丹波国

 当ページの編集にあたり、ホームページ「丹後の地名」を参考とさせてもらっています。

国境石(福知山領境石)

山陰街道(天田郡小倉村)
文 字
 従是東丹波國※1山領
 
    表面                                裏面/左面
場 所
 山陰街道(山陰道) 上になりますが、天保の丹波国絵図を始めとする各丹波絵図や、その他史料でここの国境の小名は確認できません。岡山大学の池田家文庫 絵図公開データベースから但馬国大絵図(天明7<1787>年)では「野方越」とされています。当該国境の小名は野方越しか確認できませんので、山陰街道上の丹波(福知山領)国境石としています。適当な丹波側呼称(小名)が見つかれば、変更するかもしれません。

現地で住民の方にお聞きした話では、国境石が現在建っている場所は市道だそうです(現在は道路として供されてはいない)。確かに地理院地図で見ると道路となっており、さらにはちょうどここが府県境(国境)とされています

確証を得られなかったのですが、この廃道が旧山陰街道であるという話もあり、そうであれば、現在の地目が道路なのも納得できます。十数m北の現在の道路上にではなく、福知山市がこの場所で国境石を管理しているのは、ここがまさに旧山陰街道であり、この国境石の原位置だからなのかもしれません。
備 考
 丹波国には国持もしくはそれに準ずる家がなく、福知山領朽木家(32,000石)がこの国境を管理した(国境石を建てた)ため、国名とともに領名が入った境石になっています。

※1  この文字は「國」のくずし字としてよく見ます(参考:人文学オープンデータ共同利用センター くずし字データセットから「国」)。

天保の丹波国絵図及び但馬国絵図には丹波国天田郡小倉村(福知山領/福知山市夜久野町小倉)と但馬国朝来郡野間村(公料/朝来市山東町野間)※2を結ぶ山陰街道(山陰道)が描かれ、「このところ平地で国境杭あり」とこの国境石に関しての記述があり、さらにその若干北には「このところ、野原で国境三ツ石あり」とされています(三ツ石は検索しても引っ掛かりませんが、こちらに少し書いています)。

※2街道としては野間村とつながるが、国境の相対村は朝来郡金浦(このうら)村(丹波篠山領/山東町金浦)。

また丹波志(寛政6<1794>年)の小倉村欄にも「国境領杭まで拾六丁」と国境杭(石)について記述があります。

この国境石の10mほど東には2体の小さなお地蔵さまが座っています。向かって左のお地蔵さまは、頭には苔(白い付着物)がほとんど生えておらず、首から上が新しい気がしたのですが、首に前垂れの紐が掛かっており、わざわざ前垂れを取ってまでは確認していません。


その横には「天保5(1834)年春」の銘が入った一字一石塔が建っており、造塔主は「額田村(福知山市夜久野町額田) 米屋(以下名前)」となっていました。これらの工作物もここが往還だった名残かも知れません。

この地域の国境についてはこちらでまとめています
サイズ
高さ 136×横 33×奥行 25(cm) 自然石をほぼ未加工で使っており、測る場所によりサイズが違いますが参考のために掲載しています。              2025/01/05

牛尾(天谷)
文 字
 従是東丹波國山領  国の文字に関しては、山陰街道の国境石欄に
 
場 所
 天田郡板生(いとう)村の内 今西村(福知山領/福知山市夜久野町板生今西)と出石郡天谷村(出石領/豊岡市但東町天谷)を結ぶ、丹波国絵図で牛尾峠(丹波志では牛ノ尾峠)とされる峠です。但馬国絵図には峠の小名が記されていませんが、池田家文庫 絵図公開データベースから但馬国大絵図では天谷峠とされています。

現在の府道・県道56号線天谷峠ですが、峠が国境(府県境)ではなく、


但馬(兵庫県)側から天谷峠を見る

丹波が稜線を越えて数十mほど北側にせり出ています。このような場合、国境争いがあったとまでは言わなくとも、必ず国境に関する話し合いが両国・両村間であっているはずですが、そのような史料・資料には行き当たりませんでした。

本来ならば地図を見ただけで稜線境でないことに気がつかなければならないのでしょうが、地図上ではそこまで思い至らず、現地に立って初めて感じることができます。
備 考
 牛尾峠(天谷峠)についてもこちらにまとめています

