文 字
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表) 郡(らしき文字の一部) 境 |
右) (上部欠損/文字面剥離) 文字らしきもの一文字 |
左) (上部欠損) 北 風 早 郡 |

グレーの薄い片が剥離したもの


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場 所
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粟井坂 河野通清供養塔敷地内。明治13年に粟井新道を掘削するまでは、この道しかなかったようです。和気郡堀江村(松山市堀江町)と風早郡小川村(松山市小川)との境。ほぼ原位置なのでしょうが、河野通清の供養塔の敷地を造成した際に、若干はいじられているでしょう。
愛媛県立図書館デジタルアーカイブから風早郡地図(年不詳ながら明治以降)で見ると、風早郡の一番西 海沿いに小川村が見え、その一番西に字久戸があり、郡境に赤○に×印の名勝地が描かれています。これが河野通清供養塔でしょう。
今昔マップから堀江 明治36年測図 明治38.9.30発行で見ましたが、さすがに道は描かれていません。 |
備 考
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地中部が露呈しており、境石本来の現存部は123cm。
和気郡側と言われる左面の文字ですが、「二」に見える下の横棒が、露呈部を除いた本来の境石の下部から55cmのところにあります。左面の「早」の「十」の横棒が同じく55cmです。和気郡の「気」だとすると三画目・四画目あたりでしょうか。
私は本来、全ての文化財は原位置もしくは原位置に近いイメージの場所へとの考えですが、この石はもうダメです。なにもしなくてもぽろぽろ剥離している状態で、あと数年で一文字だけかろうじて残っている文字らしきものは見えなくなってしまうでしょう。早急に保護し、博物館(資料館)でガラスケース越しにしか見られなくなるのも仕方がないことです。 |
サイズ
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高さ 138(123)×横 19×奥行 18(cm) 砂岩 |