伊予国

松山領 領境石

山路
文 字
 従 是 西 松 山 領
 
場 所
 現在は今治市山路字西谷304番地の厳島神社に。

現在の今治街道でいうと、山路口バス停(今治市山路388−3先)の交差点で、山路(野間郡山路村/伊予松山領)
は馬越(越智郡馬越村/今治領)と境を接しています。その街道上の境に、馬越の今治領境石と対になって建っていたのでしょう。

この山路の松山領境石が建っていたであろう場所から、今治城があまりにも近いのでびっくりしました(直線で2.4Kmほど)。国・領境石から相手の城が見える距離というのはあまり記憶にありません。 兄弟(を祖とする)だから気にならなかったのか、兄弟だからこそ嫌だったのか。それぞれ数基ずつしか現存しない今治と松山の領境石が、ここにあることがヒントかもしれません。

現代のように高層建物が建て込んでおらず、例えば長門国野坂の峠の上から石見国津和野城までは一里(4km)ですから、実際は津和野城を見下ろせるのですが、半里ならば手に取るような近さでしょう。

2023/03/01追記

今昔マップから波止濱 明治31年測図 大正14.3.30発行で見るとこの場所になります。ちょうど野間郡(山路村)と越智郡(馬越村)の境になりますので、愛媛県立図書館のデジタルアーカイブから越智郡地図 地誌付(年不詳ながら明治以降)で見てもわかりづらく、越智郡地図 地誌付で見た四方見山の、海禅寺(山方町2丁目甲1167)と大己貴神社(馬越域だが現在は見当たらず)の間にある赤の点線(村境)は、日吉村と馬越村の境です。(馬越村が浅川を越えて四方見山へ張り出している<山への利権は大切なものです>。)

越智郡地図 地誌付で見える浅川沿いの今治往還が、野間郡 地誌付(同じく年不詳)で見る山路村への今治往還に繋がり、今治往還の北、山の中腹に厳島社(この領境石の現設置場所)と瑞泉寺が見えます。
備 考
 下部折れ補修。折れの下で剥離が、上部では割れが始まっています。



現在の全長は210cmですが、地中部露呈のため境石としての高さは200cm。

松山の境石の特徴は、郡境石も含めて砂岩で作ってあることでしょう。そのため物によってはかなり傷んできています。また、頭が尖っておらず丸いのも特徴といえます。(頭部欠損の粟井坂の郡境石を除く。)

  
   山路                    明穂                      和泉(郡境石)

サイズ
高さ 210(200)×横 24.5×奥行 20(cm) 砂岩

明穂
文 字
 従 是 西 松 山 領
  
場 所
 西条市小松町明穂、国道11号小松街道沿いに。松山が周敷(周布)郡に1町24村+相給の吉田村を持っており、周敷(周布)郡明穂村(西条市小松町明穂)は松山領でした。明穂村の東隣り、同郡大頭村(同市小松町大頭)は小松領となります。

今昔マップから西条町 明治39年測図 明治41.4.30発行で見たここになります。
備 考
 下部欠損。セメントで土台を作ってある。

人生最大の10連休に、愛媛行きを思い立ち事前に検索したところ、この領境石のありかをピンポイントでは特定できませんでした。大通り沿いだとはわかったので、国道11号をGoogleのストリートビューで西進していったところ、ちゃんと写っていました。

場所が特定できたと喜ぶと同時に、こうして画像で見られるならば、わざわざ行く必要があるのか?という疑問もありました。ところが現地で確認すると下部欠損でした。これは私が事前に目にした情報にはなかったことです。(その情報を踏まえて画像を見ると、下部がコンクリートであることは一目瞭然なのですが。)

