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丹波国絵図に見る国境石と国境の小名

当ページ作製の資料として、ホームページ「丹後の地名」を参考とさせてもらっています。

丹波・但馬境 天保の但馬国絵図

 まずは西の但馬境から見ていきますが、丹波国と但馬国・播磨国は三国嶽(三国岳)を国境とするとされています。現在の丹波市(丹
波国)・朝来市(但馬国)・多可郡多可町(播磨国)の兵庫県内市境が国境となります。そこから北へ見ていきますと、

〇三国岳のすぐ北に、氷上郡大名草(おなざ)村(柏原<かいばら>領/丹波市青垣町大名草)と朝来郡黒川村(公料/朝来市生野町
黒川)を結ぶ 鳥峠。

 天保の丹波国絵図には峠の小名はありません。元禄の丹波国絵図では達筆な文字で書かれていますが、いちおう「鳥」と読みまし
た。平凡社日本歴史地名体系(兵庫県:朝来郡>青垣町>大名草)では、大名草村と与布土(ようど)村を結ぶ「鳥(とり)峠」と、大名草
村と黒川村を結ぶ「生野峠」が挙げられています。たぶんこの両者が言う鳥峠は同じものでしょう。

 岡山大学の池田家文庫 絵図公開データベースから、但馬国大絵図(天明7<1787>年)で見ると「佐波路峠」とされています。一
方、但馬国絵図には峠名は書かれておらず、「雪降り積もれば、牛馬通わず」とされています。また、雲頂山大明寺(生野町黒川本村)
も描かれています。それらの位置関係から、国道429号青垣峠が該当しますでしょうか。

〇氷上郡大稗(おびえ)村(上総鶴牧領/青垣町大稗)村と朝来郡与布土村(公料/朝来市山東町与布土)を結ぶ かい峠。

 丹波国絵図では小名は記されておらず「難所 牛馬通わず」とされています。府道276号・県道576号が該当しそうですが、現在は
連続しているように見えません

〇「をう志``(じ)やく山」でしょうか、これまた達筆な字で書かれています。

 西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースから 丹波国絵図(元禄17<1704>年)で見ると、「ヲウシヤク山」とされています。「但馬
国にては朝来山と申し候」となっていますが、現在は朝来市内の別の山が朝来山とされています。但馬国絵図で見ると、朝来郡栗鹿
(あわが)村(公料/山東町粟鹿)の東に朝来山が描かれていますので、現在の栗鹿山を指すでしょう。

〇氷上郡遠坂村(柏原領/青垣町遠阪)と朝来郡柴村(公料/山東町柴)を結ぶ 佐治山峠(丹波国絵図)/遠坂峠(但馬国絵図)。

 丹波国絵図は達筆で読みづらかったので、元禄の丹波国絵図で確認しています。現在の国道427号線遠阪峠です。

 江戸時代の村は「遠坂」・現在の町は「遠阪」ですが、角川地名大辞典 兵庫県青垣町 遠阪で見ると「谷全体を指す時は遠阪で、そ
の奥の集落を指す時が遠坂」とされています。

 佐治山(遠阪)峠のすぐ北で丹波国側は郡境となり、天田郡小倉(おぐら)村(福知山領、以下同/福知山市夜久野町小倉)となりま
す。但馬国側は引き続き朝来郡柴村域ですから、ここからしばらくは府県境が国境となります。

〇小倉村と朝来郡金浦(このうら)村(丹波篠山領/山東町金浦)の間に「二国嶽」が見えます。該当するのは小倉富士しかないと思う
のですが、小倉富士を二国岳と言うという記述は見つけられません。

〇小倉村と朝来郡野間村(公料/朝来市山東町野間)を結ぶ山陰街道(山陰道)が描かれ、丹波国絵図但馬国絵図いずれも、「この
ところ、平地で国境杭あり」、その北に「このところ、野原で国境三ツ石あり」とされています。但馬国大絵図ではこの地の小名は「野方
越」とされています。

 この国境杭は山陰街道 夜久野町小倉の「丹波国福知山領」境石が該当します。

 三ツ石に関しては、丹波志(寛政6<1794>年)には「このところを(に)、三ツ立石という石あり。三ツ立石から(後述の)牛ノ尾峠まで
は山の峰が国境である。」旨が記されていますので、三ツ石は宝山への山際に近いところにあったのではないかと思いますが、Web検
索では該当のものは引っ掛かりません。

