文 字
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従 是 南 大 洲 領 |
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場 所
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伊予市下吾川の豊圓寺の交差点に。えひめの記憶での検索による「愛媛県史 民族・上」(昭和58年3月)によると、伊予郡黒田村は北が松山領・南が大洲領でしたので、その境の八幡浜大洲道上に建っていたそうです。
以下、「備考欄」も含めて、一部は2023/03/01の加筆・一部訂正です。
残念ながら愛媛県国立図書館の愛媛県郡市町村図には、伊予郡のものがありません。
北黒田(松山領)と南黒田(大洲領)の境は、ほぼ現在の両黒田の境のままで、大洲街道は現在の県道22号線が相当しますので、現在この領境石が建つ豊圓寺の交差点は原位置と言えるのでしょう。
今昔マップから郡中 明治36年測図 明治38.3.30発行で見たここになります。
「えひめの記憶」はとても役に立つサイトですが、執筆された時点から情報の更新はされないので、例えばこの大洲領境石は「伊予市灘町の彩浜館」に保存されていることになっています。(他の情報を突き合わせて、灘町と下吾川の境石が同じものであろうとは考えていました。) |
備 考
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現地の案内板には寛永12(1635)年に、大洲と松山で替え地を行っており、その時に建立されたものとなっています。さらに、この案内板にはこの領境石の銘は「中江藤樹」の筆跡(て)なるものと書かれていました。一方で中江藤樹は、この替え地の一年前の寛永11(1634)年に国抜けしているとの情報も複数(高島市教育委員会・日本大百科全書 他)あります。
黒田村が南北に分かれたのは、上記寛永12(1635)年の大洲と松山で替え地を行った際の、石高調整のためだったようです。しかし、寛永16(1639)年※1の藩内分知(新谷藩の成立)時には、南黒田村は大洲領から新谷領になります。※1実際に新谷領となったのは、正保5(1648)年とする資料もあり。
この時に新谷領となった村は、大洲領の各郷村から一村を「抽選」したとされており、突然隣りの村が他領となったことから、同じご領内ならではの遠慮や調整がなくなり、各地で利権争いが発生したようです。南黒田村は海沿いの村ですから、地理的に水利では弱い立場だったのでしょう、大洲領に残った村との水利争いが起こり、それは最終的に幕府裁定を仰ぐほどの事態となります。
その結果、天明2(1786)年※2に大洲領浮穴郡大南村(伊予郡砥部町大南)という、水利では困らないであろう村と替地となり、南黒田村は大洲領に戻されます。(えひめの記憶より 愛媛県史 近世 上<昭和61年1月31日発行>)
※2天明元(1785)年とする資料も多数あり、幕府裁定が天明元年、実際の替地が翌年ということかもしれません。
寛永年間に建てられたものならば、数年間(最大10年強)は南黒田の北黒田との境(現位置付近)に建っていたあと、領境が変更になりますから、下吾川村の南黒田村との境に移設され、そこで140年間を過ごし、その後にもう一度南黒田(現位置付近)に戻ったということでしょうか? それならばさすがに逸話が残っていそうです。
もし、新谷領になった後も、南黒田の北黒田境に「是より大洲領」の表示が建っていたならば、幕府役人に「されば陪臣(またもの)であろう」と嫌味を言われるだけならばまだしも、新谷藩には街道を整備する能力がないなどと烙印を押されたら大変ですから、大洲領境石を残したままにはせず、必ず撤去されたはずです。
角川日本地名大辞典の松前町 黒田村(近世)欄には「寛保3(1743)年藩命により当村に領境を示す石が立てられている」となっていますが、出典が松山叢談となっていますので、これは松山藩が建てた、北黒田の松山領境石で、現存はしていないのでしょう。
それらを考えあわせると、松山と同時期に新谷も領境標(木製の可能性があるので標とします)を建てたが、南黒田が大洲領に戻った天明2(1786)年以降に、すでに建っていた松山領境石に合わせて、新たに大洲領境石を作り建てたと考えた方がすっきりしますが、なんら根拠がある話ではありません。
尚、南黒田村は明治22(1889)年の町村制施行時に、松前村(松前町)と郡中村・郡中町(伊予市)に分かれているのですが、その理由は調べきれませんでした。 |
サイズ
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高さ 188(本来地中にある露呈部を除いた境石としての高さは185)×横 21×奥行 21.5(cm) 粗い花崗岩
2021/04/01 |