平成25(2013)年3月18日付 日本海新聞のインターネット記事が手元にあり(同記事はすでにリンク切れしており、検索しても出てきません)、『領境石は昨年十一月、県道但東夜久野線の工事が行われていた豊岡市但東町天谷地区で工事関係者が地中から発見。今年二月下旬、夜久野の住民からの連絡を受けて福知山文化財審議会委員や同センターの職員らが現地で確認した。』(『 』内引用)とされています。

明確な証拠を提示できないのですが、明治新政府は、国境石・領境石を旧来の秩序を表すものとして破却(少なくとも撤去)するように命じたと考えており、その際に破却するのは忍びないと埋められたのかもしれません。

記事を読む限り、但馬国側に埋められていたと読み取れ、そこが若干不思議です。また、現在の天谷峠を見ると、丹波国及び福知山領(往還の向きではなく領域全体)を示す方角は東ではなくて南、もし福知山領の標柱が八方位を採用していたとして(現存する福知山の境石3基は四方位)、やっと東南と言えそうです。(往還の向きを示すならば、西南もあり得る。)

牛尾峠(天谷峠)から東の直見峠(小坂峠)に向かっては、ほぼ稜線付近が国境(府県境)ですが、丹波国は東に向かいかなり南下がりになりますので、牛尾峠(天谷峠)から見た東は但馬国天谷村域を指してしまいます。牛尾峠(天谷峠)の丹波国境石(福知山領境石)が示す方角は若干おかしいと感じるのですが、この件に関して私は結論を持っておらず、その旨を記しておくだけです。

山陰街道(小倉村)の国境石は丹波・但馬両国絵図に記載がありますが、牛尾峠(天谷峠)の国境石は記載がありません。ただし、丹波志(寛政6<1794>年)の板生村欄には「板生村の内今西より但馬国天谷村まで三十二丁二十間 牛馬道。但し牛ノ尾峠国境杭まで十三丁二十間。国境牛ノ尾峠峯強(境)。左右山並尾続峯強(境)。道境牛ノ尾峠峯杭あり」と国境杭(石)について記載があります。

両国境石の「従」の文字を並べてみるとそっくりです。


山陰街道(小倉)                  牛尾峠/天谷峠(板生)

最大の特徴(癖)は八画目の横棒が丸まっているところです。この特徴は「是」の文字でも見ることができます。そしてこうして並べると違いも鮮明になります。例えば八画目の丸め方も、牛尾峠(天谷峠)はより丸く・山陰街道はすこし横長です。

これらの特徴からお家の祐筆なりの書家が、ほぼ同時期に石に直接墨書したものを、石工が彫り込んだのではないでしょうか。たまたま小倉と牛尾峠の現地でちょうどいい石を見つけたとは考えづらく、どこか(麓)で2基(もっと多かったかもしれません)の石を用意し、銘を彫り牛尾峠まで曳いたかもしれません。(曳き上げて建てようとしたら若干方角が違ったか?)

また同記事には『福智山の「智」は福知山藩主の五代目・朽木氏が一七二八年から「知にせよ」とした史料が残されていることから、領境石はこの年より以前に建立されたと推測されている。』(『 』内引用)となっています。5代領主 朽木玄綱(くつきとうつな)。

各地の街道沿いに建つ国・領境石を見ると、1750年頃から盛んに建てられています。享保13(1728)年以前は少し早い気もしますが、もちろんそれらの年代に建ったとされる国・領境石もありますし、なにより加工標柱ではなくなく、自然石をそのまま使っているところなどは、少し古いものを表しているのかもしれません。
サイズ
高さ 145×横 37×奥行 35(cm) 自然石をほぼ未加工で使っており、測る場所によりサイズが違いますが参考のために掲載しています。         2025/02/02

福知山領境石

前田
文 字
 是西福知山領
 
   表面                                   右面/裏面
場 所
 現在は福知山市前田の東林寺(前田1250)に置かれています。


東林寺
備 考
 小倉村・牛尾(天谷)峠の2基は「従是東丹波国福智山領」銘なのに対して、こちらは「從是西福知山領」と国名がありません。これは国境となる領境ではなく、丹波国内の他領との境に建てられたものだからでしょう。

