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 吉田松陰 西遊日記(吉田松陰全集10巻・山口県教育委員会・S14/1)

西遊日記は松陰が嘉永3年(1850年)21歳のときに初めて肥前平戸に遊学したときの旅行日記です。この中にも国(領)境石についての記載があります。

 


 8月29日

『豊筑の境に至れば、道右に一石柱あり、是れより東、豊前國小倉領の由刻す。道左に大石柱あり、是れより西、筑前國の由刻す。行くこと一里余にして黒崎に宿す。』

 

 松陰は陸路長崎街道を歩いています。筑前側は「大石柱」ですので三条の国境石でしょう。豊前小倉領の石はどの石のことかわかりません。欠損境石かもしれませんし、現存していないのかもしれません。


 9月1日

『原田宿を過ぎて行くこと少許、小嶺あり、三國嶺<みくにだけ>と云ひ、ニ筑・肥前と相属するの地と云ふ。此れより田代・瓜生野迄、凡そ一万石、対州領なり。』 

 

 三国境石もしくは原田の国境石も見ているはずなのですが、これについての記載はありません。



 9月3日

『嬉野駅を過ぎて田原坂あり、坂の半途に門あり、門内に衛卒あり。門を過ぎて少し行けばニ石碑あり。大者、是北佐嘉領の由刻す。小者、是の西大村領の由刻す。』

 

 俵坂の佐嘉領境石と大村領境石ですが大村領側は正しくは「南」です。



 9月4日

『日見坂を越ゆ。此の坂夥しく(おびただしく)僵松(倒れ松)あり。この邊(辺)總(総)勤農なり。山の頂まで墾して畠とす。坂の頂に大村領、佐嘉領の界あり。』

『(前略)古賀と云ふ所、往還筋五十町許り公料なり。公料の界、皆木柱あり。大書して曰く、「是れよりム(それがし)方角字高木定四郎御代官所」と。矢上に入れば叉佐嘉領なり。』

 

 松陰は大村を発ち、「亀山坂」を越え「日見坂」で大村領と佐嘉領の「界」を見、「永昌駅」(諌早)に至っています。大村領・佐嘉領の境ですので、佐嘉領境石は破籠井(わりごい)日野御境石を指しているのでしょう。「日野」をこの後通った「日見」と混同したのかも知れません。(復路<9月12日>にも「日見、亀山の諸坂」と書いています。坂の名は「日見坂」だったのでしょうか?)

 ただし、他のところでは石柱・境碑があると明記しているのに、ここに関しては境(界)があるとしか書いていません。松陰は破籠井(わりごい)日野御境石を見なかったのでしょうか?

 また、公料(公領)境には公料を表す木柱が建っていたことが書かれています。


 9月12日

『山を越えて叉小坂あり。へノ峯と云ふ。頂に大村領、平戸領の境碑あり。』

 

 と、舳の峰峠の領境石に関する記述があります。平戸領境石しか現存していませんが、大村領境石もあったことがわかります。



 12月14日

『肥後・筑後の領界に至れば遙嶺白玉の如し。是れより気候頓(とみ)に異なり。領界にニ柱あり。一は木柱なり、書して曰く、「是れより西南は細川越中守領分」と。一は石柱なり、刻して曰く、「是れより東北は筑後國立花左近將監領分』と。

 

 湯谷柳川領境界石に関する記述がありますが、これは先代の石の銘文です。嘉永3年(1850年)になってもまだ先代の石だったということは、新しい石はいったいいつ作られたのでしょう?

 また、肥後細川家は嘉永3年(1850年)になっても木柱であったことがわかります。



 12月26日(遊学の帰りは長崎から肥後を周り豊前・薩摩街道を北上して萩に帰ります)

『松崎駅を過ぎ、音熊(乙隈)と云ふ所に至り午餐を伝ふ。行くこと少許、筑後・筑前の境、大石柱を樹つ。山家に至り歩行す。』

 

 と、馬市・乙隈の国境石に関する記述があります。




 二川相近風韻 二川瀧三郎著(昭和11年11月5日発行)

 二川家末裔の方が昭和11年に書かれた「二川相近風韻」という本があります。この本を読めば相近がどのような人であったかがおぼろげながらわかります。

 この中に国境石に関する記述(P302)がありますので引用します(旧字は改めています)。尚、同書に関しては著作権法上の著作権保護期間は経過したものと判断しています。


 『筑前国々境石は、各藩境界の要所に建てられていますが、是等の多くは相近以来各代に亘り揮毫せしめられたもので、『従是北(西)(此川中央西北)筑前國』杯。そして、「北が三枚、西及中央西北が各一枚。右何れも籠字(※)金尺幅壹尺六寸長壹丈五寸之石」との記載が残っていますが、果して私方の誰の書で何処に建てたものか、将又<はたまた>現存して居るものか、其辺<そのあたり>判明致し兼ねます。筑後境のものは相近の書に対抗すべく、筑後に於て人を索<もと>め確か樺島石簗が筆者に選ばれ、其側に建立されたものがあるということで之は現存している筈です。』