下部欠損であることを確認できただけで、今回愛媛に行った甲斐があったといえます。

旧高旧領取調帳データベースによる周敷郡内松山領(明治初め)
三津屋村・池田村・願連寺村・丹原町・今井村・久妙寺村・川根村・高松村・関屋村・北田野村・田野村上分・長野村・石経村・来見村・臼坂村・千原村・滑川村・明河村・鞍瀬村・楠窪村・湯屋口村・志川村・寺尾村・安井村・明穂村・吉田村(小松領との相給)
サイズ
高さ 173(セメントを除く現存部)×横 27×奥行 26.5(cm) 砂岩

郡境石

久米郡/温泉郡(和泉北)
文 字
 表)   郡 境
 右) 従 是 南 久 米 郡
 左) 従 是 北 温 泉 郡
 
原位置はカーブミラーの左横あたりか?       

 
 
場 所
 現在は松山市の和泉北公民館前に。原位置は数百m離れた温泉郡小栗村(2丁目4番)と久米郡和泉村(北2丁目14番)の境。石手川から導水のためであろう小川を境としたようですが、その川はもうほとんど暗渠されています。

2023/03/01追記

愛媛県立図書館デジタルアーカイブから温泉郡地図 地誌付(年不明ながら明治以降)で見ると、松山城の西から南へ道が伸びており、大洲往還(現在の県道326号)となっています。同街道沿いに小栗八幡神社(雄郡神社/松山市小栗3−3)が見えます。その少し南が郡境となり、郡境の川に掛かる橋は和泉橋となっています。

今昔マップから松山 明治36年測図 明治38.12.28で見ると原位置はここになります。
備 考
 地中部が露呈しており、本来の境石としての高さは163cm。
松山の郡境石はすべてこの銘の書き方です。以下、「郡境」を表とし、文字がない面を裏としています。
サイズ
高さ 182(163)×横 18×奥行 19.5(cm) 砂岩

和気郡/風早郡(粟井坂)
文 字
 表)   郡(らしき文字の一部) 境 
 右) (上部欠損/文字面剥離) 文字らしきもの一文字
 左) (上部欠損) 北 風 早 郡 
 
グレーの薄い片が剥離したもの         

 


←和気郡へ     粟井坂    風早郡へ→
場 所
 粟井坂 河野通清供養塔敷地内。明治13年に粟井新道を掘削するまでは、この道しかなかったようです。和気郡堀江村(松山市堀江町)と風早郡小川村(松山市小川)との境。ほぼ原位置なのでしょうが、河野通清の供養塔の敷地を造成した際に、若干はいじられているでしょう。

愛媛県立図書館デジタルアーカイブから風早郡地図(年不詳ながら明治以降)で見ると、風早郡の一番西 海沿いに小川村が見え、その一番西に字久戸があり、郡境に赤○に×印の名勝地が描かれています。これが河野通清供養塔でしょう。

今昔マップから堀江 明治36年測図 明治38.9.30発行で見ましたが、さすがに道は描かれていません。
備 考
 地中部が露呈しており、境石本来の現存部は123cm。

和気郡側と言われる左面の文字ですが、「二」に見える下の横棒が、露呈部を除いた本来の境石の下部から55cmのところにあります。左面の「早」の「十」の横棒が同じく55cmです。和気郡の「気」だとすると三画目・四画目あたりでしょうか。

私は本来、全ての文化財は原位置もしくは原位置に近いイメージの場所へとの考えですが、この石はもうダメです。なにもしなくてもぽろぽろ剥離している状態で、あと数年で一文字だけかろうじて残っている文字らしきものは見えなくなってしまうでしょう。早急に保護し、博物館(資料館)でガラスケース越しにしか見られなくなるのも仕方がないことです。
サイズ
高さ 138(123)×横 19×奥行 18(cm) 砂岩

風早郡/野間郡(窓坂峠)
文 字
 表)   郡 境  
 右) 従 是 南 風 早 郡
 左) 従 是 北 野 間 郡
  
場 所
 現在は浅海本谷側の窓坂池のほとりに。風早郡浅海本谷村(松山市浅海本谷)と野間郡濱村(今治市菊間町田之尻)との境です。現在の今治市側の西端の地名は今治市菊間町田之尻ですが、江戸時代には単独の村として確認できません

