マップから 庭瀬 明治28年測量 明治32.2.28発行で見たこの川(西<左>のマーク)になるのでしょう。そこからクリークを数えると、2ヶ所目の高札場は、このあたり(東<右>のマーク)でしょうか。

そのさらに西、「妹尾」の南に3基目の御境石が見えます。興除新田の国境標柱」が言われる「三.妹尾南町」の国境石に該当しますが、このあたりは水路が整理されており、確実なことは言えませんが、妹尾駅の北口前若干西(妹尾駅は備 東畦域にある)あたりでしょうか(埋めた時の文書はあるらしい)。
サイズ
高さ 73×横 18.5×奥行 18.5(cm) 花崗岩 2022/02/01

4.内尾(箕島妹尾境)
文 字
 従 是 西 南 備 前 
 
場 所
 現在は岡山市南区妹尾 妹尾川沿いの妹尾緑道に。

岡山大学が公開している、池田家文庫絵図公開データベースシステムから興除新田水利絵図(T7−199)を見ますと、妹尾と箕島の間、妹尾川と思われる川の中に4基目の御境石が建っています。ここは今でも角角と張り出した内尾(岡山市南区/備国児島郡)が、北は箕島と、妹尾川を挟んだ東側は妹尾(いずれも岡山市南区/備国都宇郡)と境を接しています。

その3村境にこの御境石は建っていたはずで、現在は数mだけ東に移設しています。

4基目の御境石の最大の疑問は、実際に川中に建っていたのでしょうか? 興除新田水利絵図を初めて見た時の違和感は、御境石の多くが、そして御高札ではすべてが、備国内にマークされていることです。境石・高札が行政権のない他領に掲げられることはありえません。

相手(妹尾戸川家)からすれば、そんなことを許してしまうと、「ここまでが我が領だったはず」と言われかねません。そして大げさに言えば、その越権行為は、幕府への挑戦と捉えられる可能性すらあります。(序段に書いた両国間の領土領海争いは、当然裏には役人が控えていたでしょうが、表向きは村人同士のいさかいの態だったはずです。)

同絵図は水利図だったため、クリークを堰き止めたように見えないように、●や□をずらして備国内に描き込んだのではないかと想像します(新田開発により新たに引かれた備前・備中国境には特徴がありますが、その件は7.中畦書いています)。

参考までに、より古いと思われる児島北西及備中早島・妹尾等入海之図(1)(T2−100−1)や児島内海岸古図(T2−99)、さらにはそれよりも新しく、陸地化はすでに終わっているように見える児島郡内海干潟御新開場御目論見場所分間三歩百間下積麁絵図(T7−190−2)に於いても、境石はまだ建っていませんが、高札はすべて備国内に立っていると描かれています。

もし、この4基目の御境石が妹尾川の西岸、かつ箕島・内尾境の水路沿いに建っていたならば、川中に描きこまず、他の御境石・御高札と同じように、妹尾川に沿ってその西に、●だけ箕島に出して描かれていなければ、同絵図には齟齬があると言えます。わざわざ川中に描いてあるということは、そこに意味があると考えます(.4.10.はそれぞれクリーク水流の邪魔にならない場所に建っており、この3基こそが原位置にマークされたのではと推測しています)。ほぼ同じ構図なので傍証とはなりませんが、児島湾西岸干拓絵図(T7−194)でもこの御境石は川中に描かれています。

いずれにしても何らかの証拠を見つけなければ、確定的なことは言えません。

その西に3本目の御高札が見えます。4基目の御境石とは逆側の、内尾が箕島へ張り出した西角あたりが該当するのでしょう。さらに西に5基目の御境石が描かれています。興除新田の国境標柱が言われる「五.箕島駅南」の国境土手の御境石は、クリークを数えるとこのあたりが該当しそうです。
備 考
 私が目にした興除新田一帯の国境石5基の内、この石だけに「従」の文字が使われています(画像で確認すると、2.も「従」のようです)。備前・備中が交互に国境石を建てたのならば、片側が「従」・もう片側が「從」を使うということは普通にあります。

同一国の連続した国境石で文字がバラバラになるのは、例えば、同時に複数の人が銘を書く場合や、流失等によりのちの時代に再建した可能性も考えられます。いずれにしてもその場合は筆跡が違ってくるでしょう。そこで文字を並べて比較してみます。「從(従)」は文字が違うので検討できませんので、比較しやすい「是」の文字を使います。

