周防・長門国 (長州)


周防・長門国境

 2019/05/01
 令和になった日に、遅ればせながら平成の大合併を踏まえて、この欄は加筆訂正しています。


 周防国(大島郡・玖珂郡・熊毛郡・都濃郡・佐波郡・吉敷郡)及び長門国(厚狭郡・浦郡・美祢郡・大津郡・阿武郡・見島郡)は全域が毛利家の所領ですが、正保の国絵図に見える周防・長門の境口は、

柚木 周防佐波郡柚木(山口市徳地柚木)と長門阿武郡生雲(山口市阿東生雲)・同郡地福(阿東地福)の境、R489号が該当か?

杖坂 周防吉敷郡長野(山口市二保)と長門阿武郡生雲(山口市阿東町生雲)の境、県道334号が該当か?

一ノ坂 周防吉敷郡山口(山口市)と長門阿武郡佐並(萩市佐々並)の境 県道62号。(国境石

大峠 周防吉敷郡吉木(山口市吉敷)と長門美祢郡長田(美祢市美東町長田)の境、国道435号の旧道は大峠。(モニュメント

佛坂 周防吉敷郡小郡(山口市小郡)と長門美祢郡真名(美祢市美東町真名)の境。現在は中国自動車道に仏坂トンネルの名。

塩見坂 周防吉敷郡賀川(山口市嘉川)と長門厚狭郡棯小野(宇部市棯小野)の境、県道230号が該当か?

割小松  同じく 賀川と長門厚狭郡山中(宇部市山中)の境 国道2号。(国境石

床波 周防吉敷郡白松(宇部市西岐波)と長門厚狭郡小串(宇部市小串)の境 国道190号宇部市常盤公園あたり。(モニュメント

 ですから、

 山口市の旧徳地町〜旧二保村(旧大内町)〜山口市〜宇部市床波のときわ公園より東が周防国に、

 山口市の旧阿東町〜萩市〜美祢市〜宇部市床波のときわ公園より西が長門国です。

 宇部市は最東部の山口宇部空港(鍋島)〜ときわ公園〜常盤小学校に掛けてが両国の境となり、旧周防国の西岐波村・東岐波村(宇部市西岐波・東岐波)が旧長門国側の宇部市と越境合併しています。


2019/06/01追記します。

 ではなぜ、周防国の吉敷郡西岐波村・東岐波村が、隣接する同じ周防国吉敷郡の伊関村・佐山村(阿知須町→山口市)とではなく、長門国の宇部市と合併したのかですが、宇部市に編入(合併)されたのは案外遅く、西岐波村は1943(昭和18)年まで、東岐波村が1954(昭和29)年までそれぞれ単独の村として存続しています。

 毛利家の永代家老であった福原家が、寛永2(1625)年より江戸のほぼ全期を通じて、長門国厚狭郡宇部村・山中村・河上村・小串村、周防国吉敷郡白松庄(東西岐波村/一部阿知須も含むらしい)等この一帯の約8,000石を所領しています。この時以来、伝統的に「周防国」や「吉敷郡」よりも、「自分たちは福原様ご領分」(福原経済・文化圏)という意識が強かったのでしょう。

 まったく話は違いますが、福原家といえば禁門の変の「越後」を思い出します。ここでその名に会えるとは。

ここまで2019/06/01の追記    

 この2国に、

 萩領   毛利家36万石

 長府領 毛利家5万石 豊浦郡の大部分(下関市・美祢市豊田前町地区)他

 徳山領 毛利家4万石 都農郡の一部(下松市周辺)他

 清末領 毛利家1万石 豊浦郡の一部(下関市清末周辺)他 (長府藩の支藩)

 岩国領 吉川家6万石 玖珂郡の大部分(岩国市)他 (萩の内石)

 の支藩・孫藩合わせて5藩(内石の岩国を含めないと4藩)がありましたが、この配置を見てわかるように、防長の国境は領境にはなっていません。防長二州の国境は東西どちらも本藩萩領内になります。