2023/03/01追記

愛媛県立図書館デジタルアーカイブから風早郡地図(年不詳ながら明治以降)で見ると、風早郡の一番東に浅海本谷村が見え、山側をたどる道が四国街道、海沿いを歩く道が四国下街道と描かれています。山側を通る四国街道が窓坂峠道でしょう。

同じく愛媛図書館のデジタルアーカイブから風早郡実測図(年不詳)で見ると四国下街道はありませんので、こちらの方が少し古いのかもしれません。(ガードレールも舗装路もない時代、海沿いは危険しかなく、人は基本的に山沿いの道を伝います。)

野間郡地図(同じく年不詳)で見ると、窓坂峠からは、谷を縫いながら長坂川沿いに出て、濱村に下っていく道筋が描かれています。

今昔マップから波止濱 明治31年測図 大正14.3.30発行で見ると、窓坂が主要道となっており、海沿いの道(四国下街道)は「荷車の通ぜざる道」です。この地図で見る限り、ちょうど峠付近で道がくねっており、両郡が南北となるのでしょう。そして、窓坂は荷車の通れる道だったということになります。

菊間町田之尻が江戸時代にどこの村に属したかですが、国立古文書館のデジタルアーカイブ天保の伊予国絵図から、野間郡濱村・長坂村のいずれか、最大西山村までと考えていたのですが、いろいろ検索しても直接の答えが出て来ません。

菊間町田之尻781に砥鹿神社がありますが、愛媛県神社庁のHPでは田之尻の砥鹿神社の解説に「砥鹿神社は全国に数社しかない」と記されています。一方で角川地名大辞典の浜村(近世)欄には、浜村には砥鹿神社があるとされています。

検索する限り、愛媛県に砥鹿神社は菊間町田之尻の一社しかありません。よって、田之尻を濱村i域とし、この欄は内容を一部書き換えています。
備 考
 現在の地図で言えば、松山市と今治市の境は東西になります。この郡境石が示す南北というのはかなり特殊な位置関係ですから、窓坂峠をこの目で見なければいけないと急に思い立ち、その気はなかったものですからなんの予備知識もないまま、早朝5時半から道を探しました。

窓坂池の堤を上がっていく道は、すぐに鉄柵があり進入禁止でした。引き返してみかん畑の本道であろうコンクリート道を南へ上がっていきましたが、菊間町からは離れるばかりで、最終的に海を見下ろす絶景があるだけでした。今度は窓坂池の下の農道を上がっていきましたが、この道も途中で2本に分かれ、どちらも尽きます。けもの道をさらに少し入りましたが、その先に、廃道とはいえ道の気配はありませんでした。

道は必然ですから必ず気配があるはずです。菊間町に抜けるならこの方向しかないという藪を、イノシシに聞きながら(けもの道をたどりながら)漕いでいると、突然コンクリートの農道に出て、その先に窓坂峠入口の案内板がありました。ここまでで1時間以上山中をさまよっています。

窓坂峠の一番高いところを勝手に頂と決めましたが、確かに若干ですが、道は(浅海本谷から来ると)北西から南東に向かって抜けています。

そして、菊間側を見れば、すぐそこまでコンクリートの農道が・・・

車を浅海本谷側に置いていたので、菊間側には下りず戻ってきましたが、せっかく見つけたコンクリート農道は途中で途絶え、結局は下りも藪こぎでした。最終的に窓坂池の際に下りた来ましたが、そのまま歩いて行くと5月の空を映した池に吸い込まれそうな気になりました。その景色こそが窓坂なのでしょう。

結論として、浅海本谷側からは無理です。


窓坂峠入口

 
窓坂峠(野間郡側から風早郡を見る)
サイズ
高さ 176(160)×横 19×奥行 19(cm) 砂岩

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今治領境石
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