備 考
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私は「藩」と記された境石を初めて見ました。この石については、
@「藩」は江戸時代には公式に存在しません。「藩」は大政奉還後(慶応3年・1867年)から廃藩置県(明治4年・1871年)の間に存在した(旧幕府領を府・県に置きなおし、旧大名領地を藩とした)もので、「領知」・「御家中」を「藩」と呼ぶのは江戸末期の流行語のようなものですから、(私的な文章では使われていたようですが)江戸時代に公的な境石に「藩」と書くだろうか?
A江戸期に於ける「支配所」は幕府領地(公領)の分担統轄を指す言葉であり、松浦家がわざわざ摩擦を起こすような事をするとは思えません。
B平戸領絵図にこの峠に2つの領境石が並んであることが記されているそうですが、下の番所跡の案内板にあるとおり松陰の西遊日記(嘉永3年・1850年)にも「大村領」・「平戸領」各1基の石が建っていると記されています。記録好きで生真面目な松陰のことですから、もし「藩」という文字をそこに見つけたら日記に記したのでは?と思いますので大政奉還の15〜16年前には存在していなかった。
ことから少し新しい江戸時代後のものではないかと思いますが、そうすると、私のホームページ唯一の正しい意味での「藩境石」なのかも知れません。 |