     1.東畦          4.内尾(箕島妹尾境)    6.内尾(早島沖新田境)        7.中畦

     10.六間川堤           西辛川             久米          興除新田の特徴(東畦)

1〜10の5基が興除新田一帯のものです。こうして並べるとそっくりです。

1. 一画目と二画目が大きく離れている
2. 一画目の書き出しの筆を下ろしたときの溜めと、その溜めに3画目の書き出しが重なるところ
3. 一画目・二画目の「日」の縦棒が突き抜けて、両方とも五画目の横棒に突き刺さっている
4. 「人」が突き抜けている (久米の「人」は興除新田一帯のものと比べると、クロスが大きい)

など、挙げればきりがないくらい多くの一致があります。これだけ多くの特徴が5基ともで一致すれば、私はこれを、同じ人が同じ時期に書いた文字と判断しても差し支えないと考えます。

しかし、例えば4.内尾(箕島妹尾境)は一画目の反りが小さかったり、7.中畦は三画目と四画目がくっつき気味など、逆にそれぞれの文字で違う特徴も見えますので、現地で建てる場所(彫るべき方角)を確定させてから、墨書していったのではないでしょうか。現在の私たちはこれを並べて見るので「從」と「従」の違いに意味があるのではと考えますが、それぞれが1Kmずつほど離れており、同時に目にすることはなく、さらにはどちらの字も間違いではないので、当時は気にしなかったかもしれません。

しかし、こうして並べてみると、興除新田一帯の国境石の銘を書かれた方は、格段に字が上手い。
サイズ
高さ 92.5×横 18.5×奥行 18.5(cm) 花崗岩 2022/02/01

6.内尾(早島沖新田境)
文 字
  是 東 南 備 前 
 
場 所
 現在この国境石が建っている墓地は、どの地図で見ても倉敷市茶屋町早沖域になるのですが、現地案内板には都窪郡早島町の指定文化財であるとなっています。町として保護していただいているのですからありがたいばかりですが、茶屋町早沖も早島町も備国域になります。

岡山大学 池田家文庫絵図公開データベースシステムから、興除新田水利絵図(T7−199)を見ますと、「早島」(都窪郡早島町)の東南先に、4ヶ所目の御高札、6基目の御境石が見えます。この特徴的な国境(現在の町丁境)の形状から、御高札は備国児島郡内尾と備国都宇郡の早島及び早島沖新田(倉敷市茶屋町早沖)の3村境(上のマーク)に、御境石は内尾と早島沖新田との境(下のマーク)に建っていたのでしょう。原位置からはほんの数m北への移動です。
備 考
 案内板には「一度盗難に遭ったが、無事に戻って来た。」と記されており、現在は金具でしっかり留めてあります。
サイズ
高さ 92×横 18×奥行 17.5(cm) 花崗岩 2022/03/01

7.中畦
文 字
  是 東 備 前 
 
場 所
 岡山市南区中畦と倉敷市茶屋町早沖の境。

岡山大学 池田家文庫絵図公開データベースシステムから、興除新田水利絵図(T7−199)を見ますと、備前・備中の国境(現在の町丁境)は驚くほど現在と変わっておらず、6.内尾(早島沖新田境)の御境石から南に下り、角角と2回折れる手前に川が見えますます。国境(町丁境)の形状から、この川は丙川でしょう。

丙川から北へ4本目のクリークの、わずかに手前(南)に7基目の御境石が見えますので、7.中畦の御境石は原位置に建っているようです。ただし、あきらかに一回掘り出されていますので、どこかの時点で破却されかけたのでしょう。

7.中畦の御境石の南西、5ヶ所目の御高札はこのあたりに、そのさらに西南に並ぶ8基目の御境石が、興除新田の国境標柱が言われる「八.茶屋曽根」になりますが、道路やクリークからここが該当しそうです。
備 考
 岡山市や倉敷市の現代地図を見て不思議に思うのは、必ずしもクリークの川中中央が国境(現在の行政境や町丁境)になっていないことです。これは文化13(1816)年の「海縁堤際限り備地内」との幕府裁定により、備先の干潟(海)を備岡山藩が新田開発するわけですが、備の陸地も少し削って共用のクリークを作ったわけではなく、備の陸地の先にクリークを作ったからでしょう。

