文 字
|
従是東丹波國※福智山領 ※国の文字に関しては、山陰街道の国境石欄に |
|
場 所
|
天田郡板生(いとう)村の内 今西村(福知山領/福知山市夜久野町板生今西)と出石郡天谷村(出石領/豊岡市但東町天谷)を結ぶ、丹波国絵図で牛尾峠(丹波志では牛ノ尾峠)とされる峠です。但馬国絵図には峠の小名が記されていませんが、池田家文庫 絵図公開データベースから但馬国大絵図では天谷峠とされています。
現在の府道・県道56号線天谷峠ですが、峠が国境(府県境)ではなく、

但馬(兵庫県)側から天谷峠を見る
丹波が稜線を越えて数十mほど北側にせり出ています。このような場合、国境争いがあったとまでは言わなくとも、必ず国境に関する話し合いが両国・両村間であっているはずですが、そのような史料・資料には行き当たりませんでした。
本来ならば地図を見ただけで稜線境でないことに気がつかなければならないのでしょうが、地図上ではそこまで思い至らず、現地に立って初めて感じることができます。 |
備 考
|
牛尾峠(天谷峠)についてもこちらにまとめています。
平成25(2013)年3月18日付 日本海新聞のインターネット記事が手元にあり(同記事はすでにリンク切れしており、検索しても出てきません)、『領境石は昨年十一月、県道但東夜久野線の工事が行われていた豊岡市但東町天谷地区で工事関係者が地中から発見。今年二月下旬、夜久野の住民からの連絡を受けて福知山文化財審議会委員や同センターの職員らが現地で確認した。』(『 』内引用)とされています。
明確な証拠を提示できないのですが、明治新政府は、国境石・領境石を旧来の秩序を表すものとして破却(少なくとも撤去)するように命じたと考えており、その際に破却するのは忍びないと埋められたのかもしれません。
記事を読む限り、但馬国側に埋められていたと読み取れ、そこが若干不思議です。また、現在の天谷峠を見ると、丹波国及び福知山領(往還の向きではなく領域全体)を示す方角は東ではなくて南、もし福知山領の標柱が八方位を採用していたとして(現存する福知山の境石3基は四方位)、やっと東南と言えそうです。(往還の向きを示すならば、西南もあり得る。)
牛尾峠(天谷峠)から東の直見峠(小坂峠)に向かっては、ほぼ稜線付近が国境(府県境)ですが、丹波国は東に向かいかなり南下がりになりますので、牛尾峠(天谷峠)から見た東は但馬国天谷村域を指してしまいます。牛尾峠(天谷峠)の丹波国境石(福知山領境石)が示す方角は若干おかしいと感じるのですが、この件に関して私は結論を持っておらず、その旨を記しておくだけです。
山陰街道(小倉村)の国境石は丹波・但馬両国絵図に記載がありますが、牛尾峠(天谷峠)の国境石は記載がありません。ただし、丹波志(寛政6<1794>年)の板生村欄には「板生村の内今西より但馬国天谷村まで三十二丁二十間 牛馬道。但し牛ノ尾峠国境杭まで十三丁二十間。国境牛ノ尾峠峯強(境)。左右山並尾続峯強(境)。道境牛ノ尾峠峯に杭あり」と国境杭(石)について記載があります。
両国境石の「従」の文字を並べてみるとそっくりです。

山陰街道(小倉) 牛尾峠/天谷峠(板生)
最大の特徴(癖)は八画目の横棒が丸まっているところです。この特徴は「是」の文字でも見ることができます。そしてこうして並べると違いも鮮明になります。例えば八画目の丸め方も、牛尾峠(天谷峠)はより丸く・山陰街道はすこし横長です。
これらの特徴からお家の祐筆なりの書家が、ほぼ同時期に石に直接墨書したものを、石工が彫り込んだのではないでしょうか。たまたま小倉と牛尾峠の現地でちょうどいい石を見つけたとは考えづらく、どこか(麓)で2基(もっと多かったかもしれません)の石を用意し、銘を彫り牛尾峠まで曳いたかもしれません。(曳き上げて建てようとしたら若干方角が違ったか?)
また同記事には『福智山の「智」は福知山藩主の五代目・朽木氏※が一七二八年から「知にせよ」とした史料が残されていることから、領境石はこの年より以前に建立されたと推測されている。』(『 』内引用)となっています。※5代領主 朽木玄綱(くつきとうつな)。
各地の街道沿いに建つ国・領境石を見ると、1750年頃から盛んに建てられています。享保13(1728)年以前は少し早い気もしますが、もちろんそれらの年代に建ったとされる国・領境石もありますし、なにより加工標柱ではなくなく、自然石をそのまま使っているところなどは、少し古いものを表しているのかもしれません。 |
サイズ
|
高さ 145×横 37×奥行 35(cm) 自然石をほぼ未加工で使っており、測る場所によりサイズが違いますが参考のために掲載しています。 2025/02/02 |