丹後国絵図に見る国境石と国境の小名

 国境石を検討する史料として、国絵図に見える国境を見ていきますが、丹後国及び若狭国は元禄の国絵図が欠落しているようで、国立公文書館デジ
タルアーカイブでは公開されていません。天保の丹後国絵図を中心に見ていくことになります。


丹後・若狭境 天保の若狭国絵図
 
 丹後・若狭国境を北の海沿いから見ていきます。まずは国境とは関係がないのですが、馬立嶋(島)に「隼之巣所」(ハヤブサの巣どころ)と現代の観光MAPのような記載があります。実際に鷹狩に使う鷹の雛をここで捕獲していたようです。

〇甲岩(丹後国絵図)/かぶと岩(若狭国絵図) 丹後 若狭 国境。

 丹後国絵図では陸上に描かれているようにも見えますが、丹後域とは陸続きになっていませんので島のことなのでしょう。若狭国絵では島として描かれています。正面崎の先の岩が甲岩なのでしょうが、航空写真(Google MAP)で上から見ると屏風のような横長い島に見えて、兜には見えません。

〇加佐郡田井村(田辺領<以下同>/舞鶴市字田井)と大飯郡上瀬村(小浜領<以下同>/大飯郡高浜町)を結ぶ往還が描かれています。

 田井と上瀬を結ぶのはこの道のようです。角川地名大辞典 福井県高浜町上瀬村(近世)には「嘉永年間(黒船来航は嘉永6<1853>年)には小浜藩も海防を厳重にし、上瀬村を仮想上陸地とした」とされており、この場合の仮想相手国はロシアになりますでしょうか。

 「是より栃尾村出口道との間、国境相知らず」。以下丹後・若狭国境の大部分が「国境相知らず」とされています。

〇加佐郡栃尾村(舞鶴市字栃尾)と大飯郡下村(高浜町下)を結ぶ往還があります。

 丹後国絵図では栃尾村と大山村(舞鶴市字大山)の間から、若狭国絵図では下村と下鎌倉村(高浜町鎌倉)の間を結んでいますので、この道が該当するようです。

〇加佐郡登尾村からの往還が2つに分かれ、一つは加佐郡笹部村(舞鶴市字笹部)と大飯郡上鎌倉村(高浜町鎌倉)を結び、もう一つは加佐郡瘤R村(舞鶴市字杉山)と大飯郡山中村(高浜町山中)を結んでいます。

 笹部と上鎌倉を結ぶのはこの道が該当するでしょうか。現代地図で見ると笹部と鎌倉は県境を挟みすぐ近くですが、両国絵図には両村間は四町五十間(約530m)の近さとされています。平凡社日本歴史地名体系 京都府:舞鶴市>志楽地区>笹部には「丹後から若狭に抜ける脇街道にあたっていた」とされています。

 現代地図では笹部に建物が見えませんが、昭和47年に廃集落といいますか、集団移転があっているようです。

 杉山と山中を結ぶのは府道・県道772号線の塩汲峠でしょうか。府道772号線上は登尾域かと思ったのですが、一部登尾と杉山のオンラインになるようです。地理院地図では、杉山と山中をダイレクトに結ぶ結ぶ道も描かれていることを挙げておきます。

 西尾市岩瀬文庫 丹後国大絵図(文化<121815>)年と京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 丹後国大絵図(文化14<1817>)年では、登尾ではなく栃尾村から杉山村及び笹戸(ささべ)村に道が分かれています。両絵図には栃尾村が2つあり、北の栃尾村は若狭国上瀬村とつながっているとされいろいろ混乱していますが、同郡大山村とつながる北の栃尾村が正しくて、若狭国下村とつながり、南の栃尾村は登尾村を指すのでしょう。

 西尾市岩瀬文庫丹後国大絵図と京都大学貴重資料丹後国大絵図は発行年の違いや色付き・白黒の違いはありますが、左上の「名所古哥 天橋立」や左下の距離表などまった同じですので、同じ絵図からの写しとなるものでしょう。

