あとがき




 私と白水の出会いは、糸島地区の境石を共同研究していた前田氏に案内された、怡土城址で目にした大きな石碑だった。正直な話、近代のしかも軍には全く興味がない私は、そのような人物がいたとことさえ知らなかった。

 前田氏から「白水中将は多分筑紫地区の出身でないか?」と聞き、少し調べてみると、その人こそが「坂の上の雲」の中でも特に私の印象に残っている、あの参謀懸章事件の主人公だとわかり、一気に興味を引き寄せた。

 以来、(途中何度も中断をはさみ)2年ほど白水中将のことを調べてみたが、陸軍中将という極官で、尼港事件に中心人物としてかかわってもおり、もう少し史料が残っているのかと思っていたのだが、探し出せた史料は思いのほか少なかった。

 特にシベリア出兵関係の史料は、明治維新以降日本が初めて負けた(勝ちを得ることができなかった)戦争であることもあり、日清・日露戦争のそれと比べると驚くほど少ない。

 今回、非常に断片的な史料しか見つけることが出来ず、白水の家庭生活等には全く踏み込むことができなかったが、どこかにまとまった史料がないか、今後、もう少し探してみたいと思っている。

 また、私の目にすることが出来た史料をもって「白水は留学も武官も教官もしていない。」と結論付けているが、これも探せば間違った情報である可能性がある。というより、これらをやらずに中将にまで進級したのが私には信じられない。このあたり、今後新たな史料が出てくれば補足・改定したいと思う。


 私にとって白水淡の最大の魅力は、この後顕著化していく陸軍の暴走に繋がるような行動を現役中には一切取らず、その一生を有能な軍人・部隊指揮者として送ったことである。

 もちろん、軍閥に組み込むとすれば、陸大閥であり、乃木に連なるものとして長州閥ということになるのだろうが、政治や教育に携わらなかった白水には、派閥に依って、または陸軍という存在に依って、何をかを起こそうとした痕跡は、少なくとも現役中には微塵も認められない。

 戦前の軍隊には陸海合わせて多くの将官がいる。みんなそれぞれ個性的で、人間として面白い人たちである。その中で最も地味といえるかもしれない白水が中将にまで昇進し、今を生きる私達の目に触れる、そして多分何百年後にも残っていくような、驚くほど多くの墨蹟を残しているのは、少し不思議なような気もする。

 尚、白水淡の名の読み方について、地元春日市の史料では全てに「あわじ」とルビが振ってある。私が唯一お会いできた白水のご親戚(白水の母の兄弟のご子孫)も「あわじ」と呼ばれる。

 一方、陸軍関係の史料には「あわし」と「し」が濁っていない。書生としてそばにいた白水敬山の「自屎録」も「あわし」と濁っていない。また、大正8年11月1日付東京朝日新聞の記事()には「たん」とルビが振ってある。「たん」という読み方も、陸軍関係の史料には散見されるので、間違いではないようである。

 ここから先は私の想像だが、多分親からもらった名は「あわじ」であろう。しかし、本人がいつの頃からか「あわし」と読ませたのであろう。(「ごんべい」がいつの間にか「ごんのひょうえ」になったように。)

 漢詩の素養があって禅に傾倒した白水のことである。音のきれいな「あわし」を選んだのかも知れないし、軍人として自分の人生を、淡しいものであるべきと覚悟していたのかも知れない。

 一方、地元では、子供の時の名前のまま「あわじ」として伝わっているのであろう。

 「たん」は軍内部で呼ばれていた通称のようなものであろう。将軍が「あわし」さんではいまいち迫力がない。

 ここでは、一時期書生として白水のそばに付き、白水自身が名乗るのを幾度となく聞いたことがあるだろう敬山の読み方に従った。


 今回、このホームページを作るに当って、いろいろご協力いただいた糸島地区郷土民俗史研究会の前田氏・筒井氏、那珂川町郷土史研究会の高橋さん、そして忙しい中お会いいただいた白水のご親戚の方に感謝したい。

 最後に一度だけ言う。戦争は嫌いだ。できれば誰も殺したくないし、誰からも殺されたくないと思っている。



製作者のデータ
 岡邊 眞 (おかべ  しん)  福岡県福岡市南区在住  1964年生まれ
  他の研究:筑前国境石散歩 (江戸時代の国境石に関する研究)

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