東峰村(小石原)・添田町1〜15
1
文 字
筑前)
從
是
南西
筑 前 領
豊前) 従 是
北東
豊 前 小 倉 領
筑前 豊前
筑前 豊前
場 所
行者堂(東峰村小石原729−11)の向かい側に権現様の祠がありますが、権現の裏山のピークにあります。
備 考
国立公文書館デジタルアーカイブから
天保の筑前国絵図
には、上座郡小石原村と豊前の境に行者堂が掲載されて
います。
サイズ
筑前)高さ 74×横 27×奥行 26(cm)
豊前)高さ 79×横 23×奥行 24(cm)
2
文 字
筑前)
從
是 西 筑 前 領
豊前) 従 是 東 豊 前 小 倉 領
上)豊前 下)筑前は文字面を横に向けて倒れる
筑前 豊前
場 所
bPから北へ下った斜面の途中にあります。
備 考
旧営林署(現森林管理署)の杭として使われていたのですが、位置がずれてしまったため営林署によって引き抜かれ
て、放置されているそうです。
筑前側は20年前と比べるとかなり埋まってしまっており、文字が半分しか見えなくなっていました。
豊前石の、本来は地中になる部分(向かって右)には、石を加工した時の矢跡が見えます。
筑前石13
等にも矢跡があるのですが、筑前石のそれに比べると小さな矢跡です。
参考に現代の石割と矢跡です。現代ならばセリ矢を打ち込む穴は電動ドリルで開けますが、江戸時代はその作業もノミでやっていたはずです。(災害ボランティアの素人作業なので、あまり上手ではありません。)
サイズ
筑前)高さ 113(72)×横 20×奥行 26(cm)
豊前)高さ 142(83)×横 23.5×奥行 埋もれているため未計測(cm)
本来は地中部なる部分を含めて全景をさらしており、( )内は私が地表部を推測した数値です(地中部になると思われ
る部分は若干粗削りです)。
3
文 字
筑前)
從
是 西 筑 前
以下不明
豊前) 従 是 東 豊 前 小 倉 領
豊前 筑前
筑前 豊前
場 所
備 考
行者杉を始めとする大杉の林の中にあるからでしょう、20年前よりも苔むしていましたので、参考のために以前の画像も掲載しておきます。
筑前 豊前
サイズ
筑前)高さ 55×横 25×奥行 22(cm)
豊前)高さ 64×横 26×奥行 19(cm)
4
文 字
筑前)
從
是 西 筑 前 領
豊前) 従 是 東 豊 前 小 倉 領
豊前 筑前
筑前 豊前
場 所
鬼杉と言われる大杉の横に建っています。
備 考
サイズ
筑前)高さ 76×横 26×奥行 26(cm)
豊前)高さ 84×横 23×奥行 14(cm)
5
場 所
国立公文書館デジタルアーカイブから
天保の筑前国絵図
には、上座郡小石原村と豊前国 田川郡落合村の内 長谷
(村)を結ぶ国境の道が描かれています(小石原から長谷まで二里二十町九間<ちょうど10km>)。
筑前・豊前共にここに30cm角々かつ基礎石付きの境石を建てていることから、5と6の間の道が筑前國續風土記拾
遺 上座郡小石原村欄のいう「彦山(英彦山)往還」に該当するのでしょう。長谷峠(国道500号線)の元になった道と
なるのでしょうが、この道は現在は、直接は添田町につながっていません。
備 考
上記の
天保の筑前国絵図
には、小石原村の豊前国境に「此所国境杭有」と記載があり、ここに象徴筑前国境石が建
っていたことが書かれています。
bTと
bU
はどちらも基礎石のみが現存していすが、bTが花崗岩・
bU
は凝灰岩で出来ています。この地域に建って
いる国境石は、筑前側は花崗岩・豊前側は凝灰岩で統一されていますので、bTが筑前側の基礎石・
bU
が豊前側の
基礎石と思われます。
私は
bU
の豊前基礎石の加工具合からして、bP〜4・bV〜28の実務境石とbT・
bU
の象徴国境石は年代が違う
のではないかと考えています。あるいは
烏尾峠
のように、はじめは「筑前領」で建てたものを、のちに「筑前國」に改めら
