通常国境石と呼ばれるものには大きく分けて、
@街道筋の象徴的な国境石
A国境の村と村の境に建てられた実務的な石
B国境石の傍石 C国境石の控石 があります。
また、
D領境石及びその控石・傍石 も国境石近似のものです。
@の街道筋の石は当然ながら人通りの多い街道に建てられたのですが、現在その石の建つ場所を見てみますとほとんどが国道からはずれて旧道にポツンと建つか、道でさえなくなっている場合もあります。現在も国道沿いに建つ石はほとんどが移設ですが、この移設も道を拡げるために若干後ろにずらした場合と、民有地等の問題で大幅に移設されている場合があります。
@の街道筋の石は、江戸時代の交通の証人です。

薩摩街道 筑前・筑後の国境石(この石は珍しく移動していません)
Aの石は、ほとんどが国境争いがあったこと、もしくは地形が入り組んでいたために国境争いを恐れた証拠です。
藩同士は藩の威信をかけて国境争いをしました。また年貢に喘ぐ村人にとっては、畑や山が無くなってしまう(食料や薪がなくなる)というのは生死にもかかわる問題だったかもしれません。
国境石が建っているある地域では、激しい国境争いが起こった後、明治になるまで、
隣り合った両国の村人同士がほとんど言葉を交わすことがなかったとまで言われています。

筑前・肥前の国境石(那珂川町・吉野ヶ里町)
B傍石は、国境石と国境石の間を埋めていった石です。国境石―傍石―国境石を結ぶ線が国境を表しますので、傍石は国境上にあります。
現在の県境・市町村境を見てもわかるように、境は尾根・川・道等を基本としますので、決して直線ではありません。この複雑な国境線を修正していくために傍石が建てられました。

福岡領境石の傍石(前原市)
C控石は、国境石のある位置を表す石で、控石は自国(領)内に置かれていました。
国境石は川の氾濫・山の土砂崩れ・または隣接する国の嫌がらせ等で、紛失・移動してしまう場合があります。万が一国境石が紛失・移動してしまっても、国境石の建っていた位置(国境)がわかるように控石が置かれました。
この控石からどちらの方向(卯=東・酉=西等)・何mの距離(縄・尺等)等のデータが詳細に書かれた石と、控石である旨のみ記された石がありますが、後者の場合は地図とセットになっていて両国で取り交わされていたことでしょう。

筑前国境石への方角距離が記された控石(北九州市)
Dの領境石(領界標)は国内の各藩(領)の境です。
例えば、豊前・筑後等は1国を数藩で分けていたため各領境が発生します。
筑前も国内に中津領・公領(幕府領)・対馬(対州)領を抱えていたため、怡土郡西部には領境が存在していました。
本藩と支藩の間では領境論争など起ろうはずもありませんが(※)、隣が他人だった場合(豊前の場合、小倉小笠原家と中津奥平家・筑後の場合、久留米有馬家・柳川立花家・三池立花家)、やはり領境を明確にしておく必要がありました。
もちろん、領境石にも傍石・控石が存在する場合があります。
また、ほとんんどの場合において領境が国境になるのですが、「○○國」や「○○國××領」と国境石の形式を取っている場合と、単に「××領」とのみ記して領境石を持って国境石との兼用としている場合があります。

豊後日出領領境石
※この部分、最初にこの項を書いたときから間違った記述をしているようで気になっていたのですが、珍しいケースではありますが、本藩と支藩で領境争いをして領境石が建っている地区もあります。
この辺りでは肥前佐賀領(本藩)と蓮池藩(はすのいけ・支藩)の境、嬉野一帯がその地域です。この件については「肥前の境石」内「番号石」のページに詳述しています。
その他にも、領内の郡と郡の間には「郡境石(郡界標)」が、また村民同士の土地争いの結果「村境石」が建てられることもありました。
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