黒田新続家譜3

 筑後境論地決定

 上座郡と筑後久留米との境は、元禄10年の冬に、筑前黒田家 老中と筑後久留米有馬家の家老 有馬監物・有馬内蔵助戸の間で、度々書状のやり取りがあります。

 その後は、久留米側絵図役人 北川安右衛門・中村才兵衛・佐藤儀左衛門と筑前側 吉田久太夫・黒田八右衛門との間で書状による交渉が行われます。論所は上座郡志波村(朝倉市杷木志波)と筑後国生葉郡小江村(うきは市吉井町千年)の境です。

 互いの村人の主張を絵図に落とし交換しますが、度々交渉しても双方の主張が違うので、「互いの村人が会って相談させてはいかが」と久留米側より提案があり、黒田家側も同意し、筑前の村人が筑後を訪れることになります。

 それにより、久留米吉井村大庄屋の勘助より、久喜宮觸口の大庄屋 彌七に「日にちを設定して当方へ交渉に出て来られるように」と連絡があります。彌七は争い元の山田村庄屋 新四郎・上寺村庄屋 正七に取り合いますが、どうも自信がなかったのか「此度大切の事なれば」菱野の彌五七・入地の伊右衛門・古毛の彌吉・穂坂の藤吉の各庄屋を加え、総勢7名の大交渉団になり、宝珠山・日田の境論争でも才覚ありと言われた穂坂村の庄屋 藤吉が、大庄屋 彌七の名代となります。

 5月15日久留米吉井村の勘助宅に出向きますが、先方も今竹・橘田・包末(かんすえ)の各庄屋が揃っており、『まず酒肴が出、饗応等豊備』だったそうですが、日暮れまで交渉しても結論は出ません。一つ不思議なのは、饗応等豊備だっただけではなく『馬の飼料まで備えおけり』と記されています。他国との交渉なれば、筑前の庄屋たちは馬に乗って行けたのでしょうか?

 同月28日に、今度は久留米側の包末 次兵衛・今竹 三郎兵衛・溝尻 與三左衛門・橘田 善五郎・高田 助左衛門の各庄屋が久喜宮 彌七方を訪れます。『此方にても掃除等念を入、饗応猶又豊備にて馳走』し、終日談判しますが、またも物別れに終わります。

 さて、この論所ですが、「新続家譜」では場所がわかりにくいのですが、「筑前国續風土記捨遺 巻二十一 上座郡志波村」の欄に詳しく書かれています。(句読点及び旧かなづかいを改めています。)

 『南の方大川の向かいに、當村の地 野地(=原野)と畠有りて、筑後国小江村に堺えり。野地の所を網渡(あどば)榜示場と云う。八千四百五十坪おおよそ二町あまりにして川向かいに畠有り。そこを三股窪、上中島と云う。古畠三町五反四畝ほどありて、山田村の川向かいの畑に続けり。

 往古は畠・野地つづきたりしが共、元禄十三年に両国の堺を争い、終いには争いの地を等分にわかち、半を當村に属し、半を筑後国小江村に属す。

 その分かちたる時川下の方を小江村の方に附しは、今は畠と野地とは別れて志波村とは地続かず』 

 と記されています。このことから、小字三股窪・上中島がある志波村と山田村が川南に張り出した場所とは、この論所は川上に飛び地になってしまったことがわかります。



福岡県立図書館所蔵 筑前國郡絵図 上座郡(1福図第183号−58)

 筑前郡絵図 上座郡を見ますと、この筑前が千歳川(筑後川)を渡って南に張り出した土地は一塊りとなっていますが、どうやらこの絵図は元禄の国絵図また筑前国續風土記以前のもののようで、ここから網渡傍示場が飛び地になってしまったと書かれています。

 さらに東が筑前志波村に付いて、西が久留米小江村に付いたということですのでこの部分のことのようです(画像の「この辺りか?」の部分が筑前で、論地はその西<左>)。



 本当に『些少の地』です。筑前國郡絵図 上座郡には、ここに「アトノげん(木偏に元)」という小字がありますが、あるいは「アトノげん」に境目争いが起きてから傍示を立てたので、「網渡(あどば)傍示場」になったのでしょうか。

 上記、郡絵図 上座郡で見ると、アトノ木元(げん)〜上中嶋まで一塊ですが、天保の筑前国絵図で見ると、渡守(筑前國郡絵図 上座郡にも渡守が書き込まれています)の横、見にくいですが川の中に「網渡傍尓場」が書き込まれ、筑前の土地が筑後川南で、字「宮下」と字「上中嶋」の2つに分かれています。(郡絵図 上座郡天保の筑前国絵図は南北<上下>が逆になっています。)

 「新続家譜」に戻ります。なかなか話が決まらないので、筑前の家老は「論地を二分でいいのではないか」と内々に話していたところ、7月16日久留米 北川安右衛門より飛札(速達)で「わずかな土地が差支え、絵図の交換もなかなか出来ませんが、いかがいたしましょう」と意向を聞かれたので、『論地等分に分附してはいかが候はんや』と提案します。

 8月23日に久留米 北川より「志波村網渡場(あどば)榜示立場所を、東を志波村に西を小江村に付け、河原も川(流れ)も等分で、村人たちが出会い証文を交わしましょう。」と返書があり、翌24日には黒田・吉田より返書を送っています。

 その後、双方の役人で書簡のやり取りがあり、東西等分に分けることに決し、8月29日には城下より、郡代 川越六之丞・分間役 星野萬右衛門・同 牟田口十藏を始めとする足軽・町絵師・縄引等の一団が出発します。