と干潟との間はゆるやかな浜(干潟縁)だったでしょうから、備と接する側も護岸しなければクリークとして機能しませんので、元々あった備陸地と接する部分を護岸(盛り土)してあり、その新たに護岸した備側岸までが、元は干潟(海)地域だったので備国の内ということなのでしょう。

興除新田一帯の国境石は、現在は備域内に建っているものも多く、そもそも興除新田水利絵図では、御境石のほとんどが備国内にマークされています。7.中畦もクリークの西岸に、西を向いて「これより東は備国である」と書かれて建っており、後ろに流れるクリークの川中中央が境ではなく、クリークは備国のものであると主張しています。

Yahoo!地図で見ると、確かにクリーク中央が境ではなく、現在7.東畦の国境石が建つリークの西岸が倉敷市と岡山市の市境(―・・―)となっています。

どうやらこの石はここが原位置で、クリークは備国の内のようです。

この石は本来地中部にあるべき粗削り加工部が露呈しており、国境石としての全長は97cmで採りました。興除新田の国境石の内、「國」まで確認できるのは、4.内尾(箕島妹尾境)6.内尾(早島沖新田境)とここ7.中畦の3基です。4と6は全長を92cm前後で採っており、この石も粗削り加工部のもう少し上まで地中に隠れるでしょうから、1〜10の一連の国境石は、丈3尺 6寸角々の仕様で作ってあるようです。
サイズ
高さ 137(国境石としては97)×横 18.5×奥行 18(cm) 花崗岩 2022/03/01

10.六間川堤
文 字
  是 東 南 備 前
 
場 所
 岡山大学 池田家文庫絵図公開データベースシステムから、興除新田水利絵図(T7−199)には、天城村(倉敷市藤戸町天城/備国児島郡<岡山藩家老 天城池田家領>)の北、六間川の「堤外に新規築立した堤」内に10基目(最も西)の御境石が見えます。

興除新田水利絵図には該当の場所に、六間川と倉敷川を結ぶ川(クリーク)が見えますので、このあたりが該当するでしょうか、現在は帯高(倉敷市/備国都宇郡高沼村)側に建っています。
備 考
 興除新田の国境標柱が言われる「9.茶屋西畦」の国境石は、茶屋町境界標列に書いています。
サイズ
高さ 72.5×横 18×奥行 18(cm) 2022/04/01


備前・備中国境石

茶屋町境界標列

 今回の岡山取材で一番見たかったのが、この無銘の境界標列です。新築の戸建て団地(最初に情報に接した時には、確か田でした)と畑の間、どちらも倉敷市茶屋町という同一町丁に、忽然とかつ不自然に直線で、備前・備中国境線が引かれています。

 初めは理由がわからず「?」でしたが、調べを進めていくうちに「鶴崎新田」というキーワードに行きつきました。

 繰り返しになりますが、帯江沖新田(倉敷市茶屋町)及び早島沖新田(倉敷市茶屋町早沖)が宝永4(1707)に備国側の新田として完成しており、文化13年の幕府裁定で、それより先の海は備のものとなりましたので、六間川のわずかな河口も興除新田と共に開発され、鶴崎新田として文政7(1824)年に完成しています。

(2022/06/01 以下、参照とする絵図を変更し、それにより内容を一部加筆しています。)

 岡山大学 池田家文庫絵図公開データベースシステムから、宝暦5(1755)年1月の児島内海分間見取絵図(T8−71)を見ますと(帯江沖新田が1707年、鶴崎新田が1824年の完成ですので、児島内海分間見取絵図の1755年は、そのちょうど中間あたりになります)、



 絵図の西(右)側、ピンク色に色分けされた備 帯江・早嶋入海沖新田(倉敷市茶屋町)と、その南に白色に色分けされた備前 天城(岡山藩家老 天城池田領/倉敷市藤戸町天城)が描かれ、河口部には灰色に砂と草のマークの「葭(葦)生」が広がっています。そして、天城を包むように北から六間川が、西から倉敷川が流れ来て、天城の東の「葭(葦)生」の中で合流します。

 この帯江・早嶋入海沖新田の南の縁と、六間川・倉敷川に囲まれた「葭(葦)生」を新田開拓したのが鶴崎新田になり、当たり前ですが現代地図の該当部分(茶屋町鶴崎)と全く同じ容です。(帯江・早嶋入海沖新田の南縁に描かれた3つの樋門のうち、真ん中の樋門から西が該当するようです。)

