今治領境石


馬越
文 字
 従 是 南  治 領   「今」は「ラ」が「テ」になる異字体
 
場 所
 現在は今治市馬越町の三島神社の境内にあります。

2023/03/01追記 「松山領山路の領境石」と同じ内容です。

今昔マップから波止濱 明治31年測図 大正14.3.30発行で見るとこの場所になります。ちょうど野間郡(山路村)と越智郡(馬越村)の境になりますので、愛媛県立図書館のデジタルアーカイブから越智郡地図 地誌付(年不詳ながら明治以降)で見てもわかりづらく、越智郡地図 地誌付で見た四方見山の、海禅寺(山方町2丁目甲1167)と大己貴神社(馬越域だが現在は見当たらず)の間にある赤の点線(村境)は、日吉村と馬越村の境です。(馬越村が浅川を越えて四方見山へ張り出している<山への利権は大切なものです>。)

越智郡地図 地誌付で見える浅川沿いの今治往還が、野間郡 地誌付(同じく年不詳)で見る山路村への今治往還に繋がり、今治往還の北、山の中腹に厳島社と瑞泉寺が見えます。
備 考
 初めてその石を見た時の印象を大切にしていますが、「文字が可愛いな」と思いました。
サイズ
高さ 137×横 23×奥行 22(cm) 花崗岩

国分
文 字
 従 是 西  治 領   今は「ラ」が「テ」になる異字体 
 
場 所
 今治市国分6丁目、県道156号線国分寺のそばの民有地(民有地ではなく公民館跡かも)に建っています。

2023/03/01 この欄を全面的に書き直します(原位置に変更はありません)。

この境石の原位置を、県道156号線の一本西旧道沿いの、国分の桜井との境としていましたが、場所をもう少し詳しく、愛媛県立図書館デジタルアーカイブから越智郡地図 地誌付(年不詳ながら明治時代/同地図は180°回転させてやると見やすい)で見ますと、当然ながら県道156号はまだなく、四国街道は大川(この川は現在も大川)沿の道となっています。

同地図では酒井川(と書かれているように見えます)と大川の合流点に久四郎橋が掛かっていますが、久四郎橋上流の大川のクランクは、、現在の郷桜井1丁目と桜井3丁目の間にある大川のクランクと同じ形です。それらクリークや橋、神社・寺、村境を細かく付き合わせていきますと、山人橋が国分6丁目1・7と同2・6の間に架かり、口田橋は国分6丁目2・6と同3・6の間に架かっていたようです(現在はどちらも橋名版なし)。

四国街道上の村(領)境が国分村と桜井村(公料)ならば、この領境石の原位置は、越智郡地図 地誌付で見た四国街道(大川沿い道)上、朔日溝が大川に合流する地点になります。現代の地図では、国分6丁目4の桜井3丁目1との境になり、今昔マップから今治 明治32年測図 大正14.6.30発行で見るとここになります。

四国街道上に領境石を建てたのならば、越智郡地図 地誌付でいう西條往還上の、古国分村(今治領)と桜井村の間には領境石は建たなかったのでしょうか? 西條往還上の領境は、今昔マップから今治 明治32年測図 大正14.6.30発行で見るとここになります。


ここから先は一応検討しましたので、覚え書きです。越智郡地図 地誌付から上記の山人橋・口田橋、国分と旦(江戸時代は公料)の村境などを検討しますと、現在の国分6丁目6番の東南側半分・同5番と郷桜井1丁目1番・2番の酒井川以西は旦村のはずですが、現在の旦は予讃線の東には越えて来ておらず、大川及び酒井川には接していません。予讃線を限りに区画整理があっているのでしょうか?

同地図では村境の黒線は、口田橋から朔日溝に掛けて、四国街道の赤線と並行して走っています。村境が四国街道を二分しているならば、領境は国分(今治領)と桜井(公料)ではなく、国分と旦(公料)になり、越智郡地図 地誌付で見る口田橋東詰がこの領境石の原位置になるでしょう。今治 明治32年測図 大正14.6.30発行で見るとここになりそうです。(街道上が領境になるオンラインの場合、道の両側ともに「是より西<正確には北西ですが>は今治領」と言える場所まで下げて、領境石を建てたでしょう。)

これは微妙なところで、村境が道中央ではなく、川中中央ならば四国街道は国分村の内です。

旦と国分の間の、村境の黒線は四国街道の赤線と被っていませんので(同地図の九四郎橋から九条北橋までは、黒線と赤線が被っている)、どうやら国分・旦の間の村境は川を基準としており、四国街道は国分村の内と判断しました。
備 考
 馬越でわざわざ「文字が可愛い」と書いたのはこの石の文字との比較のためで、近接(同一郡内)ですが筆跡が全く違います。
サイズ
高さ 190×横 25×奥行 25.5(cm) 花崗岩


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西條領境石
西條領境石