 9月2日になり、穂坂・山田・古毛・入地・上寺の筑前側各庄屋と今竹・力常・上溝尻・橘田・角間の筑後側各庄屋が論地に会し、榜示を定めます。この時、福岡から来た役人は穂坂村に、久留米から来た北川安右衛門・丹下彌兵衛等は橘田村に控えており、現地には出て来ていませんが、福岡側の記録(新続家譜)に久留米役人は橘田村に控えていたと記されていますので、互いの動向はわかっており、御家同士の正面衝突は避けつつ、後方でにらみを利かせていたというところでしょうか。

 東西は事前に決していたのですが、今度は南北で折り合えずこの日は破談になります。その後も各庄屋は交渉を続けますが、妥協点を見いだせずに時間が過ぎて行きます。

 12月18日に筑後 北川より書状が着て「そろそろ決着しましょう」とのことで、12月27日に両国の庄屋が論地に出会うことになりますが、26日には境目奉行 安部惣佐衛門が出まして諸事を申しつけます。翌27日未明より両国庄屋が集まり、『網渡榜示場より、西は三股窪を限り、論畠の北外に見渡して南の境とし、西を小江村東を志波村に歩数等分に分附しける。』

 この時に両国の庄屋(筑前側 志波・入地・穂坂・山田・古毛・上寺、久留米側 小江・角間・東溝尻・橘田・今竹・力常)は仮証文を交わし、翌年の4月19日に両国の庄屋が集まり境石を建て、連判証文を取り交わしています。

 最後に穂坂村の庄屋 藤吉について、『殊に謹厚成るものなれば、合楽論争以来、度々役目の役をつとめ、首尾能相調けるを、有司褒美し賞を賜る。』と記してあります。城下から一番遠い村に一番有能な庄屋が存在したのは偶然ではなく、辺境の地であればこそ、国境争いだけではなく、絶えず他国との人の出入りもありますので、優秀な人材でないと務まらなかったのでしょうか。

 尚、八千四百五十坪の、山田村と続いた畠は、現在の県道588号と筑後川に挟まれた河川敷の一画ですが、区画整理されているようで、朝倉市杷木志波及び杷木山田とうきは市吉井町千年が、道路を限りに直線で境を接しています。

 うきは市側はうきは市スポーツアイランドになっており、朝倉市杷木志波字中島は果樹園(ぶどう等)として利用されているようです。



 


 肥前境論所決定

 那珂郡大野村のうち地焼(じやけ)は、肥前国神埼郡西小河(ママ)内村に境、この地域も境が入り混じっており、両国の村人は数年に渡り争論していました。元禄13年に藩主綱政の命を受けて、筑前より「飛札」(速達)にて肥前に申し入れ、その後、肥前側役人 有田主計・枝吉三郎右衛門・竹田權右衛門と筑前側 吉田久大夫・黒田八右衛門とが度々書状で交渉します。

 この論所は、『大野村前の川筋を上り、烏帽子石までは川を境に』までは異論がないところですが、それより上の地焼は、筑前側は古道を・肥前側は新道が境であるとの主張でした。

 互いの境目絵図を交換して確認しますが、現地での交渉に入る前に江戸より「御いそぎ」の旨の連絡があり、相違の絵図をそのまま江戸に持って上がり、江戸での交渉となります。

 秋には絵図等書類を江戸に持参して、太田伊左衛門・高畠武助(納戸與)・柳瀬與兵衛(免奉行)が井上大和守(寺社奉行)の元へ行き、大和守家人 長濱次左衛門に肥前境の絵図を渡します。

 ここですでに『公儀絵図所の例、境絵図出入あるところは、双方長を断、矩を補て絵図を改む。』とあきらめ気味です。

 この後、絵図所の頭取 礒野彌兵衛と筑前役人の交渉、また肥前側役人とも絵図所を挟んでのたびたびの交渉となりますが、『肥前境すへて何の障も是なき処に、わずかの地焼のあらそひにて、事かましく成行てはいかがなれば』と穏便に話が進みます。

 結局、互いの国絵図の筑前側1/3・肥前側2/3を改めることになり、現在国境石が建つ境で結着を見ます。


 一つ不思議なことは、今までの境目争論では村人が登場し、時には庄屋の個人名まで詳しく書かれているのに、ここ地焼の境目争論に関しては、最初に『両国の百姓数年争論する所也』とは出て来ますが、次にはすぐに(多分に象徴的ではあるのでしょうが)『綱政命ありて』とトップダウンになり、江戸での交渉になります。

 この地域にも激しい村人同士の争論があり、この国境論争以降、江戸の末期まで互いの村の通婚がなかったとまで言われていますが、それらは一切端折られています。それがなぜなのかはわかりませんが、最後まで争論が残った地で、絵図の提出期限が迫っていたこともあり、このたびの国境争論で唯一地元ではなく、江戸で幕府(絵図所)を巻きこんで解決した案件であることから、江戸での交渉を中心に書き記したのかもしれません。

 尚、肥前側の村名は西小川内ですが、地名(字名)は大野となり、筑肥双方とも大野だったはずです。また、これを読むと地焼には川(水流)はなく、その下部(烏帽子石)から先が川になっていますが、それは今も変わらず、地焼は谷というべき地形ですが、なんとなくいつも湿った地で、下っていくにつれ湿度が高くなるのを感じ、それが数百mも下ると川になり、音を立てて水が流れ始めます。


地焼の国境石 手前が筑前(bR0)・奥が肥前(bQ9)

 

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