宇和島領

松尾峠 貞享の国境石
文 字
一面)  従 是 西 伊 豫 國 宇 和  領
逆面) (極薄く)従 是 西 伊 豫 國 宇 和  領

奥は天保の国境石
  
 
     逆面の「従是」 右横面「指差し」は道標としての文字                  逆面の「西伊豫」
 
場 所
 松尾峠に建っていた新旧の国境石の先代(仮に貞享の国境石と呼びます)。現在は松尾峠の麓、愛南町小山本村の番所そばに。
備 考
 単純に「道標になっているなあ」と思って横面を見ていたのですが、よく見ると、逆面にも薄く「従是西伊豫國宇和嶋領」の文字があります。国境石としての現役を終えてから、誰かが試し彫りをしたのかとも思いましたが、私が見る限り、この二面の文字は同じ筆跡(て)に見えます。

「えひめの記憶」からの「伊予の遍路道(1)中道@ア 松尾峠から小岩道へ」(平成13年度)によると、この国境石(ここにある両石とも)は、明治以降に橋の一部となり、平成3年になって発見され、ここに建てられたそうですから、橋の床板として人が歩き続けたから摩耗したのかとも考えましたが、「宇和嶋領」が表(上)を向いていれば、「恐れ多くて渡れない」とか多少の話題にはなったでしょうし、橋の床板に境石があることは忘れられなかったでしょう。

橋として使われる前の道標にした時に、街道から見える方の文字を削ったと考えるほうが自然です。(道標として裏面になる方は削られずに助かった。)

この両面彫りで思い出すのは鳥坂峠の宇和島領境石です。あの境石も左右(便宜上この表現を使います)に彫られています。宇和島伊達家では、境石を両面彫りにする癖があったと読み取れますが、ではなぜ、ここに並ぶ天保の石は一面彫りなのでしょう。さらにはなぜ、同じ銘で国境石を作り替える必要があったのでしょう。(境石の折れは全て明治以降の作為的な破却と考えています。江戸時代に折られたら大事件になっていて、死罪になったくらいの記録が残っているはずです。)

「領」を「国」(國)に直すために、天保年間に作り替えられた国境石は複数存在しますが、ここの2基は彫られた銘もまったく一緒です。相対する土佐国境石よりも高さがあり、目劣りするので作り直したわけでもなさそうです。考えられるのは2面彫りが(国内の領境石としては問題がなくても)国境石としては不都合だったくらいしか思いつきません。私は国境石に関して、天保年間に幕府から何らかの指示があったのではないかと考えています(ただし証拠はない)。

上記「伊予の遍路道(1)」「幡多郡中工事訴諸品目録」によると、元は木柱が建っていたものを、貞享5(1688)年に石長八尺幅七寸四方の石柱に替えたとなっています。

2023/03/01追記
国立公文書館のデジタルアーカイブから天保の伊豫国絵図を見ると、一番南に松尾坂が描かれており「此所峯通国境」と記されています。「(伊予国)小山村より土佐國大深浦まで『壱』?里三町」なのか自信が持てずに、天保の土佐国絵図を見てみましたが、もっと読めませんでした。直線距離では両村間は4km弱程度です。(ネット地図では、道なりの距離は計測不能でした。)

天保の伊豫国絵図には、阿波・土佐との多くの国境が描き込まれていますが、「傍示杭」の表記があるのは松尾坂だけです。天保の土佐国絵図でも松尾坂に「傍示杭(織の糸が木)」の記載があります。

伊豫国絵図の外海浦の内 脇本浦に描かれた伊豫と土佐に二分される可愛らしい山が、この標高235.6mの山でしょうか?土佐国絵図には浜中にも何らかの傍示があったように書かれています。
サイズ
高さ 197(とんがり頭を含まず)×横 21×奥行 21(cm)   2021/06/01

松尾峠 天保の国境石
文 字
 従 是 西 伊 豫 國 宇 和  領
 
右は貞享の国境石の横面(道標になっている)                          左は貞享の国境石     
場 所
 現在は小山本村番所近くに貞享の石と並んで。
備 考
 引き続き「伊予の遍路道(1)」では、「伊達宗紀公御歴代事記」に、天保5(1834)年10月17日に松尾峠の国境石を建てかえた記録が見られるそうですからこれがこの石でしょう(仮に天保の国境石と呼びます)。
サイズ
高さ 223(とんがり頭を含まず)×横 21×奥行 21(cm)   2021/06/01


文 字
 従 是 西 伊 豫 國 宇 和  藩 支 配 地
 
場 所
 高知県宿毛市と愛媛県愛南町の境、松尾峠に土佐国境石と並んで。
備 考
 佐世保市の舳の峰峠によく似た銘の平戸藩境石があります。(舳の峰峠は領境ではあるが国境ではないので、国名は入っていない。)

私は平戸藩境石の欄で、

@「藩」は江戸時代には公式に存在しません。「藩」は大政奉還後(慶応3年・1867年)から廃藩置県(明治4年・1871年)の間に存在した(旧幕府領を府・県に置きなおし、旧大名領地を藩とした)もので、「領知」・「御家中」を「藩」と呼ぶのは江戸末期の流行語のようなものですから、(私的な文章では使われていたようですが)江戸時代に公的な境石に「藩」と書くだろうか?

