『就中豊前の国、所々の論地ハ、彼方領主小笠原右近将監、親戚の間なれハ、有司の相談にも及ハす。両国の農民、ひそかに言談し、事故なく相すまして然るへき由ニて、小石原村、上山田の境、各其村の庄屋より、小倉領境村の庄屋といひかハし、互に伝来のことく、境のしるしを立置、いひ談しけれとも、双方の所存違却して落着せす。』そこで、黒田家元使番高田新左衛門が小倉の生まれであったため、隠居していたのを担ぎだし、『山形、百姓等の口状書』を持たせて、小笠原家の役人宿久善左衛門絵図役・森戸弥一右衛門郡代等と交渉させます。小笠原家としても『此方同然穏便に事を決したき趣なりしかハ』継続審議となります。
(元禄12年)10月16日筑前若松にて、福岡からは宝珠山の所でも出てきた郡奉行梶原十兵衛を始めとする、上座郡代・嘉摩郡代等、小倉からは先刻の宿久善左衛門絵図役・森戸弥一右衛門郡代が集まり『巳の刻(午前10時)より夜半迄』会議を行います。『此日晩餐夜食を設て歓待す。』と記してあります。
しかし、話がまとまる地域・まとまらない地域があり、絵図・口状を交換し『かくて此日ハ事決せすして退散しける。』
次は12月4日小倉より、森戸郡代が福岡の梶原邸まで(この時梶原は郡奉行の職を離れている)落合村・長谷村の村人の口状を持ってきて相談しています。
その内容は、
「筑前の国絵図を見て驚いた。昔から両国の二股山方面の境は峠分水走に定まっている。しかしこの度の傍示を見ると谷を2つも越えてきているじゃないか。観音と杉の切り株の境もはっきりさせようじゃないか。」ということです。
それに対する小石原村人の口上は、
「杉切り株より観音堂は昔から小石原のものである。4年前に私たちが道を作ってから、落合村の村人が初めてクレームをつけだしたことである。その他の地域についても昔から小石原村のものである。」となっています。
しかし『夜半過まて談しけれとも、此時も事決せすして帰りけり。』
この後は度々書状の交換があり、次に集まるのは(元禄13年)11月10日筑前国箱崎に於いてです。(いわゆる箱崎協定)
『書夜豊供を饗し、又家老中より使として、小姓与の士を遣され、各進物を遣す。十兵衛(梶原・元郡奉行)・三郎平(明石・目付頭郡奉行大与)・喜兵衛(馬杉)、小倉役人善左衛門(宿久・絵図役)・角兵衛(鮎川・絵図奉行)と終日闌更に及ふまで談論し、所々の論地悉(ことごとく)決しける。(中略)此時両国役人対談し、境目極りたる趣を、覚書にして小倉役人に渡しける。』
覚書の全文はかなりの量がありますが、重要なところですので引用します。
『元禄十三年十一月十日、於ニ筑前国箱崎村一、宿久善左衛門殿・鮎川角兵衛殿・森戸弥
一右衛門殿・茂呂正太夫殿へ、月成茂左衛門・黒田八右衛門・梶原十兵衛・明石三郎平・馬杉喜兵衛出会、境目御相談之上相極候覚
(山田・猪膝)
一 猪膝村境之儀、茶臼山之峯を割、谷川を限、大道橋東の際限、茶臼山之方、豊前国田河郡猪膝村え附申事
一 大王山道より尾筋、谷合限ニかけ際より獄門塚の方、田縁ニ至、大道東之際限、大王山之方、筑前国嘉麻郡上山田村え附申事
一 今度相極候豊前猪膝村之内、茶臼山之方ニ筑前上山田堤レ之候。此堤築添笠置仕候時、水溜#荒手引上ケ掘替申地床、御用捨可レ有由、相極候事
(烏尾峠)
一 烏尾峠論申塚之儀、南ノ塚地蔵之地床共、豊前国田河郡糸田村え附、北之塚、筑前国嘉麻郡鹿毛馬村え付、両塚之間限、境ニ相極候事此境塚、此時南北ニ各引取り築て、中間を境とす。
一 同所地蔵ハ、筑前之地ニ引取安置可レ仕事地蔵ハもと、当国鹿毛馬村より安置する所にて、此度其地豊前ニ附たる故に、北ニ引取て当国の内に安置せり。
