黒田新続家譜2


 元禄の国絵図作成を命じられる 元禄14年(1701年)(11巻)

 この章は元禄の国絵図の作成を、幕府に命じられたところから始まります。

 元禄10年閏2月4日、大目付 仙石伯耆守が諸家の留守居を評定所に集め、正保の年に官庫に納められた諸国の絵図は正確ではないため、新に絵図を製し上納するようにと申し付けます。又このことはについて伺いたいことがあれば、仙石伯耆守へ聞くべしと申し付けられます。

 正保の国絵図も照合のために拝借を望むならば、借出しする旨仰渡されます。

 幕府側担当役人は、
 諸国絵図の惣司 
 寺社奉行 井上大和守 
 大目付 安仙石伯耆 (職分変更)→ 同 守藤筑後守  
 町奉行 松前伊豆守 
 勘定奉行 松平美濃守 (死後)→ 同 久貝因幡守
勘定衆四人
 細田伊左衛門・野村新兵衛・平野次郎左衛門・辻久太郎 

 です。 

 この後、度々評定所 や大和守の宅に諸家の留守居を集め、新図の事を下知します。黒田家よりも南部新左衛門 留守居が度々出向き、この命を聞き、正保の古絵図を拝借してきます。又神田湯嶋に公儀の絵図所が出来て、勘定衆が毎日集っていましたのでここにも相談に行きます。

 続いて絵図の作り方についての幕府の指示が書かれています。

 絵図の作り方は、『壱里を六寸に細め、扉国分間となし、郡県を分て、山川村里を書き、道路宿駅を記し、隣国の境を正しくし、村邑の名号、田圃の石高、名所古跡をも図上に書載せ、一国の内公領・他領ある処ハ、其国の大身なる領主に其図をあつめて、一国の全図となし、 全国郷村の名、田圃の高を別に一冊となし(郷村帳)、絵図に相そへ上納すへき』となっています。

 この時、黒田 綱政は江戸在府でしたので、江戸より福岡にこの件に対する命を下します。選ばれた福岡側役人は、

福岡絵図の惣司
家老浦上彦兵衛 (江戸転勤)→ 同 鎌田八左衛門 
中老月成茂左衛門(重之)(病死)→ 同吉田久太夫(病気)→茂左衛門(重徳)
目付頭郡奉行 明石三郎平 後に馬杉喜兵衛 を加える
境目役 (馬廻)安部惣左衛門・同 四宮新三郎
後に田中傳左衛門・西村金右衛門・岡本惣兵衛 を加える
右筆 浅香彦太夫・彦太夫の弟 同 平助
江戸居留守 深見五郎右衛門・使番(儒者)貝原久兵衛と甥の市之進(納戸役)
分間図の総裁
無足 星野助右衛門
目付役(後に納戸役) 高畠武助
星野萬右衛門・山本久八郎・牟田口十蔵 以下省略 他に町絵師11人・足軽数十人・大工10人

です。   

 以後、日付が入っていますので表にします。

国絵図
郷村帳
10年2月4日
幕府より国絵図の作成を命じられる  
10年2月4日
幕府より郷村帳の作成を命じられる
11年4月
福岡領の絵図製作役人決まる
11年6月7日
柳瀬與兵衛免奉行が江戸へ出発
正保の国絵図を試すが違う部分が多い
ので新たに作ることを決める
9月9日
柳瀬與兵衛帰福
12月6日
粕屋(表・裏)郡・席田郡より測量開始
12月17日
一旦城下に戻る
12年1月9日
国絵図惣司 鎌田八左衛門宅で会議
1月15日
領内の本格的な測量開始
12年1月19日
領内調査開始
3月31日
測量が終わり城下に帰る
3月2日
調査が終わり城下に帰る
4月5日
名島町(中央区大名)古会所にて作業
6月5日
記載項目の選定開始
5月22日
下図の下書き完成
6月2日
公所兵法の間にて藩主綱政に見せる
6月13日
公所稽古所において下図清書を開始
7月6日
下図完成
13年4月
完成
5月2日
柳瀬與兵衛が公所に持参

