白水は教導団を卒業した後、陸軍士官学校(旧士官生徒時代9期)歩兵科に進んだ。教導団卒業者の内毎年ほんの数名しか陸士に進む道を与えられなかったと聞く。
そして、1887(明治20)年7月21日、満24歳の時に歩兵少尉を任官している。士官生徒9期には189名の卒業者がいた。陸軍士官学校は、一高(後の東大教養部に相当)・海兵(海軍兵学校)・陸士(陸軍士官学校)と並び称され、日本中の秀才が集まると言われた。白水は教導団を経ての陸士入学だが、陸軍幼年学校を経て(明石元二郎等)・直接陸士を受験(秋山好古等)など様々なコースがあった。
その3年後1890(明治23)年11月27日、満27歳の時に中尉として陸軍大学校(9期)に入学している。陸軍大学校は陸軍士官学校の卒業生の内、大体成績上位2割程度しか入学を許可されないといわれている日本陸軍最高教育機関で幹部養成所である。
白水と同期の陸大9期には、
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最終職歴
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陸士卒業期
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最終階級
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渡辺湊
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歩兵第十五連隊長
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旧5期
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少将
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有田恕
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台湾総督府陸軍参謀長
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旧8期
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中将
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鋳方徳蔵
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由良要塞司令官
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中将
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及部盛種
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歩兵第七十一連隊長
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少将
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小池安之
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第六師団長
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中将
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志波今朝一
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第四師団参謀長
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大佐
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高橋義章
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歩兵第三十二旅団長
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中将
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白井二郎
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第八師団長
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旧9期
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中将
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白水淡
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第十四師団長
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中将
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高橋清晏
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陸軍大学校教官
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少佐
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福田雅太郎
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台湾軍司令官
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大将
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町田経宇
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サハレン州派遣軍司令官
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大将
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吉岡友愛
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歩兵第三十三連隊長(戦死)
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大佐
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若見虎治
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歩兵第十七旅団長
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中将
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陸士卒業期・アイウエオ順
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の14名がいる。この内、吉岡友愛は白水と同じ福岡出身で、陸士も同じ旧9期だった。日露戦争時も吉岡中佐(第三軍高級副官)とは旅順で共に戦うが、旅順陥落後に歩兵第三十三連隊長となり、奉天会戦において明治38年3月7日戦死されている。(戦死後大佐昇進)
「自屎録」には陸大時代の次のエピソードが、敬山が子供の頃読んだ新聞記事の記憶として語られている。
『乃木大将の幕下に、この人ありと言われた白水淡将軍は、才識超凡で戦術に勝(た)け、言行も往々人の意表に出た。嘗て陸軍大学に在学のとき、馬術の教官が将軍《白水》を四つばいに匐(は)わせて馬となし、自らその上に乗り、手綱の握り方はこう、鐙の締め方はこう、馬上の姿勢はこうと詳細に教えていた。時に将軍は、「ヒヒン」と一声あげて立ち上ると、教官はどっと後に顛《転》倒した。将軍は直立して、「この様な時にはどうすれば落ちませんか」と問われた。これには流石の教官も唖然として答うることが出来なかった』
本当だろうか? 私がイメージする陸軍の学校の風景とも、後の白水淡の言動とも違うようだ。この話が本当なら、若き日の白水の雰囲気が少しはわかるのかもしれない。
プライドが高く少々生意気なのは、陸軍最高のエリート組織陸大生ならば誰もが持ちえたものなのだろうが、しかし、そのプライドの高さと生意気さを茶目の中に包みこむ頭の良さがあったのだろう。
1893(明治26)年11月30日、30歳の時に陸軍大学校を卒業し、中尉として歩兵第六旅団(旅団長大島直久少将・第三師団所属<第九師団設立前>)に旅団長副官として配属され、翌年7月の日清戦争に出征する。
その後、台湾総督府陸軍参謀を命じられる。この時、乃木希典中将が台湾征討に第二師団長として出征、1896(明治29)年10月に台湾総督として着任する。白水は乃木に可愛がられ「乃木の人」となり、乃木の勧めで少しずつ禅に傾倒していく。
さらに、白水は「孤峯」もしくは「白孤峯」という雅号で漢詩をたしなみ、後に「孤峯詩鈔」という詩集を作っている。「坂の上の雲」でも、『日露戦争時に漢詩を作れたのは大将・中将級の年齢の者で、少将クラスの人間にその素養はなく、それよりも若い世代には無縁のものだった』という記述もあるように、日露戦争時中佐の白水は漢詩に親しんだ世代ではない。この白水の漢詩も乃木の影響であろう。
「孤峰詩鈔」には、この台湾時代の詩が収められている。
泊二澎湖島一
明治三十年予時二台湾総督府陸軍参謀一此年十月随二乃木将軍一究二台之一
狂 雨 猛 風 何 足Ú憂 南 門 守 備 豈 忘Ú讎
水 連二呂 宋一三 千 里 雲 接二満 清一四 百 州
麟 閣 誰 在 翻 海 智 柳 営 猶 有 抜 山 謀
澎 城 一 夜 夢 難 結 正 是 東 洋 多 事 秋
澎湖島(ほうこうとう)に泊る
明治30年予が台湾総督府陸軍参謀の時、此の年10月乃木大将に随い台之究む
狂雨猛風何ぞ憂うに足らん 南門の守備豈(あ)に讎(しゅう)を忘れんや
水 呂宋(るそん)に連なる三千里 雲満清に接す四百州
麟閣(りんかく)誰か存せん翻海の智 柳営なお有り抜山の謀(はかりごと)
澎城の一夜夢結び難し 正に是れ東洋多事の秋(とき)
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明治30年10月のことだから、乃木が着任してちょうど1年後のことである。
また、白水敬山「自屎録」には、白水が後藤新平(台湾総督府民生長官)に「人となりに惚れ」られて「軍人をやめて自分と一緒に働いてくれないか」と熱心に誘われたと書かれている。後藤の活躍期間は長く、実際に誘われたのがいつのことかは不明だが、白水が後藤の知遇を得たのもあるいはこの台湾駐剳軍参謀時代のことであろうか。
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白水淡のご子孫からご提供いただいた写真
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前列左端が白水ではないかとのことである。前列左から3人目は乃木のようだ。
左端が白水だとするとかなり若い時(30〜40歳代?)の写真のようだ。日露戦争時かとも思ったが、どうも写真全体のイメージが平時のようである。 |
台湾駐剳軍参謀の後、第十一師団(香川県善通寺)参謀等を歴任したようだが、この時代のことはあまりよくわからなかった。
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