豊前(小倉)・筑前国境


田川郡福智町(赤池)
文 字
  是 東  前  小 倉 領 
 
2015/05/09 画像追加     裏から↑

 
 
場 所
 赤池町(2006/03/06より福智町)諏訪山付近、県道419号線そばにあります。
備 考
 筑前・豊前境ですが、筑前側に国境石があったという記録はありません。

2015/05/09訂正・画像追加
「従」としていましたが「從」に訂正します。

2019/06/01
「豊」としていたものを「豐」に改めました。

2023/04/01
豊前国田川郡上野(あがの)村(福知町上野)の筑前国鞍手郡上境村(直方市上境)との境になります。国立公文書館が公開する天保の豊前国絵図で見ますと、上野村の内 鋤木田(村)が国境の村となるようで、彦山川沿いに街道(現在の県道419号線)が描き込まれており、「此所国境杭有」となっています。

この国境石が置かれるほどの道ですが、田川郡下香春村(香春町香春)の南で秋月街道から別れ、上野村の内 鋤木田村の先で筑前に入り、鞍手郡頓野村枝郷川南村(直方市頓野)の東で、遠賀川を越えて来た長崎街道と合流しています。

たぶんこの道は、角川地名大辞典の下香春村(近世)欄に、「下って西に上野(あがの)道」と書かれている道に該当する、秋月街道と長崎街道を結ぶ往還になるのでしょう。

また、同絵図では、彦山川西岸に於いて田川郡草場村が、筑前国内に草場村の内 能方と能方畠の2ヶ所の飛び地を持っていると描かれています。

天保の筑前国絵図で見ても、鞍手郡中泉村・中泉村の内 迎村・同川端村に囲まれて、「豊前ノ地」が2ヶ所描き込まれています。

能方は金田屋敷とも言われ、現在の直方市金田屋敷(の一部)に該当します。

天保の筑前国絵図では、同所(鞍手郡中泉村の先)には国境杭に関する記述はありませんが、国境の字はすハ山とされており、福岡県立図書館デジタルライブラリから鞍手郡絵図で見るとカン掘の字も見えます。
サイズ゙
高さ 193×横 24×奥行 23.5(cm) ※2015/05/09サイズを変更しました。
(旧サイズ高さ185×横23.5cm)

欠損境石(北九州市)
文 字
上部不明   前 
 
場 所
 八幡東図書館に欠損境石(筑前)と共にあります。

2019/06/01
先日久しぶりに当地を訪れたところ、八幡図書館の位置には市立八幡病院が新設されており、八幡図書館は横にずれていました。そして豊前・筑前の両欠損国境石は見当たりませんでした。地域環境の変化に伴いいのちの旅博物館に保管されていますが、今のところ公開については何も決まっていないようです。(現状非公開
備 考
 豊前の方の上の文字は「東」でしょう。筑前・豊前石とも折尾砂岩といわれる石質だそうです。

2019/06/01
「豊」としていたものを「豐」に改めました。

2023/04/01
国立公文書博物館が公開する天保の豊前国絵図から、企救郡の筑前国境に描かれた「国境杭」「境石」は、

江ノ口に掛かれた国境杭(これは文字が書き込まれた場所・向きから、江ノ口の筑前国境石を指すと考えています。)
唐津街道に描かれた国境杭(境川筋境石
長崎街道に描かれた国境杭(豊前荒生田村の内新町〜筑前大蔵村間)
豊前田代村と筑前畑村を結ぶ峠道上に描かれた境石(筑前絵図・豊前絵図共に自国向きに文字が書かれており、前境石のみが現存しているが、豊前石もあったのでは?)

しかありません。もちろん天保の筑前国絵図に描き込まれた国境杭の倍近い筑前国境石が現存していますが、八王子の数基と金毘羅池は、紛争の結果(紛争に備え)建てた実務的な国境石と考えており、国絵図には載らないものでしょう。

そう考えると、豊前・筑前のそれぞれ欠損境石だけが原位置不明になります。豊前・筑前の欠損境石はセットで置かれていましたので、当時も対で建っていたと錯覚しがちですが、そうであるとは限りません。

豊前の欠損境石を、天保の豊前国絵図 長崎街道上「此所國境杭有」の国境石とすれば、豊前石に関しては過不足がなくなります。(筑前の欠損境石は原位置不明のままですが。)
サイズ゙
高さ 78(現存部)×横 20×奥行 20(cm) 砂岩

境川筋境石(北九州市戸畑区)
文 字
  是 東  前  小 倉 (領)

 
2019/08/01 画像追加

  

場 所
 元は境川に架かる県道の橋の下に建っていたそうです。現在は、戸畑区役所内にあります。

2019/06/01
再移設されたようで、現在は戸畑区役所横の戸畑図書館前にあります。画像追加、サイズの訂正。
備 考
 小倉の下に「領」の字があるのでは?と思っていましたが、資料の掘り出されたときの写真をみると、確かに「領」の字があるようです。資料には木部 市左ヱ門の書となっていますが、案内板には西田 直養の書かもとなっています。

2019/06/01
「豊」としていたものを「豐」に改めました。

023/04/01
国立公文書博物館が公開する天保の豊前国絵図で、豊前国企救郡干上り村の内平松(小倉北区平松町)と筑前国遠賀郡中原村(戸畑区中原東)を結ぶ唐津街道上の国境に、「此所國境杭有」となっているのがこの国境石に該当するのでしょう。豊前国絵図には、中原村より筑前中原村までの距離が書かれており、国境の村域としては平松村ではなく、企救郡中原村となるようです。

今昔マップから、八幡市 大正11年測図 大正14年11月25日発行で見ると、大正時点では該当の道はこれしかありません。現在の宮川橋東詰(小倉北区中井1丁目39先)になります。

同地図をもう少し詳しく見ると境川の流れは中原八幡宮(戸畑区中原東3丁目12)の東で、筑前凸・豊前凹に角角と曲がっています。ここは今でも川が東にくねっていますが、これほど角角とはしていません。

福岡県立図書館デジタルライブラリから遠賀郡絵図を見ますと、字イソトリとキヒフネ(きふね)の間で、まったく同じ形で川が曲がっています。天保の豊前国絵図で見ても、「此所国境杭有」の記載がある唐津街道の北側で、角角とはしていませんが、確かに少し深く曲がっています。天保の筑前国絵図には川は描かれていませんが、筑前が凸になっており、そこにきふねの小字が見えます。(天保の筑前国絵図では、唐津街道には国境杭に関する記述はありません。)

遠賀郡絵図ではまさにマークした地点を唐津街道が通っています。この地図と絵図からだけでは確定的なことは言えませんが、マークした地点は境川筋境石の原位置と、大きく間違ってはいないと考えています。


ここから先は覚書です。

筑前・豊前の境が、大正11年時の境川の流れの通りだとするならば、現在の小倉北区中井1丁目42・43や真颯館高校(小倉北区中井口5丁目1)のグランドは筑前国の内になり、逆に戸畑区中井東3丁目7の川端半分から同3丁目6に掛けては豊前国となります。

この件につきましては、この地図と絵図のみを根拠とするのは早計と考えますので、確定の話ではなく、とりあえずの覚書ということで。(同地図で見た昭和25年三修までは境川はこの形で、一つ新しい昭和44年改測で、今の川の流れになっています。北九州市の合併がその間の昭和38年ですから、探せばいくらでも詳細地図があるはずです。)
サイズ゙
高さ 130×横 23.5×奥行 23(cm) 花崗岩

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