 また、但馬国絵図では山陰街道(山陰道)は「雪が降り積もっても牛馬が通える」とされています。但馬側国境の金浦村の鎮守は二
国神社ですが、角川地名大辞典 兵庫県山東町 金浦村(近世)には、丹波国側にも氏子がいたので「二国という」となっています。丹
波志では「二国神社は国境ギリギリにあり、国境確定の起点」とされていましたが、同神社は最近遷座しています。

旧二国神社は金浦390
現二国神社は金浦448−3

 取材時にはこのあたりをレンタカーで走りましたが、ナビが細かく「兵庫県に入りました」「京都府に入りました」と教えてくれました。

 但馬国は養父郡に変わります。国境の村としては養父郡竹之内村(公料/朝来市和田山町竹ノ内)や同郡竹之内村の内 内海(各
資料では竹之内村に含まれる/同内海)が見えます。地理院地図で見た該当地域

〇両国絵図とも鉄鈷(かなとこ)山が描かれています。

 鉄鈷山を経て国境が南北になりますが、但馬国はまた郡が変わり、出石郡となります。

〇床尾嶽(但馬国絵図)。但馬国内となるため、但馬国絵図にのみ養父郡と出石郡の境に描かれています。東床尾山と西床尾山の2
座があるようです。

〇天田郡板生(いとう)村の内 今西村(福知山市夜久野町板生今西)と出石郡天谷村(出石領、以下同/豊岡市但東町天谷)を結ぶ
 牛尾峠。

 天保の丹波国絵図は状態が悪くて「牛」と「峠」しか見えません。元禄の丹波国絵図で見ると「牛尾峠」、丹波志では「牛ノ尾峠」とされ
ています。

今西バス停は夜久野町板生1339−1先に

 現在の府道・県道56号線天谷峠です。ここにも2006年頃に地中に埋められていたものが道路工事中に偶然見つかり、再設置され
丹波国福知山領の国境石が建っています。両国絵図にはここに国境石が建っていた記録はありません。しかし、丹波志(寛政6<17
94>年)の板生村欄には「板生村の内今西より但馬国天谷村迄三十二丁二十間 牛馬道。ただし牛ノ尾峠国境杭まで十三丁二十
間。国境牛ノ尾峠峯強(境)、左右山並尾続峯強(境)、道境牛ノ尾峠峯に杭あり。」と国境杭(石)について記載があります。

 但馬国絵図には峠名はなく「難所」とされているのみですが、岡山大学池田文庫但馬国大絵図では天谷峠となっています。西尾市岩
瀬文庫丹波国絵図では、牛尾峠と直見峠が入れ替わってしまっています。300年後に間違いを指摘されるとは思ってもいなかったこと
でしょう。

〇天田郡直見村の内 才谷村(福知山市夜久野町直見才谷)と出石郡小坂村(豊岡市但東町小坂)を結ぶ 直見峠。

 但馬国絵図には峠名はなく「難所」とされていますが、池田文庫但馬国大絵図では「小坂峠」となっています。現在の府道・県道63号
小坂峠です。この峠を久畑側から直見へ車で抜けましたが、兵庫県側のカーブはまさに難所でした。

〇天田郡上佐々木村(上総飯野領/福知山市上佐々木)と出石郡久畑市場村(豊岡市但東町久畑)を結ぶ上り尾峠。

 国道426号登尾峠の旧道但馬国絵図には上り尾峠も「この坂、雪が降リ積もれば牛馬通わず」とされています。

 丹波志の佐々木村欄には「佐々木村より但馬国久畑市場村まで一里拾四丁三十間牛馬道。ただし上ノ尾峠の国境迄二十四丁四十
間。国境は上ヶ尾峠峯強(境)、左右山並尾続峯強(境)、三国嶽峯強(境)、道境は上ヶ尾峠に杭あり」とされています。

 上ノ尾峠・上ヶ尾峠はいずれも登尾峠を指すと思われ、平凡社日本歴史地名体系 京都府:福知山市 上佐々木村には「(登尾峠
の)頂上には、『従是西出石領』という石柱が建っていた』とされており、ここには出石領の領境石が建っていたようです。

 登尾峠は、京から出石に向かう特に重要な峠で、久畑市場には出石藩関所もあり、出石が領境石を建てるならばまず登尾峠でしょう
が、登尾峠に領境石が建っていたならば、先述の天谷峠・小坂峠、そして丹後との間の峠にも領境石が建っていた可能性があります。

