多久境石(番号石)

 
 多久鍋島家は須古鍋島家同様、龍造寺隆信の実弟長信を祖とする、佐賀藩御親類同格四家のひとつで、多久に居を構えていました(多久邑主)。その多久鍋島家と本藩の間にも、何らかの領境争いがあったのか、境石が建てられています。

 現在境石が一基残る、武雄市北方町芦原(医王寺)と、前ページの須古境石がある白石町稲佐神社は、山を一つ二つはさんだ、それほど離れた距離ではありません。

 目的は須古境石と同じ村境石ですが、外形は蓮池藩の番号石と同じナンバリングです。現地の案内板には享保4(1719)年の設置となっていますので、享保20(1735)年の川津山領堺争い(須古鍋島家と稲佐神社神領境の争い)よりも、こちらの方が先ということになります。また蓮池藩の番号石設置は天明3年(1873年)のことですので、それよりも100年以上も前のことになります。

 須古境石が16年後の設置でも最初は木杭ですから、この多久境石も、初めからこのような、石に番号を彫り込むという形式ではなかったかもしれません。

 本来壱番からあるはずですが、他の番号の石が残っているのかは確認していません。この石も本藩と自治領の境石ですので、正確には私のテーマからは外れますが、村境石ということで記載いたします。
2014/4/13 
 


文 字
 五十七番止

 
場 所
 武雄市北方町芦原(医王寺) 県道36号際
備 考
 自然根付け石
サイズ゙
高さ ×横 ×奥行 (cm)


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