 国境については、
『国境ハ兼而其所の庄屋・百生(百姓)に課て、境目ニかりに傍示さゝせ置て、分間を測る。所々論地あれとも、是を決する事ハ、此度の分間に拘る事にあらす。重而両国いひ談して、可相極事なれハ、其旨其所の庄屋より隣国にことハり置て、古来農家の説に任せて分間を測れり。』と記されています。後述されていますが、隣国との紛争地点の国境の確定は、江戸で互いに絵図を持ち寄り行うことになります。

 怡土郡の内、公領 土井周防守領分の絵図も、既に福岡側に引き渡されていたので(上記国内全ての図を一番大きな領主が作るため)、一国の全図郷村帳も整いました。隣国との際絵図の取り交わしはまだ決定していませんが、取交わしは江戸で図上にて決することになっているため、国絵図と分間絵図・郷村帳を江戸に持参します。大和守から正保の古絵図と新絵図の違う地点を別に一冊にまとめるよう指示され(変地帳)、計4冊となります。

13年6月20日
藩主 黒田綱政が検分する
6月21日
高畠武助納戸役等が絵図・郷村帳を持って江戸に向かう  
7月19日
江戸到着
7月22日
井上大和守寺社奉行にあいさつ
7月24日
大和守家来 長濱次左衛門と打ち居合わせ
8月27日
狩野良信等清書をする絵師と打ち合わせ(※1)
この後、隣国との国境交渉が始まる (※2)
14年6月15日
下絵図・郷村帳を本郷役所に提出
6月16日
大和守と打ち合わせ・清書の許可が下りる 
6月17日
狩野良信等清書開始 
7月17日
大和守へ提出
7月22日
評定所へ持参・上納
8月13日
高畠武助納戸役等江戸出発
9月13日
帰福

※1 幕府は、諸国から提出された絵図の清書を、全て狩野良信が行うことにしていました。

※2 国境交渉については「際絵図は国境の図を別紙に写し、隣国の境図と引合せ、違いなきようにして両国役人各印をおして取かわす。犬牙<ケンガ>の地・齟齬<ソゴ>ある所」は、絵図役所にて「各長きを断、短きを補て」差し合せながら作業を行う。筑前の絵図は完璧なものであるが、隣国の絵図と違うところは仕方ないので改補を加えたと記されています。

 そして、交渉すべき国境争いについての記述があります。

 『当国(筑前黒田家)西南ハ肥前にさかひ、南ハ筑後、東南ハ豊後、豊前に隣れり。』各国境に論所数ヶ所があって、国絵図(元禄の国絵図)献上の前に、各々決定する。

その中で上座郡合楽、豊後境は元禄四年に決定済み。
背振山肥前境は、同六年公儀の御裁許によって境が決定している。

上座郡小石原村、豊前国田河郡落合村との境、
嘉麻郡上山田村、同国同郡猪膝村との境、
嘉麻郡鹿馬毛村烏尾嶺、同国同郡糸田村との境、
遠賀郡中原村、同国企救郡中原村との境、
遠賀郡大蔵の枝村田代柿子坂、同国同郡田代村との境  おおよそ五ヶ所が豊前境の論地である。

上座郡志波村、筑後国生葉郡小江村との境、
那珂郡大野村の内地焼、肥前国神崎郡小河内村との境、

等各隣国との間に論地があって、去年国絵図成就の時までも決まっていない。『去冬より今夏に至て、絵図献上の前、漸々に其境定りて、隣国際絵図取かハし相決せり。』


 この後に、各々の国境交渉について詳しい記述があります。



 豊前小笠原領との境

 『就中豊前の国、所々の論地ハ、彼方領主小笠原右近将監、親戚の間なれハ、有司の相談にも及ハす。両国の農民、ひそかに言談し、事故なく相すまして然るへき由ニて、小石原村、上山田の境、各其村の庄屋より、小倉領境村の庄屋といひかハし、互に伝来のことく、境のしるしを立置、いひ談しけれとも、双方の所存違却して落着せす。』そこで、黒田家元使番高田新左衛門が小倉の生まれであったため、隠居していたのを担ぎだし、『山形、百姓等の口状書』を持たせて、小笠原家の役人宿久善左衛門絵図役・森戸弥一右衛門郡代等と交渉させます。小笠原家としても『此方同然穏便に事を決したき趣なりしかハ』継続審議となります。