〇三国嶽(三国山)が丹波・但馬・丹後の三国境となります。

 余計なことですが、桂小五郎は蛤御門の変の後、一時は出石に身を隠し結婚までしていますが、京から逃れるときに久畑市場の出
石関所で捕まりそうになったという逸話が残っており、幕末好きとしては胸熱くなる地名です。
2025/01/05 

丹波・丹後境 天保の丹後国絵図
 
 丹波・但馬・丹後3国境の三国嶽(三国山)から東を見ますが、ここからは国境が京都府内になります。

〇天田郡上佐々木村(上総飯野領/福知山市上佐々木)と輿佐(与謝)郡雲原村の内 西石(さいし)村(宮津領/福知山市雲原西石)を結ぶ  神宮寺峠。

 丹波国絵図では~峠と書かれているように見えますが、元禄の丹波国絵図で見ると神宮寺峠となっています。地理院地図に西石のが見えます。丹波国絵図丹後国絵図とも境石に関する記述はありませんが、府道530号線神宮寺峠には宮津領境石が建てられています。

 現在の福知山市は、平成の大合併により丹後国域だった旧大江町を市域に含みますが、それ以前は福知山市を構成する地域の内、雲原だけが旧丹後国域でした。雲原村は明治35(1902)年に京都府与謝郡から天田郡に所属変更になっており、その後1955(昭和30)年に福知山市に合流しています。

 なぜ郡界変更になったのかを資料上では見つけられませんでしたが、雲原は西を三国山〜神縣峠〜江笠山、北は江笠山〜与謝峠〜赤石ヶ岳、南は三岳山〜神宮寺峠に囲まれており、東にしか開けておらず、村域を流れる雲原川はいったん天田郡天座村を経て、丹後国域の加佐郡橋谷村(福知山市大江町橋谷)へ流れて行きます。

 このような状況で天田郡天田村と結びつきが強くなり、天田郡への郡界変更は自然な流れだったのかもしれません。

三岳山丹波国絵図)/三多氣(丹後国絵図)。

〇天田郡下野条村(上総飯野領<以下同>/福知山市下野条)と雲原村の内 山谷村(宮津領<以下同>/福知山市雲原山谷)を結ぶ 山谷峠。丹後国絵図(以下「 」内の記述は同)には「牛馬不通」とされる。

 山谷峠は次の雲原川沿いの2筋の往還と一緒に。

〇山谷峠と山下峠の間に、下条野村から雲原川の南岸をたどり雲原村への道と、天田郡天座村(福知山市天座)から雲原川の北岸をたどり雲原村への2筋の往還が見えますが、どちらも国境の小名は書かれていません。

 平凡社日本地名体系 京都府:福知山市 下野条村には「北は坂浦峠で雲原と接し」、また「山陰路丹後別路が村の東方を通って雲原村へ通じていた」とされ、この丹後別路が「下野条村より丹後国山谷村まで二十三丁半、牛馬不通」(丹波志)と山谷村とつながっている往還とされています。

 坂浦の字がここに見えますので、下野条村から雲原川沿いに雲原村へつながる往還が坂浦峠となり、現在の府道176号線が該当するでしょうか。下野条から山谷に抜ける山谷峠は現代地図では追えません。天座村から雲原川の北岸をつたい雲原へ至る往還が府道63号線でしょうか。

〇天座村と与謝郡与佐(謝)村の内 山河村(宮津領<与謝村として>/与謝郡与謝野町与謝山河<さんご>)を結ぶ 山下峠。「馬不通」。

 丹波国絵図には「天座村から丹後山下村まで三十四丁拾間」とされています。丹波志でもまったく同じ記載がありますが山下に「さんこ」とかなが振られています。一方の丹後国絵図では村名は山河ですが、峠の小名は丹波国絵図と同じく山下峠となっています。これらから山下峠は丹後側地名の山河のことで、「さんこ」もしくは「さんご」峠と読むようです。

 天座と山河を結ぶのはこのルートが該当するでしょうか。日本地名体系 京都府:与謝郡>加悦町>与謝村によれば、丹波側で加悦街道もしくは峯山街道と呼ばれた往還とされる。(国道176号与謝峠は丹後国内の峠。)

〇両国絵図ともに山下峠と加納峠の間に大江山が見えます。

〇同じく天座村と加佐郡北原村(福知山市大江町北原)を結ぶ 加納峠。「馬不通」。

 丹波国絵図で見ると、天座から雲原川を下り、次の俵峠への道から分かれていますので、府道63号を川沿いに下って来て登尾方向へ支流沿いを伝い、最短ではこのあたりを通るでしょうか。