(両田代)
一 豊前国企救郡田代村と、筑前国遠賀郡大蔵村之内、田代村ニ論申柿子坂境之儀、歩割仕堅割等分ニ相候極申候事
(両中原)
一 豊前国企救郡中原村、筑前国遠賀郡中原村境川之儀、筑前中原の地床、豊前中原之方へ入込候所ハ、川不レ残筑前中原え付、其外ハ川西之岸 を境に仕、豊前中原に付申事庄屋の取りかハしの証文にハ、川岸崩、川筋替り候共、今度相極候榜示境筋に相用可レ申候。且又川岸破損之節、筑前中原村より之土取、前々 之通普請仕調候儀、可レ為ニ自由一事といふ文言あり。
但右之川、豊前中原村之内ニ今度相極候所たり共、筑前中原村田地為ニ用水一、川内え井手せき水取候儀、只今迄之通、筑前中原村より自由可レ仕候。至ニ後年一相違有間敷候由ニ相極候事
一 堂峯下三ツ石より堀そこない迄、古来之道筋ニ相極申事但三ツ石上ニたうか峯より堀そこない迄、峯切東境道迄之間、筑前中原村之内ニ而豊前国井堀・荒生田・中原三ケ村の百性(姓)、馬飼草しき等伐取候儀、筑前中原村より札を出置可レ申候。尤(もっとも)札一年切ニ取替、札代少宛三ケ村より出候筈ニ候極候事
一 同所論所之外ニ有レ之、筑前大蔵村之古畠、豊前境ニ道筋附替可レ申事』
『其後十一月下旬、追々四ヶ所の境目ニ双方の役人百性(姓)出あひ、榜示を定め、境石・境木、数十ヶ所ニ立、双方庄屋百性よりの証文に、各役人の裏判を加へ、取りかハし事済ける』
以上のように論所をお互いに等分するなど非常に穏やかな交渉だったことがわかります。まずは国境に近い(相手の出て来易い)若松に呼び出し、次に城下に近い箱崎に呼び接待し、一気に決着をつけるなど福岡側はなかなか交渉上手ですね。
しかし肝心の小石原境はまだ確定していません。現地で双方役人が11月22日に集まって対談することになります。
『翌日(22日)論所に出会す。(福岡役人出席者氏名)、小倉役人と観音堂花棚の辺ににて出あひ、先行者堂の方、双方榜示を見分し、それより彼方榜示野口小杉原に至り、観音堂の辺りに来りぬれハ、日既に亭午(正午)に成ぬ。かねて小杉原の野方に、小屋敷間作り置たるに、小倉役人を呼入、行厨を饗応す。供に来れる輩、悉(ことごとく)酒食をあたふ。料理終て後、外の役人ハ引取ける。』その後、既出の主役級役人が対談し、
『夜に及ふまて対談し、数年滞りし論地相決しける則覚書を相渡し、其後夜食出、酒数行めくり、此節境筋首尾克「熊」事決し、たかひに珍重之由、色代(あいさつ)して退散しける。』
覚書の全文です。
『 覚
一 宿平論所、豊前国落合村百性申立候観音堂にしの辺よりわち切明候境筋、わちとは、猟師詞なり。茂りて道もなき山のめくりに、一筋せこ道を切わけ、其内をかくらといひて、猪鹿を狩出す。其切わけたる道をわちといふ。筑前国小石原村百性申立候かけ切之道筋、北之方ハ谷小川之中筋を境にいたし、交わす日を上り、小粒之田尾に見通、双方榜示之内坪積ニ仕、等分に相分、北之方落合村ニ附、南之方小石原村ニ附申候様相究候事
一 観音堂等等分之割ニ而、筑前之内ニ入候ハゝ、御勝手次第豊前之内ニ御引取候様遂ニ御相談一候事
一 二股山論所、佛之塔下り口双方榜示取合より、中尾之高筋通上に至、双方榜示取合之処迄、差上せ境筋ニ相究、南之豊前国落合村へ付、北之方谷尾筋共ニ筑前国小石原村へ附候様ニ御相談相究候事
この翌日『宿平の論所に出て、歩数等分にわかち榜示を定む。(中略)今春(元禄15年)に至て境石を立』しています。
これで豊前境は全て決定します。穏やかにと言うか、筑前側の接待漬けと言うか。
|