職業軍人への道


 誕生 〜 陸軍教導団へ

  このページでは、白水敬山の「自屎録(じしろく)」を一部参考としている。白水敬山は淡(あわし)と同じ春日村に生まれ、朝鮮駐剳軍時代の淡の押しかけ書生となり、後に淡の助言で出家、埼玉県の平林寺の住職となられた方である。自屎録は敬山が語ったことを弟子の井上健太郎氏がまとめたもので、非売品となっており関係者にのみ配られたもののようだ。

  白水淡(しろうず あわし)は江戸時代末期1863(文久3)年6月6日、筑前国那珂郡春日村(福岡県春日市春日)に白水喜一の二男として生まれた。

  この白水という珍しい読み方の苗字だが、淡の生まれた春日村の隣に(上・下)白水村(現在の春日市白水地区)があった。白水村はむかし白水荘と呼ばれていた。白水荘は平安末期に成立し石清水八幡宮領だったといわれている。

  青柳種信「筑前国続風土記拾遺」の下白水村の欄には、

  『村の北の方篠竹の茂りたる中に清泉の湧出る所有。《中略》旱年《日照りの年》も水涸るゝことなし。是村の名の依て興る所なり。』

  となっている。

  「しろみず」が訛って「しろうず」になったと想像するのは難しくないが、福岡に於いては現在でも白水はあくまで「しろうず」であり「しろうず」と読ませたい限りルビは必要なく、それ以外の読み方をする場合(しらみず・はくすい等)にのみルビが必要となる。

  この春日村の白水姓は筑前領主小早川隆景の時代に、郷士斎藤氏(はじめは藤原氏と伝えられる)が、白水郷から春日神社の境内に移り住んだ時に名乗ったのがはじまりと言われる。

  さて、淡の生まれた文久3年は明治維新の6年前にあたり、この年、薩摩は薩英戦争でイギリスと戦い、京都では新選組が結成され、八月十八日の政変で長州は京都から追放され七卿とともに落ちる。日本はまさに明治維新へ向けての混乱の真っ只中にあった。


  幼い頃の白水家は『赤貧洗うが如きの貧しさ』(自屎録)だった。そのため淡も幼い頃から他家の子守りに行かされた。本を買うお金もないので、子守りの子を背負って墓場に行き、石塔に刻まれた文字を一字ずつ写し、長円寺(春日村)の和尚さんにその読み方を習ったそうだ。

 
現在の長円寺(春日市春日)とその本堂に掛かる白水の扁額

  一方、将来の将軍になるべく負けん気も強く、5歳の頃には兄が悪童に寄ってたかっていじめられるのを見て、家から鎌を持ち出し兄の横に仁王立ちになり「兄じゃ負けるな。おいらここにおるんぞ。」と悪童たちを睨みつけという話も地元には残っている。


 1871(明治4)年、8歳の時に春日村の浦田塾に入った。その後1880(明治13)年8月6日、満17歳の時に陸軍教導団歩兵科生徒となり、その軍人生活をスタートさせる。当時の家が貧しく進学することが叶わない向学心旺盛な子供にとって、職業軍人になることこそが最高の憧れだったと思われる。

 「家が貧しくて」と何度も書いたが、この時代は明治維新から西南戦争の時期に進行している。ほんの一部を除いて日本中貧しいのが当たり前の時代だった。

 陸軍教導団は下士官養成所で国府台(千葉県現市川市)に置かれ、17〜25歳の希望者が試験によって選抜(毎年各兵科合わせて1,700人程度)されたが、その試験の倍率は大変高いものだったと聞く。またその修業も非常に厳しく、例えば修業期間中には一切の休暇がなく帰省も許されなかった。教導団で12〜15ヶ月の教育を受け卒業すると下士官(軍曹・伍長等)となるが、成績優秀者は少尉追補に抜擢された。

 下士官養成所である教導団を出て将軍まで累進するのは、現代の私からはちょっと信じられないが(ノンキャリアが事務次官・局長クラスになるようなもの?)、総理大臣になった田中義一大将や旅順で白襷隊を指揮した中村覚少将(後に侍従武官長/大将)等多くの人をこのコースより輩出している。



 乃木将軍との出会い


 白水は教導団を卒業した後、陸軍士官学校(旧士官生徒時代9期)歩兵科に進んだ。教導団卒業者の内毎年ほんの数名しか陸士に進む道を与えられなかったと聞く。

 そして、1887(明治20)年7月21日、満24歳の時に歩兵少尉を任官している。士官生徒9期には189名の卒業者がいた。陸軍士官学校は、一高(後の東大教養部に相当)・海兵(海軍兵学校)・陸士(陸軍士官学校)と並び称され、日本中の秀才が集まると言われた。白水は教導団を経ての陸士入学だが、陸軍幼年学校を経て(明石元二郎等)・直接陸士を受験(秋山好古等)など様々なコースがあった。