 興除新田水利絵図(T7−199)を見ますと、



 六間川と汐入川の合流地点に、6ヶ所目(最も西)の御高札が見えます。それが今昔マップから 天城 明治30年測図 明治32.12.25発行で見たここになり、逆側の、鶴崎新田の東端(児島内海分間見取絵図でいう真ん中の樋門)はここになるでしょう。その直線上が備・備の国境となり、当然その延長線上に茶屋町境界標列があります。この地点の備・備の国境が不自然に直線なのは、備側がすでに、干拓した人工縁だったからのようです。

 鶴崎集会所は茶屋町1878−6にあり、現代地図を見ると、今でも鶴崎集会所の周りに、茶屋町鶴崎という字は残っているようです。ちなみに、同データベースシステムから備前・備中国境絵図(T2−98)を見ますと、該当の場所は「西疇(畦)之内」という扱いになっています。

 興除新田水利絵図には鶴崎新田内を北から六間川へ流れるクリークが8本見えます。9基目の御境石は東から数えて4本目のクリークの西先ですから、このあたりが該当するのでしょうか。茶屋町境界標列は、9基目の御境石の西に作られたことになります。

 この数基だけ境界列標が設置されたのか、開発と共に失われ、わずかな区間だけ残っているのかは判然としませんが、備側4基・備側2基が今もここが国境だったと主張しています。この石列のすぐ南西 備国内をクリークが流れており、「国境はクリークでなくこちらだよ」という念押しかも知れません。



 備側は備とクリークに挟まれて、畑くらいしか活用のしようがない土地です。長いメジャーを持って行っておらず、石列間の間隔は計っていませんが、目測ではほぼ等間隔なのかなという気がします。

 尚、便宜上、東南から北西へbP・bQのそれぞれ備・備とナンバリングしています。(以下、備を北・備を南と表記します)

  2022/05/01(2022/06/01加筆) 

南(備前)  北(備中
東(Cプラッツチャチャ側)


bP

 
東から見る                                    西から見る


場 所
 東から1列目(備側のみ現存)。
備 考
 初めは三角形かと思ったのですが、西側の縁が錆びており、指で輪郭をなぞると台形でした。石を割って加工した時の矢跡が底辺に2つあります。

bQの備石も錆びがある花崗石ですので、近隣で採れる石を加工して使ったのでしょう。
サイズ
サイズは上記 花崗岩 2022/05/01

bQ

 
東から見る(左 備 右 備)                 西から見る(左 備<頭のみ写る> 右 備

 
 備中                                  備前

場 所
 東から2列目。
備 考
 唯一どちらも三角形をしていますが、ほんのわずかずれており、頂点が指し示す点は5cmほど違います。
サイズ
サイズは上記 両方とも花崗岩(備側は錆びがある花崗岩) 2022/05/01

bR

 
東から見る(左 備 右 備)                  西から見る(左 備 右 備前

 
                                             備

場 所
 東から3列目。
備 考
 備石には西辺に3ヶ所の矢跡があります。

石の底辺と言いますか南辺は、ラウンドしていますので計測していません。備石はもう三角形を意識さえしていません。
サイズ
サイズは上記 両方とも花崗岩                                         2022/06/01

bS

 
東から見る                                    西から見る

場 所
 東から4列目(備石のみ現存)。
備 考
 今こうして画像で見ると、東辺に最低2つの矢跡が見える気がしますが、この石が一番地面に埋まっていることもあり、現地ではまったく気がつきませんでした。
サイズ
 一辺が38cmの正三角形 花崗岩                                       2022/06/01

西辛川
文 字
  是 東 備 前 
 
場 所
 岡山市北区西辛川の境目集会所前に建っています。目の前の国道180号線が山陽道(西国街道)です(山陽道はここから西は旧道を伝う)。備国津高郡西辛川村(岡山 池田領)と備国賀陽(かや)郡宮内村(岡山市北区吉備津/備 庭瀬領)との境となり、現在でも西辛川と吉備津の町丁境ですので、道路拡張による多少のバックはあっても、ほぼ現位置なのでしょう。
備 考
 岡山大学が公開している、池田家文庫絵図公開データベースシステムから、元禄13年12月(1700〜1701年)の備前国絵図(T1−20−1)を見ますと、西辛川村は「平場国境」で「宮内村向畑とは八町(870mほど)」と記されています(向畑公会堂<公民館>は吉備津516−3に)。