 話は逸れますが、青葉山は東西2座ともに社(青葉神社・西青葉神社)が描きこまれており、弥山権現とされています。

〇加佐郡松尾村(舞鶴市字松尾)と大飯郡今寺村(高浜町今寺)を結ぶ往還。

 府道564号から分かれ今寺とつながる道が該当するでしょうか。平凡社日本歴史地名体系 福井県:大飯郡>高浜町>今寺村には「高浜方面からの松尾寺(舞鶴市字松尾532)参詣道が村内を通る」とされています。

〇加佐郡吉坂(きっさか)村(舞鶴市字吉坂)と大飯郡蒜畠(ひるばたけ)村を結ぶ、やっと峠の名が付されていますが吉坂峠。

 丹後国絵図は大きな自然石の「境石」が描きこまれ「このところ、境石(が)国境」とされています。一方の若狭国絵図では、「このところ、峰を越え国境石あり」とされています。国道27号旧道 吉坂峠。福井県立図書館の若狭・敦賀の絵図(正保年間)で見ると、大きな自然石が描かれ「犬石」とされています。

 平凡社日本歴史地名体系 福井県:大飯郡>高浜町>蒜畠村には「丹後街道沿いの関跡に朽標がある」とされています。吉坂側にも番所があったようです。若州女留関所(広報たかはま2009年11月号のページ15に記載<リンク先はPDF>)

〇加佐郡多門院村(舞鶴市字多門院)と大飯郡上津(うわづ)村(高浜町上津)を結ぶ佐部峠。

 上津は昭和28年に台風で大きな被害を受け廃集落になったようです。佐部峠は祖母谷川の支流沿いに伝っていくこのルートでしょうか。丹波・若狭国境はずっと「相知らず」でしたが、佐部峠に至り「ここより三国嶽(三国岳)の間は山の峰を通り国境とする」旨が両国絵図に記されています。

〇加佐郡多門院村黒府(多門院黒部)と大飯郡関屋村(高浜町関屋)を結ぶ坪峠。

 坪峠は祖母谷川沿いに上り、黒部谷沿いに下るルートが該当しそうです。

〇三国嶽(三国岳)。丹後・若狭・丹波国境。

 2025/06/01

 丹後・丹波境

丹波国絵図にまとめています。(丹波から見ていますので、先に丹波国の村名・後が丹後国の村名になります。)

丹後・但馬境 天保の但馬国絵図

 南から北へ見ていきます。

〇三国嶽(三国山)。丹後・但馬・丹波の三国境。

〇輿佐(丹後国絵図の記載、以下は与謝と記載します)郡雲原村の内 西石(さいし)村(宮津領/福知山市雲原西石)と出石郡大河内(おおごうち)村(出石領/豊岡市但東町大河内)を結ぶ 大河内峠。「坂の内三町三拾間、馬通わず」(丹後国絵図)・「難所」(但馬国絵図)。

 この峠が該当しそうです。

〇与謝郡雲原村(宮津領/福知山市雲原)と出石郡薬王子村(出石領/但東町薬王寺)を結ぶ 〇〇峠。「薬王寺峠ともいう」旨が書かれています(申し候ではないかと思いますが、よく読めませんでした)。但馬国絵図には峠名は書かれておらず「難所 牛馬通わず」とされています。

 現在の府道・県道63号線神懸峠が該当し、最初の〇は「綸」(かん)ではないかと読みましたが、後の文字が「樹」と「掛」の間のような文字に見え、「掛」と言い切れません。いくつかの丹後・但馬古絵図を見ましたが、神懸峠は載っていない(道筋自体がない)絵図が多く、載っていたとしても薬王寺峠として記載されています。

薬王寺峠として記載されている
但馬国絵図
年代不詳
岡山大学池田家文庫
但馬国大絵図
天明7(1787)年
西尾市岩瀬文庫
峠(往還)が掲載されていない
丹後国大絵図
文化12(1815)年
丹後国大絵図
文化14(1817)年
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
丹後国図
詳細不明
聖心女子大学図書館
道はあるが、峠名は記されていない
但馬国図
 丹波・若狭の欄に書きましたが、西尾市岩瀬文庫丹後国大絵図と京都大学貴重資料丹後国大絵図は同じ絵図からの写しと考えています。

〇与謝郡奥瀧村(宮津領/与謝郡与謝野町滝)と出石郡奥赤花村(出石領/但東町奥赤)村を結ぶ 細谷峠。「坂の内三町馬通わず」・(丹後国絵図)・「難所」(但馬国絵図)。

