須古鍋島家は龍造寺隆信の異母弟である龍造寺信周を祖とする、佐賀藩御親類同格四家のひとつで、須古に領を構えていました。この須古鍋島家と稲佐神社の神領の間で領地争いが起こっており、本藩の仲介を得て解決し、境石が建てられています。
現在、白石町教育委員会の方がその全貌を明らかにすべく調査中ですので、私はその結果を待ちたいと思いますが、参考に1基だけ掲載いたします。この境石に関しては、20基近い石はもちろん、古文書・絵図も残っています。また、面白いことがいくつかあるのですが、それはまたいずれ。
白石町の広報誌「広報白石」で、須古境石についての連載がありました。(2008年10月号より4回)
H22.6.12
遅くなりましたが、須古領境についてまとめたいと思います。以下、上記「広報白石」を参考に構成しています。
須古境石は、白石町の教育委員会の方からその存在を教えていただき、さらには現地同行までしていただきました。旧三領境石はその時に、教育委員会の方と私で「必ず痕跡があるはず」と探して見つけだした石です。
須古鍋島家と稲佐神社神領境の争いは、「川津山領堺争い」と言われ、享保20(1735)年に本藩佐賀藩の仲介を得て解決に至り、「三方堺石」(新三領境石)が設置されています。翌元文元年(1736)年作成の須古附近図(佐賀県立図書館蔵)が残されており、
この図に双方の主張の領線が書きこまれていますが、不思議なことにお互いが遠慮をして、どちらの領地でもない空白地帯が発生しています。
― 稲佐神社主張の領境 ― 須古主張の領境 ― 本藩(鍋島)領境
― 本藩仲介により決定した領境 ★ 旧三領境石 ★ 新三領境石
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略図で申し訳ありませんが、上(北)が須古領・下(南)稲佐神社領・左(西)が本藩領になります。後に「本藩仲介により決定した領境」の線が基本的には尾根になりますが、須古も稲佐神社もふもと側(東)では、「尾根を越えて自領である。」と主張していたのが、
西に行くにしたがって「自領は尾根の手前までである。」との主張になっています。
領境争いというものは、どちらかが(もしくは双方が)相手の土地まで踏み込んで「俺の土地だ」と主張することから始まりますが、
この双方の主張を見ますと、これはどちらかが悪意を持って相手の土地を取り上げようとしたことに端を発する領境争いではなく、
単純に思い込みから始まった勘違いの重なり合いだったことが読み取れます。
稲佐神社側は、先に自分たちで自分たち主張の領境に三領境石を建てていましたが(旧三領境石)、本藩仲介の結果、元文元年(1736)年に新三領境石が建てられることとなりました。
尚、元文元年(1736)年の須古附近図には、元文元年に建てた新三領境石と稲佐神社主張の旧三領境石は載っていますが、その他の部分は「杭木」(その他松の木6本・椎の木1本)となっており、当初は木杭であったものが、後に石に代わったことがわかります。
また、須古附近図に書かれた杭木は稲佐神社(32本)・須古(31本)が並び建つように書きこまれていますが、現在残るのは「須古境」と彫りこまれた、多分須古側が建てたであろうと推測される石のみです。
自治領と神領の境石ですので、本来は私のホームページのテーマからは外れるかもしれませんが、旧村境であることは間違いないようです。
※ 同じような「須古境」石が19基続きますが、是非一番下の「 新三領境石」と「 旧三領境石」までご覧ください。
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山中にあった空堀跡(稲佐城?)
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山中の「一ケン ニシ サカイ」(一間 西 境)(明治以降?)
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