〇同じく天座村と同上加佐郡橋谷村を結ぶ 俵峠。

 府道63号線が該当するでしょうか。

〇天田郡行積(いつもり)村(福知山市行積)と加佐郡小原田(おわらた)村(福知山市大江町小原田)を結ぶ 黒神原峠。

 丹波側の起点が行積か長尾か微妙な場所ですが、このルートが黒神原峠もしくは長尾峠に該当でしょうか。

〇天田郡長尾村(福知山市長尾)と同じく小原田村を結ぶ 長尾峠。

 「馬不通」。上に書いたルートが黒神原峠ならば、長尾峠はこのあたりを通るでしょうか。

 天田郡一尾村(福知山市一尾)と加佐郡日藤(ひとう)村(福知山市大江町日藤)を結ぶ 的場峠。

 一尾と日藤を結ぶのはこの道となるでしょう。

 と続きますが、いずれも国境杭(石)に関する記述はありません。

 由良川沿いの宮津街道(国道175号)に至り、丹波国絵図丹後国絵図ともに「このところ、平地で国境杭あり」と書かれています。丹波側は天田郡下天津村(福知山領/福知山市下天津)・丹後側は加佐郡日藤村の内 境川(宮津領/福知山市大江町日藤)ですが、角川地名大辞典 京都府福知山市 下天津村(近世)には「村の北端に国境領杭があり『従是北丹後国宮津領』と記される」と丹後宮津側の国境石のみ記載がありますが、国境石を抱えていた側の村となる、同辞典 大江町日藤村(近世)には境石の記述はありません。

 また、丹波志の下天津村欄にも「下天津村より丹後同境川まで十三丁五十間、平地で午馬道、国境領杭まで八丁、国境道の杭より西の方は山まで尾道の峯が疆(境)、東の方は国境杭より見通し大川有り」と国境杭(石)が建っていたとされています。

 現在ここには「京都府天田郡」・「丹後國加佐郡」の郡境石が建っていますが、京都府内各地に同様のものがあり、一部には明治27年の銘が入っています。天田郡側は「京都府」銘であることもあり、これらは明治に府の事業として郡単位で一括して作られたものと判断しています。

 さらにその東側を見ていくと、

〇由良川の南岸に天田郡筈巻村(旗本武田氏知行地/福知山市筈巻)と加佐郡夏間村(公料・田辺領※1相給/福知山市大江町夏間)を結ぶ往還が見えますが、国境の小名等は書かれていません。府道55号線が該当するでしょう。

鬼ヶ城 丹波志の猪崎村欄には「鬼ヶ城の頂は丹後の地なり」とされています。

〇天田郡猪崎村(福知山領/福知山市猪崎)と加佐郡南山村(田辺領※1/福知山市大江町南山)を結ぶ 鬼ヶ城峠。「馬不通」(「 」内は丹後国絵図の記述、以下同)。

 丹後国絵図で見ると、鬼ヶ城峠は室尾谷観音の東で南山峠に合流しています。この道は現代地図ではもう追えませんが、猪崎の醍醐寺(猪崎1)と南山の室尾谷山観音寺(大江町南山952)をつなぐように、鬼ヶ城と鳥ヶ岳の間の鞍部を抜けたのでしょう。※1旧高旧領取扱帳データベースでは明治以降の舞鶴領で載る(以下、丹後国側はすべて田辺領)。

 丹波国は郡が変わり、

〇何鹿(いかるが)郡報恩寺村枝村山野口村(公料※2/福知山市山野口)と同上南山村を結ぶ 左折峠(丹波国絵図)/南山峠(後国絵図)。

 平凡社歴史地名体系(京都府:福知山市>山野口村)では高浜街道とされ、府道492号が該当でしょうか。同辞典(京都府:加佐郡>南山村)では「室尾谷(地理院地図に掲載があります)からサオリ峠を越え丹波国天田郡へ」とされており、丹波国絵図のいう左折峠のことでしょう。※2出入りが激しいのですが、旧高旧領取扱帳データベースが言う篠山領分は明治2年以降。

 両国絵図には掲載がありませんが、日本地名体系(京都府:加佐郡>南山村)には「奈良原・奥山(南山村の字)から惣峠を越え丹波国何鹿郡小畑へ」とされています。この小畑はたぶん明治の行政単位の小畑村で、何鹿郡鍛冶屋村(綾部領/綾部市鍛冶屋)を指すと思われ、鍛冶屋から奈良原・奥山の両方につながるのはこの峠になるでしょうか。