A江戸期に於ける「支配所」は幕府領地(公領)の分担統轄を指す言葉であり、松浦家がわざわざ摩擦を起こすような事をするとは思えません。

と主張しました。これも平戸「藩」境石と同じく大政奉還から廃藩置県の間に作られたものでしょう。長崎県佐世保市(平戸藩)と遠く離れた愛媛県愛南町(宇和島藩)にあるということは、江戸時代の多くの国(領)境石が明治になって意識的に破却されていることを考えると、もっと多くの藩で出て来てもいいと思うのですが。
サイズ
高さ 182×横 25×奥行 24(cm)    2021/06/01

鳥坂峠
文 字
 一面) 従 是 南 宇 和  領
 逆面) 従 是 南 宇 和  領
 


場 所
 国道56号宇和島街道鳥坂トンネルを南に下った酒六冷蔵の前あたりに。もう一基、この石と対になる大洲領境石があるはずですが、見つけることができません。(ストリートビューでは所在を確認しました。)

単純に鳥坂峠を境にして、現在の大洲市が大洲領に、西予市(旧宇和町)が宇和島領かと思ったらもう少し複雑で、鳥坂峠を南に越えた久保村(西予市宇和町久保)及び正信村(同宇和町信里)は旧喜多郡に属し大洲領となり、南久米村を経て昭和29年に、一旦は大洲市の一部となっています。ところが昭和33年になって、鳥坂峠を市町境とした方がすっきりとしたのか、東宇和郡宇和町(西予市)に編入されています。

よって原位置は、現在の位置よりも少し南に下った、宇和郡東多田村(西予市宇和町東多田/宇和島領)と喜多郡正信村(西予市宇和町信里)の境、宇和島街道上にあったのでしょう。

国立古文書館デジタルアーカイブから天保の伊豫国絵図で見ますと、喜多郡正信村・鳥坂村と宇和郡東多田村の間に郡境が引かれ、郡境の若干東多田寄りに一里塚が見えます。現在の関地池(名前は違うようです)も描かれ、その脇には宇和島藩のものでしょう番所があります。
備 考
 下部折れ補修。相対する面に同じ銘が彫られています。現在この石は、道路に面して表裏に銘があることになっていますが、本来なら街道に対して左右に文字を向けていないと、せっかく相対する2面に彫った意味がないでしょう。

そこで表裏ではなく、「一面」とそれに対する「逆面」という表記にしました。「左右」にしようかとも思いましたが、どちらが右でどちらが左なのか判断がつきません。文字を崩してあること、相対する面に2面彫りであることは、松尾峠の国境石でもその特徴が見えますので、宇和島藩の癖のようです。
サイズ
高さ 217×横 21×奥行 21(cm) 花崗岩   2021/05/01

卯之町駅境石

これより東石
文 字
 従 是 東  内  卯 之 町
  天 保 十 四 癸 卯 七 月
 
場 所
 宇和島街道 東宇和郡卯之町駅(宿)(西予市宇和町卯之町)、現在の上宇和町小学校前。
備 考
 天保14年は1843年。


卯之町の町並み
サイズ
高さ 160×横 19.5×奥行 18(cm)

これより北石
文 字
 従 是 北  内 卯 之 町
  天 保 十 四 癸 卯 七 月
 
場 所
 「これより北」石は宇和島街道からは外れています。ここに川及び川沿いから町内に上がる間道(脇街道)があったのでしょう。
備 考
 えひめの記憶からの検索「愛媛県史 地誌U(南予)」には、「東・西・北の3基の石を建てた」となっていますので、「これより南」石は存在しないのでしょう。これは単純に必要がなかったということでしょう。卯之町の北は今でも山(森)となっています。この境石の目的は、通行人(旅人)に駅(町)域を知らせることですので、旅行者が通ることのなかった場所には建てる意味がありません。



現地でもらった「卯之町お散歩絵図」に境石の位置を落としてみました。現在の卯之町1〜5丁目と比べると、かなり小さな町域です。(使用許諾を得ようと思ったのですが、どこにも発行者・著作者の記載がありません。不都合があればご指摘ください。)

尚、上記愛媛県史 地誌U(南予)には、松山の儒者 日下伯厳の書となっています。わざわざ楷書・行書・草書と書き分けたようです。ただ、そこには「花崗岩」となっていますが、そこは同意できません。
サイズ
高さ 148.5×横 18.5×奥行 18.5(cm)

これより西石
文 字
 従 是 西 驛 内 卯之町
  天 保 十 四 癸 卯 七 月
 
場 所
 宇和島街道 宇和町駅 現宇和先哲記念館の北。
備 考
 「これより北」石の欄で使った「卯之町お散歩絵図」には、東口の開明学校下の枡形(=鍵の手)は記載がありますが、西口についてはなにも書かれていません。東口から街道を下ってくると先哲記念館に突きあたり、先哲記念館を迂回して「これより西」石を見ながら駅(町)を出ていくことになります。たぶん、この道筋も昔のままなのでしょう。

「これより西」石は頭が剥離し始めています。
サイズ
高さ 140.5×横 19.5×奥行 16(cm) 砂岩

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