小松領/大洲領


小松領境石

飯岡
文 字
 従 是 東   小 松 領
 
場 所
 現在は西条市飯岡公民館に建てられていますが、新居郡上島山村(西条市飯岡/小松領)と、同郡福武村(同市福武甲/西条領)の境に建てられたものとのことですので、西條誌に書かれた福武村 「境石 一箇所 当村の内の往還大道 上島山村境にあり」(巻の四)の西條領境石(所在不明)に相対して、讃岐街道 国道11号 ローソン西条福武太田店の東先の福武・飯岡境に建っていたのでしょう。

今昔マップから西条 明治39年測図 明治41.4.30発行で見ると、町村境が見えます(明治39年当時は新居郡大町村<福武>と同郡飯岡村<上島山>の境)。
備 考
 私は小松領境石をこの一基しか知りません。一基作ったということは、他にもあっていいと思うのですが。特にこの小松領境石が福武の西條領境石と並び立つものであったのならば、周敷氷見の西條境には、それぞれの西條領境石に対して小松領境石も建っていてよさそうです。

縦に二つに割れて、上下2ヶ所をボルトで留めてあります。さらには頭にもコンクリートが詰めてあります。硬いはずの花崗岩がどうして?と思いましたが、ノミを入れた跡が数ヶ所あり、意識的に壊したものです。

なにかに流用しようとしたのならば、ここで思いとどまらずに最終工程まで行ったでしょうから、旧領名が入った境石を破却することが目的だったのでしょう。他の地域でも見られる2つや3つに折れた境石も、交通事故等不慮の事故で折れたものは少なく、多くは明治以降といいますか、明治になってすぐ、破却の意図を持って折られたと考えています。

それでも、この状態ででも残っていてくれればこそ、小松一柳家も領境石を建てたことを確認することが出来ます。
サイズ
高さ 160×横 25×奥行 25(cm) 花崗岩                         2021/04/01


大洲領境石

南黒田
文 字
 従 是 南 大 洲 領
 
場 所
 伊予市下吾川の豊圓寺の交差点に。えひめの記憶での検索による「愛媛県史 民族・上」(昭和58年3月)によると、伊予郡黒田村は北が松山領・南が大洲領でしたので、その境の八幡浜大洲道上に建っていたそうです。

以下、「備考欄」も含めて、一部は2023/03/01の加筆・一部訂正です。

残念ながら愛媛県国立図書館の愛媛県郡市町村図には、伊予郡のものがありません。

北黒田(松山領)と南黒田(大洲領)の境は、ほぼ現在の両黒田の境のままで、大洲街道は現在の県道22号線が相当しますので、現在この領境石が建つ豊圓寺の交差点は原位置と言えるのでしょう。

今昔マップから郡中 明治36年測図 明治38.3.30発行で見たここになります。

「えひめの記憶」はとても役に立つサイトですが、執筆された時点から情報の更新はされないので、例えばこの大洲領境石は「伊予市灘町の彩浜館」に保存されていることになっています。(他の情報を突き合わせて、灘町と下吾川の境石が同じものであろうとは考えていました。)
備 考
現地の案内板には寛永12(1635)年に、大洲と松山で替え地を行っており、その時に建立されたものとなっています。さらに、この案内板にはこの領境石の銘は「中江藤樹」の筆跡(て)なるものと書かれていました。一方で中江藤樹は、この替え地の一年前の寛永11(1634)年に国抜けしているとの情報も複数(高島市教育委員会・日本大百科全書 他)あります。

黒田村が南北に分かれたのは、上記寛永12(1635)年の大洲と松山で替え地を行った際の、石高調整のためだったようです。しかし、寛永16(1639)年※1の藩内分知(新谷藩の成立)時には、南黒田村は大洲領から新谷領になります。※1実際に新谷領となったのは、正保5(1648)年とする資料もあり。

この時に新谷領となった村は、大洲領の各郷村から一村を「抽選」したとされており、突然隣りの村が他領となったことから、同じご領内ならではの遠慮や調整がなくなり、各地で利権争いが発生したようです。南黒田村は海沿いの村ですから、地理的に水利では弱い立場だったのでしょう、大洲領に残った村との水利争いが起こり、それは最終的に幕府裁定を仰ぐほどの事態となります。

その結果、天明2(1786)年※2に大洲領浮穴郡大南村(伊予郡砥部町大南)という、水利では困らないであろう村と替地となり、南黒田村は大洲領に戻されます。(えひめの記憶より 愛媛県史 近世 上<昭和61年1月31日発行>)
※2天明元(1785)年とする資料も多数あり、幕府裁定が天明元年、実際の替地が翌年ということかもしれません。

寛永年間に建てられたものならば、数年間(最大10年強)は南黒田の北黒田との境(現位置付近)に建っていたあと、領境が変更になりますから、下吾川村の南黒田村との境に移設され、そこで140年間を過ごし、その後にもう一度南黒田(現位置付近)に戻ったということでしょうか? それならばさすがに逸話が残っていそうです。

もし、新谷領になった後も、南黒田の北黒田境に「是より大洲領」の表示が建っていたならば、幕府役人に「されば陪臣(またもの)であろう」と嫌味を言われるだけならばまだしも、新谷藩には街道を整備する能力がないなどと烙印を押されたら大変ですから、大洲領境石を残したままにはせず、必ず撤去されたはずです。

角川日本地名大辞典の松前町 黒田村(近世)欄には「寛保3(1743)年藩命により当村に領境を示す石が立てられている」となっていますが、出典が松山叢談となっていますので、これは松山藩が建てた、北黒田の松山領境石で、現存はしていないのでしょう。

それらを考えあわせると、松山と同時期に新谷も領境標(木製の可能性があるので標とします)を建てたが、南黒田が大洲領に戻った天明2(1786)年以降に、すでに建っていた松山領境石に合わせて、新たに大洲領境石を作り建てたと考えた方がすっきりしますが、なんら根拠がある話ではありません。

尚、南黒田村は明治22(1889)年の町村制施行時に、松前村(松前町)と郡中村・郡中町(伊予市)に分かれているのですが、その理由は調べきれませんでした。
サイズ
高さ 188(本来地中にある露呈部を除いた境石としての高さは185)×横 21×奥行 21.5(cm) 粗い花崗岩
                                                         2021/04/01


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宇和島領
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