〇何鹿郡赤目坂村(旗本2氏の相給/綾部市西坂)からの往還が2股に分かれ、一方は加佐郡尾藤村(福知山市大江町尾藤)につながっていますが、こちらは峠の小名はありません。もう一本は加佐郡千原(せんばら)村(福知山市大江町千原)とを結ぶ 千原峠。

 尾藤村へつながるのが府道493号線尾藤峠となり、千原峠はこちらの道となりそうです。

〇何鹿郡西保(にしのほ)村(園部領/綾部市西坂)と加佐郡南有路村(福知山市大江町南有路)を結ぶ 枯木峠。

 西坂町枯木坪に枯木延命地蔵尊が見えますので、府道9号が該当でしょう。

〇何鹿郡西方村の内 井岡村(山家・柏原領相給※3/綾部市西方)と同じく南有路村を結ぶ 古洛峠(後述のように古地峠が正しいか?)。

 天保の丹波国絵図だけで自信を持てなかったので、天保の丹後国絵図及び元禄の丹波国絵図から古洛峠と読みましたが、日本地名体系(京都府:加佐郡>南有路村)には「古地(ふるじ)峠で丹波国何鹿郡西方村へ」とされています。地理院地図で見ると、南有路に古地の字が見えます。両村を結ぶのはこの峠となるでしょうか。※3山家・柏原相給は西方村として、井岡村・奥村としては不明。

〇何鹿郡西方村の内 奥村(※3/綾部市西方)と加佐郡二箇村の内 市原谷(福知山市大江町市原谷)を結ぶ 尾坂峠。

 府道494号線を上っていく道が該当しそうです。

〇何鹿郡坊河内(ぼうぐち)村の内 尾野内村(柏原領/綾部市坊口町)と加佐郡桑飼上村(舞鶴市桑飼上)を結ぶ 小原峠。「馬不通」。

 丹波国絵図では尾野内村とされていますが、資料により尾内・尾ノ内ともされています。坊口町尾ノ内はこのあたりのようです。連続していませんが、坊口町からの道も桑飼上からの道も、一連の府道491号線とされています。

〇何鹿郡坊河内村枝郷金河内(かねごち)村(旗本谷<十倉>氏知行地/綾部市金河内)と加佐郡久田美村(舞鶴市久田美)を結ぶ 久田美峠。「馬不通」。

 両町を結ぶ道は見えませんが、最短ならばこのあたりを通るでしょうか。

〇何鹿郡坊河内村枝郷内久井村(旗本谷<十倉>氏知行地/綾部市内久井)と加佐郡城屋村(舞鶴市城屋)を結ぶ 廣野峠。「馬不通」。

 連続していませんが、内久井からの道も城屋からの道も府道490号線となっており、地理院地図では登尾峠とされています。

丹波国絵図丹後国絵図ともに、伊佐津川沿いに何鹿郡黒谷村(旗本 谷<梅迫>氏知行地/綾部市黒谷)と加佐郡真倉村(舞鶴市真倉)を結ぶ往還が描かれ、国境の小名や峠名は書かれていませんが、「このところ、平地で国境杭あり」と書き込まれています。

 京街道(丹後街道・綾部街道)(国道27号)が該当します。現在はここにも「従是北丹後國加佐郡」・「従是南丹波國何鹿郡」の郡境石が建ちますが、何鹿郡の裏銘に「明治二十七年三月建立」とされており、両者ともに同時期に府の事業として建てられたと判断しています。

 田辺領と旗本谷氏知行地の境になりますので、ここには田辺領の国境杭(国境・領境並記か?)が建っていたと思うのですが、そのような史料・資料は見つけられません。

 現在は黒谷和紙会館前に「従是南梅迫領分」と彫られた、山家領谷家分家の梅迫を本拠とする旗本谷氏の領分を示す石柱が建っています。「是より南」ですから、建つならば京街道上になるかと思われます。この領境標の背景がいまいちわからないのですが、私の常識では旗本がなんらかの標識を建てるならば木柱だったと考えています(例外はあり)。また街道上に建てる国・領境石は公的なものですから、幕府にお伺いをたてて指示を仰いだ記録が残っているお家(のちの藩)もあり、領主が自分の判断で勝手に建てていいものではなかったようです。

