これを読むと国境石の銘に関して、二川家には相近以降の各代合わせても5基分の記録しかないことがわかります。
5基のうち、
「従是 西筑前國」は 三条(北九州)の国境石です。(天保5<1834>年建立)(筑前國御境目日記に相近が依頼された記録あり)
「従是北筑前國」の3基は、
まず筑後境の石は建立の経緯から 馬市(筑紫野市/対する筑後石は乙隈)で間違いありません。
次に「北」該当するのは 原田(筑紫野市)の石です。この石に関しては明確な記録が残っていないのですが、三条の石より後に建てられたと言われています。三条の銘を天保5(1934)年の7月に書いていますので(建立は9月)、その後に相近が書いたものだとすると、相近最晩年のものになります。
相近は天保7(1836年)9月27日に死去しています。さらに、死の前年天保6年7月に相近の長年の功績に対して2石の加増があっていますが、この時、相近はすでに病に臥せっており自ら拝命することが出来ませんでした。そのことを考え合わせると原田の石は三条とほぼ同時期(1年も違わず)に書かれたものでしょう。
この3基(左3基)は並べてみるとわかりますが本当にそっくりな筆跡です。

三条(北九州市) 馬市(筑紫野市) 原田(筑紫野市) 荻浦(前原市)
「北」と書かれたもう1基に該当する石は 三瀬峠(福岡市)しかありません(但し三瀬峠の銘は「 從是北筑前國」)。この石は横銘から文化15(1818)年建立であることが確定しています。相近は明和4(1767)年〜天保7(1836)年を生きた人ですから、この石も当時藩の書学師であった相近の書いたものとするべきなのでしょう(現に私もこの石に相近マークを貼っています)が、上の3基の銘とはかなりイメージが違います。私はこれを相近と言い切ることが出来ません。
しかもこの石のサイズは幅45cm・高さ240cm(現在の露呈部)ですから、「幅壹尺六寸長壹丈五寸」(幅48.48cm・高さ318.18cm)からすると若干小さいと言わざる得ません。
しかしこの石を「北」の3枚のうちの1枚にしてしまわないと、北と書かれた「幅壹尺六寸長壹丈五寸」の大きな筑前国境石が、あらゆる記録に全く残らずにひっそりと建っていて、しかもなくなったと言うことになります。
三瀬峠
最後に残った「従此川中央 西北 筑前國」は、銘の特殊性から 荻浦の領境石で間違いありません。
但し、実際の荻浦の領境石の銘は「従此川中央東北福岡領」です。上で並べていますが、荻浦の領境石は他の3基の国境石と違う特徴が見られます。まず、「従此」の文字だけが崩し気味である。「東」の文字が他に比べると若干小さくバランスに欠く等。
これをどう説明するか、もう少し研究の余地があります。
これらを建立年順に並べると、
@三瀬峠 (1818年)
A馬市 ? ※1
B荻浦 (筑前國御境目日記に「三条は荻浦を参考にした」との記載あり)
C三条 (1834年)
D原田 (建立年不明・三条の後といわれている)
となります。
※1 馬市は正確な年代不明です。基壇(基礎積)の形状から三条・原田より前と言われていますが、筑後側の銘を書いた佐田修平(※2)は1798年生まれです。筑前の石が建て替わったのですぐに筑後側が対抗したという伝承を信じれば、筑前<馬市>と筑後<乙隈>の石の建立年が10年も違わないと言うことでしょう。三瀬峠建立時に佐田修平満20歳ですから、馬市と乙隈の建立の時差を考えたとしても、馬市が三瀬峠より前と言うことはないでしょう。
※2 二川相近風韻には「確か樺島石簗が筆者」となっていますが、現地の小郡市は佐田修平としています。
二川家にはこの5基しか記録に残っていないとのことですが、もちろん記録漏れもあるかもしれませんし、「幅壹尺六寸長壹丈五寸」の大きな銘を書いた時のみを記録に残したとも考えられますので、この記述のみを持って二川家が書いた銘は5基しかないと決め付けるわけにはいけません。
筑前にはさらに相近が書いたと言われている石が数基あります。その中で烏尾峠の国境石だけは相近(もしくは相近の影響を受けた人)らしい特徴が見られます。
烏尾峠
この石の文字はどうやら籠字で書かれたものではなさそうですので、ぱっと見少しイメージが違います。しかし、一文字ずつよくみると確かに相近らしい特徴を持っています。と、同時に多くの疑問も感じます。例えばなぜ「筑」がこんなに右にずれてしまったのでしょうか?しかし「筑」がずれたのは銘を書いた人ではなく石工の責任範囲なのかもしれません。
この石は、西は1枚・大きさ(幅壹尺六寸長壹丈五寸)等いずれにしても二川家の記録にはない石です。
尚、二川相近風韻には相近が書いたとされる書の写真が数葉載っており、楷書・草書等それぞれの相近の文字の雰囲気を見ることができます。
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