乃木祭



 白水淡に興味を持って調べるうちに、乃木希典の大将軍服が奉納されている春日神社(春日市春日)に於いて、毎年乃木(及び妻静子)の命日9月13日に乃木祭というものが執り行われているのを知った。



 いつか見学に行きたいと思っていたのだが、今年(平成20年)はちょうど13日が土曜日で休日だったので、思い立って見に行ってきた。



 
第96回乃木祭 春日神社(春日市春日) 平成20年9月13日

 春日神社といえば、正月の婿押しは全国的にも有名だが、乃木祭も春日神社の氏子の方々の手により、私が想像していたものよりも盛大な神事として執り行われていた。

 祭壇には桐箱に納められた乃木大将(戦闘服)と白水中将(立襟ダブルボタン)の軍服が祭られ、午前11時、幕が張り巡らされた「乃木大将遺品收蔵の碑」の前で宮司が祝詞を上げ、各団体の代表がそれぞれ玉串を捧げ、最後に春日市の詩吟の会の方々が乃木(4曲)と白水(3曲)の詩を吟じられる。

 乃木祭という名前ではあるが、乃木と共に地元の英雄白水淡も祭る神事のようである。96回というのは、春日神社で行なわれた祭の回数ではなくて、96回忌という意味であろう。

 尚、乃木と白水の軍服がご神体ではあるが、軍国主義的要素は全くなく、単に乃木と白水を偲ぼうという祭である。



乃木の歌



     惜 花

    色あせて木すえ(ゑ)に(爾) のこ(古)る そ(楚)れならて
     ちりてあとなき 花そ戀(恋)しき


  私が下手な意訳をしてみました。

  由 緒
 明治45年4月私は公務で東京にいた。 その21日、乃木将軍を赤坂新坂町の家に訪ねたところ、 将軍は大いに喜び書斎に案内してくれた。

 将軍はちょうど忠魂碑を揮毫されていたが、 しばらくして静子婦人がお茶を持ってきたので、筆を置き笑って 「白水君、お茶でもあるまい」と自らウオッカを書庫の裏から持ち出し、 それをお茶に垂らしながら、いろいろ語り合いかつ飲み詩を作り、互いに酔った。

 将軍は筆を走らせ和歌や漢詩数編を作られたが、それらは皆、忠君憂国の内容であった。
 それらをいただいて、家に帰って竹かごに仕舞った。

 7月天皇が崩御し、乃木将軍は追慕の気持ちを禁じえることが出来ずに、 9月13日午後8時皇居を葬送の車が出発する時を期して夫妻は自宅で殉死された。

 ああ、将軍は、資性忠厚で精勤・慮真だった。 これを古武士に求めたが私はまだそこまでいけない。

 私は乃木将軍の恩顧を被ることが久しかったので、将軍を仰ぎ慕い、 将軍の側に行きたい衝動にさえ襲われる。

 ここに当時乃木将軍が自筆された惜花の一首を額装し、座右と掲げ、 朝晩乃木将軍夫妻の英霊を拝し、長く後世の人の正しい道の手本となることを欲す。

 大正二年九月十三日 (※乃木夫妻の一周忌)

 於 九州勝山城下草堂 白水淡謹識 (※九州勝山城は小倉城 この時第十二旅団長)

  白水のご子孫の家に伝わるものである。今回許可を得て公開する。

  この歌自体は「乃木将軍詩歌集」(編集/長谷川栄作《乃木の甥にあたる彫刻家》昭和2年・主婦之友社)にも載っている。

    『色あせて木ずゑに残るそれならで  ちりてあとなき花ぞ戀しき

  そして、この歌には『ニ男保典氏の戦死を詠ぜられしものであるといふことであります。との編集者注が付されている。

  この歌自体はこの時即興で作ったわけではなさそうだが、これをあえて白水に与えているところをみると、4人の子供の内2人の子を日露戦争で亡くし(2人は夭折)、全ての子供を先に失っていた乃木にとって、白水は子供みたいな存在であったということであろう。

  どうも私が知る乃木の字とは違うのだが、白水が乃木(の字)に関して間違ったものを残す必要性は微塵もなく、白水が乃木からもらったという以上、乃木の直筆であろう。
   


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白水淡 年表
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