 さらにこの旗本領境石はかなり達筆です。もちろん草書の領境石もないわけではありませんが、それらを考えると江戸期のものではなく、明治維新から明治2(1869)年12月の旗本領上知までの間、もしくはそれ以降にモニュメント的な意味合いで建てたのかもしれません。この件に関しては、確認したわけではありませんし、当該石柱には中途で折れた補修跡があり、一定の年季が入ったものに見えます。なんらかの資料・史料が出てくればこの稿は書き改めます。

〇何鹿郡於与岐村の内 見内村(旗本谷<梅迫>氏知行地/綾部市於与岐町)と加佐郡池ノ内下村(舞鶴市池ノ下)を結ぶ 見内峠。

 この集落が於与岐町見内になりますので、この峠が該当しそうです。

〇何鹿郡於与岐村の内 大股村(上記見内村に同じ)と同じく上池ノ内下村を結ぶ 大股峠(丹波国絵図)/丹後峠(丹後国絵図)。

 府道74号線に該当するでしょう。Google マップでは丹後峠とされています。

〇三仙(弥仙山

〇何鹿郡遊里(ゆり)村(園部領/綾部市五津合町)と加佐郡岸谷村(舞鶴市岸谷)を結ぶ 幾津見峠(丹波国絵図)/幾津峠(丹後国絵図)。「牛馬不通」。

 平凡社日本歴史体系 京都府:綾部市>游里村では「集落の西北方の木住(きずみ)峠を越えて丹後国岸谷村へ」と、また「吉田・寺内(てらち)は遊里村の字」とされ、GoogleMAPでは上遊里・下遊里の字も見えます。幾津見は木住と同じ読みの「きづみ」か? 遊里と岸谷を結ぶのはこの峠でしょうか。角川地名大辞典 京都府綾部市 遊里村(近世)では、同村と田辺をつなぐのは於見峠とされています。
 
〇何鹿郡虫(睦志)村(旗本藤懸氏知行地/綾部市五津合町)と同じく岸谷村を結ぶ 小吹峠。

 角川地名大辞典 京都府綾部市睦志村(近世)には「若宮(綾部若宮神社)がある」とされています。また、あやバス(コミュニティバス)の睦志バス停はここににあります。バス停の脇の道が小吹峠へつながるようです。

〇何鹿郡水梨村(山家領/綾部市五泉<いいずみ>町)の先で2股に分かれ、一つは加佐郡白瀧村(舞鶴市白滝)とを結ぶ 神子峠、もう一つは加佐郡与保呂下村(舞鶴市木ノ下)とを結ぶ 菅坂峠が見えます。

 五泉町は水梨・市野瀬・辻・市志の四ヶ村が合併してできた町ですが、水梨は畑口川と水梨川の合流点から水梨川上流側(北)になるようです。市野瀬は両川の合流点の畑口川側(東)、辻村は合流点より下の府道51号沿い、市志は堀口川上流。

 このあたりに神子(みこ)谷の字がありますので、白滝とつながる神子峠はこの峠でしょうか。菅坂峠は府道51号旧道が該当。与保呂下村は元禄の頃に常村と分村し木ノ下村となる(角川地名大辞典 京都府舞鶴市 木ノ下村<近世>)。

〇何鹿郡水梨村の内 市志村(山家領/綾部市五泉)と加佐郡与保呂上村(舞鶴市与保呂)を結ぶ 八代峠。

 天保の丹波国絵図には「水梨村の内」とされるが、角川地名大辞典 京都府綾部市 市志村(近世)には「後に独立した」とされ、旧高旧領取扱帳データベースでも一村として記載。同辞典には「本村(水梨村)と3km離れて孤立していた」とも。GoogleMAPによる市志公民館。市志と与保呂を結ぶのはこの峠が該当しそうです。

〇何鹿郡於見谷村の内 大唐内(おがらち)村(山家領/舞鶴市老富町)と加佐郡多門院村の内 黒府(舞鶴市多門院)を結ぶ 護摩

 天保の丹波国絵図には「於見谷村の内」とされるが、角川地名大辞典京都府綾部市 大唐内村(近世)には「於見谷村は後に大唐内・市茅野・光野に分村」とされ、旧高旧領取扱帳データベースでも一村として記載。多門院黒府は現在の多門院黒部(くろぶ)で、読みは同じか?

 を経て丹波・丹後・若狭の三国境である三国嶽(三国岳)に至ります。
 2025/04/01 

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