上記しましたように境目集会所前に建っており、近隣のバス停も境目ですから、村境の字が境目なのでしょう。

興除新田一帯の国境石群と比べると、サイズ感が二回りくらい大きくて立派に感じます。興除新田一帯の国境石は紛争予防の実務的な国境石ですが、こちらは街道上に建ち、街道を歩く人に司法権・行政権を示す、象徴的な国境石と言えるでしょう。

人間は見慣れるとそれが当たり前のことになりますので、何事につけ初めてそれ(対象)を見た時の感想が正解だと思っており、初めはカメラを構えずに、正面からそして裏へ回り5分くらい眺めていますが、この石の最大の感想は、



「後姿が格好いい」でした。一つには今も街道(国道)の国境(町丁境)を見守り続けている、現役の背中というのもあるのかもしれませんし、無銘の後姿がカッコいいというのは、とんがり頭まで含めたバランスのよさかもしれません。
サイズ
高さ 170×横 27×奥行 27(cm)                                       2022/07/01

久米
文 字
 従 是 東 備 前  久 米 村 分
 
場 所
 備国津高郡久米村(岡山市北区久米)と備国賀陽郡延友村(同区延友)との国境に建つ。この国境石が建つ方往来上に於いて、備国賀陽郡平野村(同区平野)も加えた3村(町丁)境となっています。
備 考
 久米村及び今保村(岡山市北区今保/備国津高郡)と、平野村を経て延友村の間を、国境の境目川が北から南へと流れています。

現地の案内板によると、元禄15(1702)年に備国久米村・今保村と延友村の間に国境争いが起き、宝永5(1708)に大内田村(備国都宇郡/岡山市北区大内田)の大庄屋の仲裁で和解が成立し、13ヶ所計26本の木杭が打たれ、その後、享保年間(1716〜1736年)に石製に建て替えられとされています。

この国境石は、そのうちの備前久米村の基石となるべく、鴨方往来上・境目川の東岸に、現在は自国を向いて建っています。往時から自国を向けて建てたのか、興味深いところです。(相手国に向けて建ち、国境を主張する場合と、自国に向けて建ち、自国民に対して「領地はここまで」との告知の態を取る場合があります。)



その基石となる国境石から「同右」(従是東備前国久米村分)と彫られた傍石一基を挟み、「同右今保村分」と彫られた傍石があったそうですが、「同右今保村分」は、久米・今保の間に区画整理が行われていない限り、ユアサ工機(久米6)と淵本重工業(今保76)の間に建っていたはずです。

一方、備中国延友村側の基石は、「備中国賀郡延友村分」と彫られていたようですが、その東にも「従是西延友村分」と彫られた傍石が一基見えます。それに対する備前側傍石●も建っています。現在の延友と今保の町丁境は、境目川を境としほぼ南北にまっすぐ流れ、足守川に落ちます。この辺り若干の区画整理があっているのか、詳しいことはわかりません。備中の▽も、図上では確かに13基数えられます。

久米・今保・延友は、現在は工業・もしくは準工業地域のようで工場が建ち並び、延友村側に描かれた荒神や明神宮、備前側に描かれた道(久米と今保の間に道があるはずですが、上記の通り工場が隣接しています)を、地図上から見つけることは出来ませんでした。

「前」の下で折れ。明治以降に意識的に破却された跡でしょう。

また、庭瀬駅そばの妙見菩薩・平野消防会館の敷地(岡山市北区平野)に「従是西備中國甲南邨」と彫られた石が建てられています。



甲南村は明治8(1875)年に平野村・平野村沖分・東花尻村・西花尻村・延友村が合併し発足し、明治14(1881)年には分割し、平野・東西花尻・延友の各村に戻ったとなっています。よって、明治8年から明治14年の間に、延友と旧国との境である境目川沿いに建てられたもののようです。

明治以降に「備國」銘で作られていますので、私の分類ではモニュメントとなりますが、明治8年にもなり、わざわざ備国名義で作ったのは、新政府の指示に従い境目川沿いの備国境石(兼村境石)を破却したものの、境目川にはやはり村境標が必要だったということでしょうか。
サイズ
高さ 160×横 18×奥行 18(cm) 花崗岩       2022/08/01

トップへ
トップへ
戻る
戻る