 その3年後1890(明治23)年11月27日、満27歳の時に中尉として陸軍大学校(9期)に入学している。陸軍大学校は陸軍士官学校の卒業生の内、大体成績上位2割程度しか入学を許可されないといわれている日本陸軍最高教育機関で幹部養成所である。

 白水と同期の陸大9期には、



最終職歴 
 陸士卒業期 
 最終階級 
渡辺湊
歩兵第十五連隊長
旧5期
少将
有田恕
台湾総督府陸軍参謀長
旧8期
中将
鋳方徳蔵
由良要塞司令官
中将
及部盛種
歩兵第七十一連隊長
少将
小池安之
第六師団長
中将
 志波今朝一 
第四師団参謀長
大佐
高橋義章
歩兵第三十二旅団長
中将
白井二郎
第八師団長
旧9期
中将
白水淡
第十四師団長
中将
高橋清晏
陸軍大学校教官
少佐
福田雅太郎
台湾軍司令官
大将
町田経宇
 サハレン州派遣軍司令官 
大将
吉岡友愛
歩兵第三十三連隊長(戦死)
大佐
若見虎治
歩兵第十七旅団長
中将
陸士卒業期・アイウエオ順

 の14名がいる。この内、吉岡友愛は白水と同じ福岡出身で、陸士も同じ旧9期だった。日露戦争時も吉岡中佐(第三軍高級副官)とは旅順で共に戦うが、旅順陥落後に歩兵第三十三連隊長となり、奉天会戦において明治38年3月7日戦死されている。(戦死後大佐昇進)

 「自屎録」には陸大時代の次のエピソードが、敬山が子供の頃読んだ新聞記事の記憶として語られている。

 『乃木大将の幕下に、この人ありと言われた白水淡将軍は、才識超凡で戦術に勝(た)け、言行も往々人の意表に出た。嘗て陸軍大学に在学のとき、馬術の教官が将軍《白水》を四つばいに匐(は)わせて馬となし、自らその上に乗り、手綱の握り方はこう、鐙の締め方はこう、馬上の姿勢はこうと詳細に教えていた。時に将軍は、「ヒヒン」と一声あげて立ち上ると、教官はどっと後に顛《転》倒した。将軍は直立して、「この様な時にはどうすれば落ちませんか」と問われた。これには流石の教官も唖然として答うることが出来なかった』

 本当だろうか? 私がイメージする陸軍の学校の風景とも、後の白水淡の言動とも違うようだ。この話が本当なら、若き日の白水の雰囲気が少しはわかるのかもしれない。

 プライドが高く少々生意気なのは、陸軍最高のエリート組織陸大生ならば誰もが持ちえたものなのだろうが、しかし、そのプライドの高さと生意気さを茶目の中に包みこむ頭の良さがあったのだろう。

 1893(明治26)年11月30日、30歳の時に陸軍大学校を卒業し、中尉として歩兵第六旅団(旅団長大島直久少将・第三師団所属<第九師団設立前>)に旅団長副官として配属され、翌年7月の日清戦争に出征する。

 その後、台湾総督府陸軍参謀を命じられる。この時、乃木希典中将が台湾征討に第二師団長として出征、1896(明治29)年10月に台湾総督として着任する。白水は乃木に可愛がられ「乃木の人」となり、乃木の勧めで少しずつ禅に傾倒していく。

 さらに、白水は「孤峯」もしくは「白孤峯」という雅号で漢詩をたしなみ、後に「孤峯詩鈔」という詩集を作っている。「坂の上の雲」でも『日露戦争時に漢詩を作れたのは大将・中将級の年齢の者で、少将クラスの人間にその素養はなく、それよりも若い世代には無縁のものだった』という記述もあるように、日露戦争時中佐の白水は漢詩に親しんだ世代ではない。この白水の漢詩も乃木の影響であろう。

 「孤峰詩鈔」には、この台湾時代の詩が収められている。

 


 泊澎湖島

    明治三十年予時台湾総督府陸軍参謀此年十月随乃木将軍台之

 狂 雨 猛 風 何 足Ú憂   南 門 守 備 豈 忘Ú

 水 連呂 宋三 千 里    雲 接満 清四 百 州

 麟 閣 誰 在 翻 海 智   柳 営 猶 有 抜 山 謀

 澎 城 一 夜 夢 難 結   正 是 東 洋 多 事 秋


 澎湖島(ほうこうとう)に泊る

   明治30年予が台湾総督府陸軍参謀の時、此の年10月乃木大将に随い台之究む

   狂雨猛風何ぞ憂うに足らん   南門の守備豈(あ)に讎(しゅう)を忘れんや

   水 呂宋(るそん)に連なる三千里   雲満清に接す四百州

   麟閣(りんかく)誰か存せん翻海の智   柳営なお有り抜山の謀(はかりごと)