 (元禄12年)10月16日筑前若松にて、福岡からは宝珠山の所でも出てきた郡奉行梶原十兵衛を始めとする、上座郡代・嘉摩郡代等、小倉からは先刻の宿久善左衛門絵図役・森戸弥一右衛門郡代が集まり『巳の刻(午前10時)より夜半迄』会議を行います。『此日晩餐夜食を設て歓待す。』と記してあります。

 しかし、話がまとまる地域・まとまらない地域があり、絵図・口状を交換し『かくて此日ハ事決せすして退散しける。』

 次は12月4日小倉より、森戸郡代が福岡の梶原邸まで(この時梶原は郡奉行の職を離れている)落合村・長谷村の村人の口状を持ってきて相談しています。

その内容は、

 「筑前の国絵図を見て驚いた。昔から両国の二股山方面の境は峠分水走に定まっている。しかしこの度の傍示を見ると谷を2つも越えてきているじゃないか。観音と杉の切り株の境もはっきりさせようじゃないか。」ということです。

 それに対する小石原村人の口上は、
 「杉切り株より観音堂は昔から小石原のものである。4年前に私たちが道を作ってから、落合村の村人が初めてクレームをつけだしたことである。その他の地域についても昔から小石原村のものである。」となっています。

 しかし『夜半過まて談しけれとも、此時も事決せすして帰りけり。』
 
 この後は度々書状の交換があり、次に集まるのは(元禄13年)11月10日筑前国箱崎に於いてです。(いわゆる箱崎協定)
 『書夜豊供を饗し、又家老中より使として、小姓与の士を遣され、各進物を遣す。十兵衛(梶原・元郡奉行)・三郎平(明石・目付頭郡奉行大与)・喜兵衛(馬杉)、小倉役人善左衛門(宿久・絵図役)・角兵衛(鮎川・絵図奉行)と終日闌更に及ふまで談論し、所々の論地悉(ことごとく)決しける。(中略)此時両国役人対談し、境目極りたる趣を、覚書にして小倉役人に渡しける。』

 覚書の全文はかなりの量がありますが、重要なところですので引用します。

 『元禄十三年十一月十日、於筑前国箱崎村、宿久善左衛門殿・鮎川角兵衛殿・森戸弥
一右衛門殿・茂呂正太夫殿へ、月成茂左衛門・黒田八右衛門・梶原十兵衛・明石三郎平・馬杉喜兵衛出会、境目御相談之上相極候覚

(山田・猪膝)
一 猪膝村境之儀、茶臼山之峯を割、谷川を限、大道橋東の際限、茶臼山之方、豊前国田河郡猪膝村え附申事

一 大王山道より尾筋、谷合限ニかけ際より獄門塚の方、田縁ニ至、大道東之際限、大王山之方、筑前国嘉麻郡上山田村え附申事

一 今度相極候豊前猪膝村之内、茶臼山之方ニ筑前上山田堤レ之候。此堤築添笠置仕候時、水溜#荒手引上ケ掘替申地床、御用捨可有由、相極候事

(烏尾峠)
一 烏尾峠論申塚之儀、南ノ塚地蔵之地床共、豊前国田河郡糸田村え附、北之塚、筑前国嘉麻郡鹿毛馬村え付、両塚之間限、境ニ相極候事此境塚、此時南北ニ各引取り築て、中間を境とす。