れた可能性もありますが、なにせ現物がないため想像でしかありません。
筑前國續風土記拾遺には「花棚」が「町(国道500号・211号
小石原交差点の周りに字上町・下町
)の東八町(約90
0m)ばかり、彦山(英彦山)往還の路傍にあり」とされています。
天保の筑前国絵図
には彦山往還沿いの国境に、国境
杭とともに花棚の小名(小字)が書き込まれています。筑前國續風土記の
国境の小名
の「花棚」及び
筑前国郡絵図上
座郡
の「上花棚」は、「あかにた」と「大日嶽」の間にありますので、この花棚よりも南の場所です。(「上花棚」は
天保の
筑前国絵図
にも掲載あり。)
サイズ
外寸 81×81・内寸31×31(cm)
6
文 字
上部欠損) 倉
(と思われる文字の一部)
領
裏面/左面(文字がある面を表として
場 所
国立公文書館デジタルアーカイブから
天保の豊前国絵図
には、落合村の内 長谷村から筑前国 小石原村への道が
描かれ、国境に「此所国境杭有」とされています(筑前国絵図と同じく、両村間の距離は二里二十町九間)。
備 考
現在の行政境杭から、
bT
の筑前基礎石とbUの豊前基礎石を結ぶ線が国境線(現代の町村境)だったと思われま
すので、現在この竿石は若干間違った場所(筑前域)に建っているようです。
(精密計測ではありませんが)竿石のサイズが29cm角に対して、基礎石の内寸は31.5cmもあります。竿石の地中部
が粗仕上げで膨らんでいる可能性がありますので、現在目に見える地上部だけでは合う合わないは判断できないでし
ょう。
また、豊前側基礎石の加工具合からして、bP〜4・bV〜28の実務的国境石と6の象徴的国境石と思われるもの
は、製作年代が違う(象徴国境石が後)ような気がします。
6
2
7
上記のようにbUの竿石と基礎石のサイズに若干疑問があり、この竿石と基礎石が1セットで豊前側象徴境石だったと確定させることに躊躇しますが、bUの竿石の文字は、他の豊前境石(比較的文字が読みやすい
2
・
7
を使いましたが、bP〜4・bV〜28の豊前側石の銘は同じ筆跡と判断しています)と比べると、あきらかに筆跡や彫りの深さが違います。
サイズ
竿石) 高さ 82×横 29×奥行 29(cm)
基礎石) 外径 76×76・内径31.5×31.5(cm)
国境石7から見た豊前基礎石(6)と筑前基礎石(5) (北から南を見る)
筑前基礎石(bT)と豊前基礎石(bU)の間が切り通しになっています(切り通したのは近代になってからか?)。この道が
天保の筑
前国絵図
・
天保の豊前国絵図
に描かれた、筑前国上座郡小石原村と豊前国田川郡落合村の内 長谷村を結んだ国境の道になると思
われます。
それぞれの象徴国境石は、文字面を往還に向けて建っていたはずですが、基礎石が動かされていないとするならば、豊前石は往還に
対して正対ではなく、若干文字面が相手領向きになるのかもしれません。(実務国境石はそれぞれ文字面を自国に向けて建ててありま
す。)
豊前基礎石と国境石bVの間で、画像右端に白い現代杭と目印のピンクテープが打たれているのが見えます。このあたりはかなり国
境線(現在の郡・町村境)がジグザグしているようです。
7
文 字
筑前)
從
是 西 筑 前 領
豊前) 従 是 東 豊 前 小 倉
豊前 筑前
筑前 豊前
場 所
備 考
筑前側の石には、営林署(現森林管理署)が境界の目印として付けた「山」印が刻まれています。
サイズ
筑前)高さ 62×横 25×奥行 22(cm)
豊前)高さ 66×横 31×奥行 20(cm)
8
文 字
筑前)
從
是 西 筑 前 領
豊前) 従 是 東 豊 前 小 倉
境目杉
筑前 豊前
場 所
境目杉と言われる大杉の横に建っています。
備 考
サイズ
筑前)高さ 78×横 26×奥行 20(cm)
豊前)高さ 76×横 23×奥行 13(cm)