 この国境争いが起こりようもない防長二州の国境にもちゃんと国境石が建てられています。これは幕府による国境の確定・表示の指示を受けて建てられたものでしょう。

 そして、防長境の国境石には国名と同時に郡名が入っています(一部モニュメントと思われるものは除く)。どこの地域でもそうであったように、領内の村境紛争はあったでしょうから、これらの石は国境石としてよりも郡境石としての役割が大きかったと推測されます。

 私は正保の国絵図に記されている上記7つの防長境口には、全て国境石が建っていたのではないかと推測していますが、現在確認できているのは、一ノ坂・割小松の2基と大峠・床波のモニュメント2基の計4基です。


 せっかくですから、柚木の北、長門国と石見国の境も、正保の国絵図(長門国)の地名で記しておきます。

 (津より海上) 

佛坂    周防 阿武郡田万(萩市下田万)から石見 飯升浦(益田市飯浦)へ 国道191号

黒谷口  周防 阿武郡弥富(萩市弥富)・同 小川(同 小川)より石見 黒谷村(益田市上黒谷)へ 県道14号が該当か? 
         (津和野領境石
 
徳次口  周防 阿武郡嘉年(山口市阿東嘉年)より石見 徳次村(津和野町名賀徳次)へ 県道35号馬草峠が該当か?

野坂口  周防 阿武郡徳佐村(山口市阿東徳佐)より石見 津和野へ(境から津和野城まで一里) 国道9号旧道
          (津和野領境石

 ※現在の国・県道は、だいたいのルートをイメージするために記しています。後継道路を意味するわけではありません。また地名は必ずしも村名ではなく、荘・浦・厩等の名で、現在も町丁字名として確認できるものを記しています。

 尚、周防・長門の境石の一部は、一ノ坂の国境石に代表されるように、相対する面ではなく、隣りあった面に両国(郡)名を彫ってあり、どちらが表とも判断がつきかねます。とりあえず建立年が書いてある面を便宜的に裏としています。(なにも書いていない面を裏ととらえることもできます。)
2008/02/11 

一ノ坂
文 字
 表) 南 周防吉敷郡  
 左) 北 長門阿武郡
 裏) 文化十五年戊辰十一月建之
 右) (北長門國阿武郡)
 

 
場 所

現在の山口市と萩市の境、萩往還坂堂峠に。
備 考

建立年月日を裏銘とすると、表に周防國・左に長門國と書かれていますが、実は右面にも「北長門國阿武郡」と書かれ消した跡がある不思議な石です。

  

どうしてこんなことになったのでしょう?

別の場所で彫ってここまで持って上がってきたら向きが合わなかったのでしょうか?それとも、萩往還をはさんで逆側に建っていたのを何らかの事情で現在の位置に移設したのでしょうか?(下図のような状況)

いずれにしろ、これはどこかに記録が残っていそうです。


  (現在)      北  (
             南
  ---------------------------------
   至萩     旧萩往還    至山口
  ---------------------------------
  ---------------------------------
             南
  (元)             (現県道62号)

  ---------------------------------

県道を通す時に移して書き換えたのか?とも考えましたが、いくらなんでも山口県はそんなに乱暴なことしないでしょう.し、左右の「北長門國阿武郡」はほぼ同じ筆跡に見えます。

文化5年=1808年。


 以下、2019/05/01追記

正保の国絵図には境口として書かれていませんが、国道9号の木戸山トンネルに並行して走る大峠(幕末には宮野口として境口)にも、ほぼ同じ形の明治19年の国境石があります。明治になってから建っていますのでこれはモニュメントですが、明治19年になってわざわざこの銘で作ったということは、元々は一ノ坂と同じような国境石が建っていたと推測します。

 