一 同所地蔵ハ、筑前之地ニ引取安置可仕事地蔵ハもと、当国鹿毛馬村より安置する所にて、此度其地豊前ニ附たる故に、北ニ引取て当国の内に安置せり。

(両田代)
一 豊前国企救郡田代村と、筑前国遠賀郡大蔵村之内、田代村ニ論申柿子坂境之儀、歩割仕堅割等分ニ相候極申候事

(両中原)
一 豊前国企救郡中原村、筑前国遠賀郡中原村境川之儀、筑前中原の地床、豊前中原之方へ入込候所ハ、川不レ残筑前中原え付、其外ハ川西之岸 を境に仕、豊前中原に付申事庄屋の取りかハしの証文にハ、川岸崩、川筋替り候共、今度相極候榜示境筋に相用可申候。且又川岸破損之節、筑前中原村より之土取、前々 之通普請仕調候儀、可自由事といふ文言あり。

  但右之川、豊前中原村之内ニ今度相極候所たり共、筑前中原村田地為用水、川内え井手せき水取候儀、只今迄之通、筑前中原村より自由可仕候。至後年相違有間敷候由ニ相極候事

一 堂峯下三ツ石より堀そこない迄、古来之道筋ニ相極申事但三ツ石上ニたうか峯より堀そこない迄、峯切東境道迄之間、筑前中原村之内ニ而豊前国井堀・荒生田・中原三ケ村の百性(姓)、馬飼草しき等伐取候儀、筑前中原村より札を出置可申候。尤(もっとも)札一年切ニ取替、札代少宛三ケ村より出候筈ニ候極候事

一 同所論所之外ニ有之、筑前大蔵村之古畠、豊前境ニ道筋附替可申事』

 『其後十一月下旬、追々四ヶ所の境目ニ双方の役人百性(姓)出あひ、榜示を定め、境石・境木、数十ヶ所ニ立、双方庄屋百性よりの証文に、各役人の裏判を加へ、取りかハし事済ける』

 以上のように論所をお互いに等分するなど非常に穏やかな交渉だったことがわかります。まずは国境に近い(相手の出て来易い)若松に呼び出し、次に城下に近い箱崎に呼び接待し、一気に決着をつけるなど福岡側はなかなか交渉上手ですね。

 しかし肝心の小石原境はまだ確定していません。現地で双方役人が11月22日に集まって対談することになります。

 『翌日(22日)論所に出会す。(福岡役人出席者氏名)、小倉役人と観音堂花棚の辺ににて出あひ、先行者堂の方、双方榜示を見分し、それより彼方榜示野口小杉原に至り、観音堂の辺りに来りぬれハ、日既に亭午(正午)に成ぬ。かねて小杉原の野方に、小屋敷間作り置たるに、小倉役人を呼入、行厨を饗応す。供に来れる輩、悉(ことごとく)酒食をあたふ。料理終て後、外の役人ハ引取ける。』その後、既出の主役級役人が対談し、

 『夜に及ふまて対談し、数年滞りし論地相決しける則覚書を相渡し、其後夜食出、酒数行めくり、此節境筋首尾克「熊」事決し、たかひに珍重之由、色代(あいさつ)して退散しける。』

 覚書の全文です。
『                                            覚
一 宿平論所、豊前国落合村百性申立候観音堂にしの辺よりわち切明候境筋、わちとは、猟師詞なり。茂りて道もなき山のめくりに、一筋せこ道を切わけ、其内をかくらといひて、猪鹿を狩出す。其切わけたる道をわちといふ。筑前国小石原村百性申立候かけ切之道筋、北之方ハ谷小川之中筋を境にいたし、交わす日を上り、小粒之田尾に見通、双方榜示之内坪積ニ仕、等分に相分、北之方落合村ニ附、南之方小石原村ニ附申候様相究候事

一 観音堂等等分之割ニ而、筑前之内ニ入候ハゝ、御勝手次第豊前之内ニ御引取候様遂御相談候事

一 二股山論所、佛之塔下り口双方榜示取合より、中尾之高筋通上に至、双方榜示取合之処迄、差上せ境筋ニ相究、南之豊前国落合村へ付、北之方谷尾筋共ニ筑前国小石原村へ附候様ニ御相談相究候事                                   

 この翌日『宿平の論所に出て、歩数等分にわかち榜示を定む。(中略)今春(元禄15年)に至て境石を立』しています。

 これで豊前境は全て決定します。穏やかにと言うか、筑前側の接待漬けと言うか。

 


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