これより西が福知山領域となる、丹波国内他領境はどこになるでしょう? それほど遠くからは運んでいない(大きな境石に対しては「曳く」と表現していますが、こちらは大八車等で運べそうなサイズです)でしょうから、初めに考えたのが京街道(山陰街道)上です。天保の丹波国絵図から京街道を見ますと、城下の天田郡(以下同)福地山町(丹波国絵図での記載)から土師川を越え、土師村の内 新町(福知山市土師新町)〜長田(おさだ)村〜多保市(とおのいち)村までが福知山領で、隣りの宮村の内 岩崎村は綾部領になります。

現代地図で見ると多保市と岩崎が街道上でオンラインになっており、道を限りにの区画整理は考慮できませんが、いちおう領境となるのは、多保市が一番引っ込んだここ(高速道の下)あたりになりそうです。

しかしここからですと、東林寺は現在の道なりで6kmほど離れており、多保市や長田の施設ではなく、少し離れた東林寺に運び込むにはそれなりの経緯が必要です(例えば、路傍に打ち捨てられていたものを保護した・檀家の庭に飾られていたものを譲り受けた等)。そしてこの場所ならば、これより北西が福知山領というべき方角になり、四方位で示すならば真西は天田郡と氷上郡(丹波市市島町)の郡境を指してしまいますので、北寄りと言えそうです。

もう一ヶ所、現在この領境石がある天田郡前田村(福知山市前田)は福知山と柏原(かいばら)の相給の村ですが、角川地名大辞典 福知山市前田村(近世)には「柏原領32石余の地には民家がなく、対岸の柏原領川北村(福知山市川北)分とされた」となっています。ここから同村は領地区切りのある坪分けの相給だったと思われます(現代地図では由良川の南岸にも福知山市川北域があります)。柏原領域に民家はないとされていますので、後述する往還上は福知山領前田村域と言えるでしょう。

前田村の東隣りの同郡土村(同土)は福知山領時代もありましたが、天和元(1681)年以降は武蔵岡部領となっています。天保の丹波国絵図で見ますと、土師川を渡ったところで京街道から分かれ、天田郡石原(いさ)村(柏原領)を経て、綾部陣屋町の何鹿(いかるが)郡綾部村方面につながっている「綾部街道/福知山街道」(平凡社日本歴史地名体系 京都府:福知山市)が見えます。

同辞典の「綾部街道」には「道筋は土師-前田-土-石原・・・」とされており、国際日本文化センターが公開する所蔵地図データベースから、1937(昭和12)年の福知山市全圖を閲覧すると、昭和12年時点で山陰本線南側の現在の府道8号線と、山陰本線北側の村中を通る2つの道に分かれています。基本的に村中を通る道の方が江戸道でしょうから、福知山領前田村と岡部領土村の領境となるのはこの地点になるでしょうか。

この地点ならば「是より西が福知山領」と言い切れますし、東林寺まで1kmほどしかなく、領境石を抱えた前田村の内になりますので、明治維新後に不要になった領境石を(直接運び込まれたのではないとしても)東林寺で預かるのは自然に思われます。

この領境石が前田・土の境に置かれたものとすると、本道と言える京街道上の領境(多保市・岩崎境)にも必ず領境石が建てられたでしょうが、伊能忠敬も京街道上の領境標柱については書き残していません。


 以上はこの福知山領境石が街道上に建つ象徴的な領境石だった場合の話ですが、サイズ的には象徴境石ではなく、実際に領境争いがあった(領境が起きそうな)場所に建てた実務境石だった可能性もあります。ただし、その場合は複数基が建ったはずですので、その中の一基だけが現存するとは考えづらいかもしれません。

平凡社日本歴史地名体系の京都府 福知山市 土には「江戸時代に境界争いがあり、小字論所と呼ぶ地」があるとされており、小字論所は府道8号線沿いの前田との境になるようです。前田と土の境界論争が江戸時代のいつ頃の話(江戸初期ならばどちらも福知山領なので、領境ではなく村境論争)なのか、どのような結果になったのかは調べきれなかったのですが、いちおう境界論争があったとされていることを記しておきます。
サイズ
高さ 110×横 24×奥行 24(cm)               2025/03/01

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