サイズ゙
高さ 207×横 31×奥行 30.5(cm) 花崗岩   2008/02/11

大峠/モニュメント(山口市・美東町間)
文 字
 表) 国境
 右) 長門
 左) 周防
  
場 所
山口市・美東町間、国道435号旧道。(鳳翩山トンネル旧道)
備 考

これはモニュメントのようです。江戸期の国境石にしては手が込みすぎています。元々他と同じ柱状のものが建っていたが、明治以降不要になって破却され、後にここに国境石が建っていた証としてこれを建てたのでしょう。

ただし、この件(モニュメントなのか?)を山口県教育委員会にお聞きしたところ「わからない。」とお返事をいただきましたので、これはあくまでも私の推測です。(わからないのは、文化財として管理するものではないからでしょう。)

尚、宇部市常盤公園そばの国道190号上にも、これと全く同じものがあります。別の(旧)郡に全く同じ形状のものがあることも、後年の物であることを語っていると考えます。(江戸期の建立は藩の指示による郡<村>普請だったので大きさがバラバラだが、これらは山口県が一括して同じものを作ったと推測される。)
サイズ゙
高さ 54×横 38.5×奥行 38.5(cm)   2008/02/11

割小松
文 字
 東 周防 吉敷郡
 西 長門 厚狭郡


 
場 所
山口市と宇部市の間、国道2号線上。
備 考

上記の通り、国境ではありますが領(藩)境ではありませんので、長門の門の字が略字で書かれていたりして、緊張感はあまりありません。しかし、割小松という地名は国境(郡境)らしい地名で、ここでなんらかの土地争いがあったことを暗示しています。

通行量の多い国道2号線でしたので、近くのレストランに車を止めさせていただいて、ついでに昼飯を食ってきました。



サイズ゙
高さ 183×横 21.5×奥行 21.5(cm) 花崗岩   2008/02/11


防長国内の郡境石

佐波郡/吉敷郡(佐波峠)
文 字
表)  是 南 佐 波 郡 
右)  是 北 吉 敷 郡
裏) 享和二年亥五月改石
                小 鯖 村

佐波峠(佐波郡側から吉敷郡小鯖村を見る)

 
場 所

佐波郡高井村(防府市高井)と吉敷郡小鯖村(山口市下小鯖)の境。現在の国道262号佐波山トンネルの旧道。

どうでもいい話ですが(書いておかないと自分が忘れる)、旧佐波峠は防府市高井(高井村)に属しますが、そのすぐ横を走る現在の国道262号佐波山トンネルは、同市下右田(同郡下右田村)域になるようです。対する吉敷郡側はどちらも下小鯖(小鯖村)。
備 考

小鯖村(おさばそん)は昭和30年に大内町となるまで、独立の村として存続していたそうです。享和2年は1808年。


サイズ゙
高さ 220×横 30.5×奥行 30(cm)
※高さは「四角錐(とんがり帽子)部分」を除いた値です。(身長よりも高い石は、帽子まで計ると不正確になるため)
2018/08/01 

都農郡/佐波郡(椿峠)
文 字
表)  是 東 都 農 郡 
左)  是 西 佐 波 郡
裏) 嘉 永 六  八 月 再 建   丑は「刃の下にー」の異字体

現在の椿峠(佐波郡から都農郡を見る/右上に郡境石)

 

 
場 所

都農郡戸田村(周南市戸田)と佐波郡富海村(防府市富海)の境、現国道2号椿峠。

備 考

嘉永6年は1848年。奥行のデータを記録しそこなっています。(メモには「2」のみ記載しています。)


山口県にはもう一基、国道2号線上、周南市(熊毛郡)と下松市(都農郡)の境にも、明治19年12月の両郡境石が建っていますが、これは同一国内の郡境石に国名が彫ってあるなど銘が自由すぎるので、今のところは記念碑と考えています。

ただし、明治19年12月には大峠(宮野口)の国境モニュメントも建っています。同年だけならばまだしも、同月に県内別の地域で同じような境石を建てたとなると、県の統一した意思の元に事業が行われた可能性もあります。

証拠が出てくれば「記念碑」という部分を書き改めます。



サイズ゙
高さ 185×横 25×奥行 データなし(cm)                                  2019/08/01

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