   澎城の一夜夢結び難し   正に是れ東洋多事の秋(とき)



 明治30年10月のことだから、乃木が着任してちょうど1年後のことである。

 また、白水敬山「自屎録」には、白水が後藤新平(台湾総督府民生長官)に「人となりに惚」られて「軍人をやめて自分と一緒に働いてくれないか」と熱心に誘われたと書かれている。後藤の活躍期間は長く、実際に誘われたのがいつのことかは不明だが、白水が後藤の知遇を得たのもあるいはこの台湾駐剳軍参謀時代のことであろうか。

白水淡のご子孫からご提供いただいた写真
前列左端が白水ではないかとのことである。前列左から3人目は乃木のようだ。

 左端が白水だとするとかなり若い時(30〜40歳代?)の写真のようだ。日露戦争時かとも思ったが、どうも写真全体のイメージが平時のようである。


 台湾駐剳軍参謀の後、第十一師団(香川県善通寺)参謀等を歴任したようだが、この時代のことはあまりよくわからなかった。


 家族


 ここに一通の結婚願いがある。

 宛先は陸軍大臣子爵高島鞆之助、「調査の結果問題ない」と添えたのは台湾総督男爵乃木希典、願い出たのは台湾総督府軍幕僚・陸軍歩兵大尉白水淡である。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06082953100

陸軍省大日記 弐大日記明治31年坤「貳大日記1月」(防衛省防衛研究所)


 この願い出書を見ると、白水の奥さんは旧姓二宮百々代と言い、富山県射水郡新湊町大字放生津町(現在の富山県射水市放生津町付近)の出身で、二宮五平の次女・明治5年9月24日生れ、当時25歳であることがわかる。

 しかし大変である。たかが大尉の結婚に台湾総督が添書きし、陸軍大臣の許可が必要だったわけである。しかも、奥さんの地元から身上書まで出ている。

 結婚を願い出たのが1887(明治30)年12月20日、許可が下りたのは翌明治31年1月7日である。本人に許可証が交付されたのはもっと後であろうから、この場合結婚記念日はいつになるのであろう? まあ、戦前の陸軍軍人に結婚記念日という概念はなかったであろうから、それはいらぬ心配であろう。

 「自屎録」には、後年の朝鮮駐剳軍参謀長時代(1916<大正5>年)には、「奥さんの実家がある金沢に」家族を置いて単身赴任していたと書かれている。第九師団所属が長かったので、あるいは金沢に居を構えていたのかもしれないが、敬山の勘違いで、奥さんの実家を金沢と思い込んでいてそう書いた可能性もあり、石川の隣県の富山の奥さんの里に家族を帰していたのかもしれない。

 このホームページを公開して、思いがけず白水淡のひ孫にあたる方からご連絡をいただいた。そして、その方の父、つまり白水の孫にあたる当年(2008年)80歳のT氏(埼玉県在住)と連絡を取り、色々ごお聞かせ願った。

 そのことをここにまとめておく。

 白水は三男四女の子供に恵まれたそうである。しかし時代(太平洋戦争)もあって、早世の子が多かったようだ。

 今回お話を聞けたのは、三女(第4子・明治38年2月生まれ)のご長男T氏であるが、三女も戦争末期に、次男(第5子)は神戸で公務員をしていたが、戦後すぐに、亡くなられたようだ。妻百々代と四女も昭和21年に相次いで亡くなられている。唯一、三男(末子)の正三氏(T氏は、名前の由来は、大正3年生まれだからではないかとおっしゃられた)が平成2年までご活躍され、尼港事件を終生のテーマとし研究を続けられたそうである。

 三女は明治38年生まれなので、ちょうど白水が第十四師団長をしていた頃に高校に入学しており、宇都宮高等女学校(現栃木県立宇都宮女子高校)に第十四師団師団長宿舎から通学され、卒業されたそうである。

 その後、三女の長男T氏が白水にとってはじめての男孫になり、その誕生を非常に喜んだ様子が、今回お見せいただいたT氏がお持ちの史料からも読み取ることが出来た。

 また、白水は後備役編入後、一旦福岡に帰るが、昭和5年東京に戻り杉並に居を構える。その2年後69歳で生涯を終えるが、奥さんはその後、太平洋戦争で空襲が激しくなった頃、白水敬山の平林寺に疎開されたということが「自屎録」に書かれている。


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