三国境石(筑紫野市・小郡市・三養基郡基山町)


☆三国境石  筑前側傍石  筑後側傍石  肥前側傍石(紛失)

三国境石
文 字
 三國境石  (三方に書いてある)


    
筑前向きの文字        筑後向きの文字        肥前向きの文字 
場 所
三国峠(アクアフォーレの裏の丘の上)にあります。旧長崎街道・三国峠ルートになります。アクアフォーレ内の国境石の横を通るルート(石畳があります)が新道・三国峠が旧道だそうです。
備 考
珍しい円筒形の三国(筑前・肥前・筑後)を示した国境石です。

石の周りの三方に穴が見えますが、ここに筑前・肥前対馬領(対州領)・筑後を示す傍石が建っていたそうです。

この石の建立は文化2(1805)年11月23・24日(御境石建覚書)です。

以下、「御境石建覚書」を参考にしますと、

ここには従来「割り塚」(盛り土)をして3国境としていたが、その塚が崩れ始めたため三国で話し合って石を建てたこと。

筑後側の傍石の「東南」という表記でもめたこと。

「三国境石」の銘はそれぞれ自国の分を持ち寄ったこと。

円形にするのは筑前側発案であったこと。

その他石工の賃金にいたるまでこと細かく書かれています。

2023/04/01
国立公文書館デジタルアーカイブから、天保の筑前国絵図で見ると、御笠郡原田村の内 前小原村の先に、三国境として三國山の小名が見えます。また、その東(左)に筑後境の小名として大浦・鎧田の小名が見えますが、それぞれ筑前國續風土記の国境の小名に記載された小字です。
サイズ
高さ 124×直径 27 (cm)

筑前側傍石
文 字
表)  是 北 (筑 前 國)
左) 御 笠 (郡 原 田 村)
右) 文化ニ(年乙丑七月) ※( )内資料転載
  
 
場 所
アクアフォーレ駐車場側から裏山の三国峠(旧道)に上がってすぐです。
備 考
この石は三国境石傍石です。三国境石と同時に建てられたもののようです。この石から三国境石に向かって引いた線が国境となります。(筑後国御原郡三沢村の石も同じ)文化2年は1805年。

以上は
「三国御境割塚筑前御境枯松跡石建方掛略記」「三国境石建成就之図」(以上 梁井家文書)「三国境石絵図取替証文控」(文化2年12月)を参考にしましが、文語ですし達筆ですので間違いがあったらごめんなさい。
サイズ
高さ 34×横 18×奥行 16.5(cm)

筑後側傍石
文 字
表) 従 是 東 南 筑 後 國 
左) 御 原 郡 三 澤 村
右) 文 化 ニ 乙 丑 七 月


 
場 所
三国境石より三国峠ルートを少し下ったところです。
備 考
文化2年は1805年
サイズ
高さ 64×横 18×奥行 17(cm)


基山町教育委員会にお聞きしたところ、肥前側の傍石は、
20年ほど前に行方不明になってしまったそうです。


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