 「籠字」とありますが、これは現在私達が言う籠字(千社札等に使われる文字の形態)ではなく、大きな文字を書く時に輪郭を先に書きその中を塗りこんだ技法のことでしょう。


 これを読むと国境石の銘に関して、二川家には相近以降の各代合わせても5基分の記録しかないことがわかります。

 5基のうち、
 「従是西筑前國」は三条(北九州)の国境石です。(天保5<1834>年建立)(筑前國御境目日記に相近が依頼された記録あり)

 「従是筑前國」の3基は、
 まず筑後境の石は建立の経緯から馬市(筑紫野市/対する筑後石は乙隈)で間違いありません。

 次に「北」該当するのは原田(筑紫野市)の石です。この石に関しては明確な記録が残っていないのですが、三条の石より後に建てられたと言われています。三条の銘を天保5(1934)年の7月に書いていますので(建立は9月)、その後に相近が書いたものだとすると、相近最晩年のものになります。

 相近は天保7(1836年)9月27日に死去しています。さらに、死の前年天保6年7月に相近の長年の功績に対して2石の加増があっていますが、この時、相近はすでに病に臥せっており自ら拝命することが出来ませんでした。そのことを考え合わせると原田の石は三条とほぼ同時期(1年も違わず)に書かれたものでしょう。

 この3基(左3基)は並べてみるとわかりますが本当にそっくりな筆跡です。

    
三条(北九州市)     馬市(筑紫野市)     原田(筑紫野市)     荻浦(前原市)

 「北」と書かれたもう1基に該当する石は三瀬峠(福岡市)しかありません(但し三瀬峠の銘は「是北筑前國」)。この石は横銘から文化15(1818)年建立であることが確定しています。相近は明和4(1767)年〜天保7(1836)年を生きた人ですから、この石も当時藩の書学師であった相近の書いたものとするべきなのでしょう(現に私もこの石に相近マークを貼っています)が、上の3基の銘とはかなりイメージが違います。私はこれを相近と言い切ることが出来ません。

 しかもこの石のサイズは幅45cm・高さ240cm(現在の露呈部)ですから、「幅壹尺六寸長壹丈五寸」(幅48.48cm・高さ318.18cm)からすると若干小さいと言わざる得ません。

 しかしこの石を「北」の3枚のうちの1枚にしてしまわないと、北と書かれた「幅壹尺六寸長壹丈五寸」の大きな筑前国境石が、あらゆる記録に全く残らずにひっそりと建っていて、しかもなくなったと言うことになります。

 三瀬峠

 最後に残った「従此川中央西筑前國」は、銘の特殊性から荻浦の領境石で間違いありません。
 私は江戸時代中期以降の象徴国境石には「此」の文字は使われなかったという説を採っています(実務国境石及び領境石には多数あり)から、この銘は領境石用のものであると考えます。

 但し、実際の荻浦の領境石の銘は「此川中央福岡領」です。上で並べていますが、荻浦の領境石は他の3基の国境石と違う特徴が見られます。まず、「従此」の文字だけが崩し気味である。「東」の文字が他に比べると若干小さくバランスに欠く等。

 これをどう説明するか、もう少し研究の余地があります。

 これらを建立年順に並べると、

@三瀬峠 (1818年)
A馬市 ? ※1
B荻浦 (筑前國御境目日記に「三条は荻浦を参考にした」との記載あり)
C三条 (1834年)
D原田 (建立年不明・三条の後といわれている)

 となります。

 ※1 馬市は正確な年代不明です。基壇(基礎積)の形状から三条・原田より前と言われていますが、筑後側の銘を書いた佐田修平(※2)は1798年生まれです。筑前の石が建て替わったのですぐに筑後側が対抗したという伝承を信じれば、筑前<馬市>と筑後<乙隈>の石の建立年が10年も違わないと言うことでしょう。三瀬峠建立時に佐田修平満20歳ですから、馬市と乙隈の建立の時差を考えたとしても、馬市が三瀬峠より前と言うことはないでしょう。
 ※2 二川相近風韻には「確か樺島石簗が筆者」となっていますが、現地の小郡市は佐田修平としています。


 二川家にはこの5基しか記録に残っていないとのことですが、もちろん記録漏れもあるかもしれませんし、「幅壹尺六寸長壹丈五寸」の大きな銘を書いた時のみを記録に残したとも考えられますので、この記述のみを持って二川家が書いた銘は5基しかないと決め付けるわけにはいけません。

 筑前にはさらに相近が書いたと言われている石が数基あります。その中で烏尾峠の国境石だけは相近(もしくは相近の影響を受けた人)らしい特徴が見られます。

 烏尾峠

 この石の文字はどうやら籠字で書かれたものではなさそうですので、ぱっと見少しイメージが違います。しかし、一文字ずつよくみると確かに相近らしい特徴を持っています。と、同時に多くの疑問も感じます。例えばなぜ「筑」がこんなに右にずれてしまったのでしょうか?しかし「筑」がずれたのは銘を書いた人ではなく石工の責任範囲なのかもしれません。

 この石は、西は1枚・大きさ(幅壹尺六寸長壹丈五寸)等いずれにしても二川家の記録にはない石です。

 尚、二川相近風韻には相近が書いたとされる書の写真が数葉載っており、楷書・草書等それぞれの相近の文字の雰囲気を見ることができます。


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