 丹後国絵図で見ると、奥瀧村から西に延びる往還が2股に分かれて、細谷峠と滝峠に向かっていますが、同絵図では細谷峠が川(滝川)沿いの道とされています。

 平凡社歴史地名体系 兵庫県:出石郡>但東町>奥赤花村では「東は大谷を経て丹後国与謝郡滝村の鹿熊に通じていた」とされています。地理院地図には鹿ノ熊の字も見えます。この奥赤花村から大谷を経て鹿ノ熊への道が細谷峠と思われますが、この峠になりますでしょうか。

 国境には関係ありませんが、角川地名大辞典 但東町には、南北朝時代の地名として「太田荘のうち赤鼻村」が記載されており、赤鼻が赤花になったようです。

〇同じく奥瀧村と出石郡口赤花村(出石領/但東町赤花)を結ぶ 瀧峠。「難所」(但馬国絵図)。

 府道・県道701号線滝峠

〇与謝郡加悦(かや)奥村の内 有熊(宮津領/与謝野町加悦奥 有熊)と出石郡中藤森村(ふじがもり)の内 奥藤森村(出石領/但東町奥藤)を結ぶ 新田峠。「坂の内五町牛馬通わず」(丹後国絵図)・「難所牛馬通わず」(但馬国絵図)。

 府道・県道705号線は加悦奥峠と呼ばれているようです。西尾市岩瀬文庫が公開する丹後国大絵図で見ると、加ヤ町−加悦奥の先に新田(村)が見え「新田峠」とされています。新田が有熊となったのでしょうか?そのあたりの詳しいことは分かりませんでした。後の地名では加悦奥に有熊と新田の小字があるとされています。

〇与謝郡三河内(みごち)村(宮津領/与謝野町三河内)と上記奥藤森村を結ぶ 三河内峠。「坂の内弐拾壹町三拾間牛馬通わず」(丹後国絵図)・「難所」(但馬国絵図)。

 両村を結ぶのはこの峠になりますが、三河内から上に村落がなく、牛馬が通わない距離も2Km越と特に険しい峠だったようです。

 但馬国絵図では新田峠(加悦奥峠)と三河内峠は、但馬国内で一つになって奥藤森村へつながるとされています。

〇与謝郡岩屋村(宮津領/与謝野町岩屋)と出石郡中藤森村(出石領/但東町中藤)を結ぶ 温江(あつえ)峠。但馬国絵図には「雪が降り積もれば牛馬は通えない」旨が書かれています。

 府道・県道2号線岩屋峠が該当するのでしょう。現在の岩屋峠は雪が降っても牛馬が通れるように、スノーゲートが架かっているようです。角川地名大辞典 京都府 野田川町 岩屋村(近世)には「但馬街道の関屋には関所が」あった(岩屋村誌他)とされています。また西尾市岩瀬文庫丹後国大絵図では「アツイ峠」とされています。

 丹後側は郡が変わるとともに、両国の境は東西から南北になります。

〇中郡鱒留村の内 大成(おおなる/公料/京丹後市峰山町鱒留大成)と同上中藤森村を結ぶ 沓峠。「坂の内七町牛馬通わず」(後国絵図)/「難所」(但馬国絵図)。

 府道・県道704号線大成峠。同じ府県道ナンバーが振られていますが、現在は車道としてはつながっていないようです。平凡社日本地名体系 京都府:中郡>峰山町>大路村・大成村には「鱒留の集落から南に鱒留川沿いに道があり、但馬国との国境沓(くつ)峠を越えて出石街道に出る」とされています。

 なお、西尾市岩瀬文庫丹後国大絵図では大成が大納とされ、峠は沓掛峠となっています。

 丹後側はまたすぐに郡境になります。

〇熊野郡尉ヶ畑(じょうがはた)村(公料/京丹後市久美浜町尉ケ畑)と出石郡坂野村(出石領/但東町坂野)を結ぶ 太田峠。「坂の内四町馬通わず」(丹後国絵図)/「難所、牛馬通わず」(但馬国絵図)。

