人物や周辺の情報/参考文献

 
二川 相近 
(ふたがわ す
けちか)

明和4年〜天
保7年
(1767〜1836
年)

福岡藩士。福岡藩書学師・儒学者。歌人 大隈言道や野村望東尼らが彼に師事した。

相近は黒田家御料理人の家系に生まれ天明7年17歳(数え)で家督を継ぐが、書の才能を認められ寛政6年28歳(数え)の時に御料理人から書学師に抱え直しされています。

筑前国境石のいくつかは彼の書といわれる。(相近が書いた銘についてはこちらに)

また二川友古(方作)は養嗣子。


箱崎協定
元禄13年
(1700年)
豊前・筑前の国境確定のため、筑前・箱崎村(現福岡市東区箱崎)にて話し合いを持つ。この時は、杭や松をしるしとしたようだが、後年、国境石に建て代わっていく。 


傍 石
国境石と国境石の間を埋めるように置かれた石で、国境石―傍石―国境石を結んだ線が国境であることを示す。(国境上にある)
控 石
国境石が流失・紛失した際に国境石のあった場所を示すために置かれた石。
(自領内にある場合が多い)


肥前 対馬領
(対州領)
基肄郡(きい・全域)養父郡(やぶ・半域)(両郡に三根郡を加え現在は三養基郡)は対馬領宗家の領地です。この領地10,037石は朝鮮の役の功労として、豊臣 秀吉から慶長4年(1599年)に貰ったものです。慶長10年に2,800石追加され計12,837石、途中一部公領となるも幕末まで同石高で、代官所は田代(鳥栖市)に置かれていました。


代官所は現在の田代小学校付近です。

「対馬藩は朝鮮にちかい対馬島を本拠とする藩だが、対馬では米の収穫高がひくいため、現在の佐賀県内に飛地をもっている。」 司馬 遼太郎「世に棲む日々」より抜粋
 (ちょうどよい資料がありませんでしたので司馬先生の小説を拝借しました)

対馬領(対州領)に関しては「こちら」にも多少記載があります。


祐 筆・右 筆
藩士の職名 文書・記録をつかさどる人  


朱印状
朱印を押した公式書類のことですが、特に将軍より領地を受領した際の朱印状は大切なものでした。


貝原 益軒
(かいばら えきけん)
 宝永7年〜正徳4年
(1630年〜1714年) 
福岡藩士。儒学者・本草学者。歴史・地理から薬学・植物学に
至るまで、その生涯に60部270巻以上の著作を残す。

私のホームページも黒田家譜・筑前国続風土記を大いに参考
としています。300年前の益軒に感謝です。




主要参考文献
参 考 文 献
著 者 名
出版社
備 考
那珂川町の歴史探訪 川崎 幹ニ
海鳥社
筑紫野市史 上下巻 および資料編 筑紫野市史編さん委員会
筑紫野市民図書館所蔵
筑紫野市原田所在「従是北筑前国」銘国境石調査報告書 筑紫野市教育委員会
筑紫野市民図書館所蔵
歴史探訪 なかがわ 那珂川町郷土史研究会
福岡県史 筑前福岡藩編
小石原村村誌
2001年発行
北九州市文化財調査報告書 豊前・筑前 国境石 北九州市文化財調査委員会
1969年・北九州中央図書館蔵
くにざかいの碑 古賀 敏朗
峠の会
昭和58年11月

この他にも多くの本・ホームページを参考にしています。

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