白水の墨蹟が地元春日にあるのは当然として、なぜか糸島地区にも数多く残されている。
一つには糸島地区の碑について、糸島郷土民俗史研究会の筒井昭男氏が熱心に先行研
究 されており、「糸島における白水中将の墨蹟」(1999年)「怡土城址碑と白水中将」(2006
年) と2冊の冊子を作られているからで、他地域でも探せば同数くらい出てくるのかもしれない。
ただし、同時代の将軍には、福岡市の西地区(旧早良郡)に西川虎次郎中将(第一師団長
等 /陸士旧11期・陸大11期)がいた。西川中将は文章を書くのに優れた人で、当ホームペー
ジでも資料とした「名忠孝義烈 吉岡大佐」や「西伯利出征私史」等多くの著作を残している。
当然、揮毫を頼まれることも多かったようで、例えば、鹿島(佐賀県)祐徳稲荷神社の大鳥居に
掛かる額は西川中将の書であった。(老朽化のため2007年解体)
旧早良郡(現在の福岡市早良区と西区・城南区の一部)には西川中将の墨蹟も残っている
はずだと思うのだが、私はまだ探し出せていない。(その後、糟屋郡で数基発見。)
大正10年7月18日付の糸島新聞によると、怡土城址の揮毫も当初は尾野實信中将(後に
大将・朝倉郡出身)か西川中将(当時は現役)に頼む予定であったと書かれている。ちょうどそ
のタイミングで白水中将が退官帰郷したので、すでに糸島地区でいくつかの墨蹟を残していた
白水にお鉢が回ってきたようである。
糸島地区に於ける白水の最も古い墨蹟は、大正2年の明光寺(浄土真宗本願寺派)の住職
頌徳碑である。この碑は建立年から、同じ真宗本願寺派の長円寺(春日市)がらみで頼まれた
のではないかと想像するが、それを期に糸島地区に白水が能書家であることが認識されたの
かもしれない。そして、退官帰郷後、徐々に頼まれることになっていったのだろう。
左 西川虎次郎 右 白水淡
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東京朝日新聞(大正6年8月7日付)
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※「はじめに」のページで引用した白水の写真の横には、実は西川虎次郎中将が写っている。
この時(大正6年8月6日付)、陸軍の大異動があっており、白水は朝鮮駐剳軍参謀から下関要塞司令官に、
西川虎次郎は参謀本部第四部長から歩兵学校長に任命され、両者同時に中将に進級している。
西川虎次郎の墨跡
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個人頌徳碑
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注連縄掛柱
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糟屋郡宇美町 宇美八幡宮
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糟屋郡志免町 岩崎神社
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ここで紹介する(旧)糸島地区の碑については筒井氏の冊子を参考にさせてもらった。尚、現
在の福岡市西区の西部も旧糸島郡ということで一緒に掲載する。
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