 現在の尉ケ畑峠が該当するのでしょう。

 但馬国出石郡の内 矢根銀山付き6ヶ村(太田市場村・唐川村・木村・矢根村<口矢根・奥矢根>及び中山村<の一部か?>)は松平(藤井)家入部時に公料となります(正確には小出家断絶後に出石領すべてが収公され、新たに出石に入った松平家には銀山付き6ヶ村を除いた部分が与えられた)。よって以下は公料同士の境となります。

〇熊野郡市野々村(公料/久美浜町市野野)と出石郡木村(公料/但東町木村)を結ぶ 巣松峠。「坂の内拾六町三拾間牛馬通わず」(丹後国絵図)/「難所、牛馬通わず」(但馬国絵図)。

 西の円城寺峠と隣接してしますが、巣松峠は今はもう道筋が見えません。両村を結ぶ最短ではこのあたりを通りそうです。円城寺峠に向かう道から東別れの道がありますが、この道は尾根を伝い高龍寺ヶ岳へ向かっています。

 国境ではありませんが、木村(公料)と隣りの同郡西野々村(旗本倉見小出氏/但東町西野々)は、「わら谷という境界をめぐる領境争いが起こっており、最終的に寛延3(1750)年に寺社奉行 大岡越前守忠相による裁許を受けて西野々村勝訴となった」角川地名大辞典 京都府 但東町木村・西野々村(それぞれ近世)。ここで大岡裁きに出会うとは。

 〇同上市野々村と出石郡唐川村(公料/但東町唐川)を結ぶ 円城寺峠。「坂の内拾四町三拾間馬通わず」(丹後国絵図)/「難所」(但馬国絵図)。

 巣松峠は牛馬通わずですが、円城寺峠は馬通わずです。

 丹後国絵図を見ると、村名には市野と村の間に「々」もしくは「ゝ」があるように見えますが、隣国の村との距離にははっきりと「市野村」と書かれています。但馬国絵図でも「市野村」とされています。国絵図を仕上げたのは幕府お抱えの絵師ですから、このあたりの細かな村名はわからなかったのでしょう。

 なお、西尾市岩瀬文庫丹後国大絵図では「延成寺峠」とされていますが、読みは「えんじょうじ」で変わらないのでしょう。

〇熊野郡布袋野(ほたいの)村(公料/久美浜町布袋野)と出石郡奥小野村(出石領/豊岡市出石町奥小野)を結ぶ 駒返峠。「坂の内八町馬通わず」。

 角川地名大辞典 兵庫県出石町奥小野村(近世)には「駒返峠は馬もその険しさに恐れをなして、後ずさりした」と峠の由来が記されています。日本歴史地名体系 京都府:熊野郡>久美浜町>布袋野村には「南に山が広がり、駒返峠を越えると但馬国になる。古来より但馬出石とは交流が深かった」とされています。

〇同上布袋野村と出石郡奥野村(出石領/豊岡市奥野)を結ぶ 伊佐見峠。「坂の内四町馬通わず」(丹後国絵図)/「難所」(但馬国絵図)。

 丹後国絵図を見ると布袋野村から国境に延びた道が二筋に分かれ、一方は駒返峠へ、もう一方は伊佐見峠へ向かいます。伊佐見峠は府道706号線・県道703号線が該当するでしょうか。

〇熊野郡金谷村(公料/久美浜町金谷)と同上奥野村を結ぶ 佐岡峠。「坂の内拾六町牛馬通わず」(丹後国絵図)/「難所、牛馬通わず」(但馬国絵図)。

 佐岡峠は次の大坂峠と一緒に考えます。

〇熊野郡須田村の内 小屋谷(公料/久美浜町須田)と同上奥野村を結ぶ 大坂峠。「坂の内六町三拾間牛馬通わず」(丹後国絵図)/「難所」(但馬国絵図)。

 日本歴史地名体系 京都府:熊野郡>久美浜町>須田村には「西の大峠を越えて但馬国に通じる」とされています。

 佐岡峠も大坂峠も現代地図から両町をつなぐ明確な道を見つけられません。また、須田村の内 小屋谷に関しても資料は見つかりませんので、早くに須田村と合流したのでしょうか。そもそも「小屋」谷ですから、山仕事用の簡易な建物が数戸建つだけの集落だったのかもしれません。