9
文 字
筑前)
從
是 南 筑 前 領
豊前) 従 是 北 豊 前 小 倉 領
筑前 豊前
場 所
備 考
サイズ
筑前)高さ 73×横 23×奥行 21(cm)
豊前)高さ 89×横 21×奥行 13(cm)
10
文 字
筑前)
從
是 南 筑 前
以下不明
豊前) 従 是 北 豊 前 小 倉 領
筑前 豊前
場 所
境目観音堂向かい。
備 考
サイズ
筑前)高さ 67×横 31×奥行 25(cm)
豊前)高さ 84×横 20×奥行 14(cm)
11
文 字
筑前)
從
是
南西
筑 前 領
豊前) 従 是
北東
豊 前 小 倉 領
筑前 豊前
筑前 豊前
場 所
境目観音堂横。
備 考
筑前國續風土記拾遺には「元禄13年に、彦山(英彦山)往還(
bT
と
bU
の間の道でしょう)の北にある観音堂のある
場所の国堺を争ったが、終いには争いの地を等分に分ち」とされており、その時に「観音堂は小石原村域となったが、
事前に観音堂は下落合村に移すとの約束があったので、堂を下落合域に移した」とされています。
サイズ
筑前)高さ 68×横 23×奥行 23(cm)
豊前)高さ 78×横 22×奥行 22(cm)
12
文 字
筑前)
從
是 西 筑 前 領
豊前) 従 是 東 豊 前 小
以下不明
豊前 筑前
筑前 豊前
場 所
備 考
サイズ
筑前)高さ 56×横 29×奥行 15(cm)
豊前)高さ 57×横 30×奥行 23(cm)
13
文 字
筑前)
從
是 西 筑 前 領
豊前) 従 是 東 豊 前 小 倉 領
筑前 豊前
筑前 豊前
場 所
備 考
筑前石の横面には、石を加工した時に穿った矢跡が見えます。
豊前石bQ
の矢跡に比べるとそれぞれが3倍以上の
大きさがあります。一般的に城壁などでは、矢跡が大きいほど時代が古い(江戸時代初期には土木技術が飛躍的に
進化した)と言われますが、ここはどちらも元禄15年に建てられたとされており、単に豊前側に比べて筑前の石の方
が、より大きく加工しようとしたからでしょう。
サイズ
筑前)高さ 62×横 24×奥行 17(cm)
豊前)高さ 70×横 23×奥行 27(cm)
14
文 字
筑前)
從
是
以下不明
豊前) 従 是 東 豊 前 小 倉
以下不明
筑前 豊前
場 所
備 考
背中合わせに建っているのに、豊前側はほぼ文字が読めるのに対して、筑前側はほとんど埋まってしまっています。
自然にそうなったとは考えづらく、いずれかの時点で人の手が加わっている可能性があります。
サイズ
筑前)高さ 23×横 27×奥行 30(cm)
豊前)高さ 67×横 24×奥行 20(cm)
15
文 字
筑前)
從
是
以下不明
豊前) 従 是
以下不明
筑前 豊前
筑前 豊前
場 所
国道500号線長谷峠より北に入ったところです。
備 考
bP5は筑前・豊前ともに埋まってしまっており、従是しか見えません。筑前側が「從」・豊前側が「従」で統一されてい
るのは、まさにこの状態になることを見越してだろうと考えています。
サイズ
筑前)高さ 35×横 25×奥行 27(cm)
豊前)高さ 29×横 20×奥行 25(cm)
長谷
(ながたに)
峠
bP〜15は長谷峠の北側に、bP6〜28は長谷峠の南側になります。
bP6
はこの南側小山のピークにありますが、長谷峠南側斜
面は歩いて登れないくらいの急登になっています。国道500号線を通したとき、もしくはその後に道路拡張した時に切り通したのだと思
われますが、bP5と
bP6
は長谷峠を挟んで若干離れており、bP5と
bP6
の間で谷となる場所(ちょうど国道500号線上あたり)に一
対の国境石が建てられていたとしてもおかしくはありません。
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