 丹後国絵図を見ると、大坂峠は川沿いに上ってきますので、川上谷川の支流(河川名はわかりませんでした)沿いに上って来て峠を越える道筋が、今はもう明確にはつながっていませんが、該当するのではないかと推測しました。そうすると佐岡峠は伊佐見峠と大坂峠の間になりますが、金谷は西金谷といわれる細長い領域を国境線まで持っており、この307.2mピークの南あたりが金谷域になります。たぶん、金谷からこのあたりに上がって来て、この道をつたい奥野につながるのでないかと推測しています。

 日本歴史地名体系の京都府:熊野郡>久美浜町>金谷村には「東金谷から隣接した東畑を通って福山城下に通じる街道があった」とされていますが、これは福知山方向ですから巣松峠・円城寺峠方面でしょうか。

〇熊野郡口谷(公料/久美浜町三谷口三谷)と出石郡穴見市場(出石領/豊岡市市場)を結ぶ 田渡峠。「坂の内〇町弐拾間馬通わず」(丹後国絵図)/「難所、牛馬不通」(但馬国絵図)。但馬国絵図では「穴見市場村より口谷まで」となっています。

 現在の三谷には口三谷と奥三谷の2つの集落があるようですが、丹後国絵図のいう口谷は口三谷を指すようです。地理院地図では口三谷からと奥三谷から、国境に向けて2筋の道が見えますが、田渡峠は口谷の脇を通ると描かれています。地理院地図では口三谷から市場への峠道が今もつながっていることから、こちら側が田渡峠ではないかと推測しました。

 なお、西尾市岩瀬文庫から但馬国大絵図には「タワタリ峠」として記載されています。

 但馬は郡が変わり城崎郡になります。城崎郡は豊岡領でしたが、第4代領主の京極高寛が享保11(1726)年にわずか10歳で早世し、京極家はいったん無嗣改易、のちに弟に家督を継ぐことが許されますが、35,000石から15,000石と大きな減封となり、城崎郡の大部分は収公され、以下の国境は享保11(1726)年以降は公料同士の国境となります。

〇熊野郡馬地(まじ)村枝郷 奥馬地村(久美浜町奥馬地)と城崎郡馬路村(豊岡市栄町)を結ぶ 馬地峠。

 「坂の内三町四拾間牛馬通わず」(丹後国絵図)/「難所」(但馬国絵図)。奥馬地と馬路をつなぐのはこの峠道になります。文字は違えど両「まじ」なので、古い地名なのでしょう。

〇熊野郡馬地村枝郷 河梨(こうなし)村(久美浜町河梨)と城崎郡下宮(しものみや)村(豊岡市下宮)を結ぶ 河梨峠(丹後国絵図)/下宮峠(但馬国絵図)。

 但馬国絵図には「この坂は雪が降り積もれば牛馬が通れない」旨が書かれています。国道178号線旧道の河梨峠。西尾市岩瀬文庫丹後国大絵図(天明7<1787>年)では河梨峠と下宮峠が並記されています。この道は丹後街道といわれる往還の一つとされています。

〇熊野郡久美濱村(久美浜町久美浜)と城崎郡三原村(豊岡市三原)を結ぶ 三原峠。「難所」(但馬国絵図)。


現在の三原峠は切通してあります(丹後から但馬を見る)。

 府道県道11号線三原峠。豊岡市三原の民家には「從是西豊岡領の領境石が移設保存されています。上記のように三原村は豊岡領だったが、享保11(1726)年の減封を受けて公料となっています。

〇熊野郡湊宮村枝郷 蒲井村(久美浜町蒲井)と城崎郡田結(たい)村(豊岡市田結)を結ぶ 萱野峠 田結峠とも申し候(背景絵と重なって読みにくいですが、意味としてはそういうことが書かれているでしょう)。「坂の内三町牛馬通わず」(丹後国絵図)/「難所、牛馬通わず」(但馬国絵図)。

 兵庫県道122号線からの峠道が該当するのでしょう。

 「福嶋の磯と称される海岸線には、西嶋・月嶋・聖坊などの岩があり、その西方の丹後谷あるいは但馬谷と称される谷が両国の国境をなしていた」(角川日本地名大辞典 久美浜町蒲井村<近世>)。
  2025/06/01


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