豊後の境石

 
 豊後は

 杵築<32,000石>
 日出<25,000石>
 森<12,500石>
 府内<21,000石>
 臼杵<50,000石>
 佐伯<20,000石>
 岡<70,000石>

 の小藩林立の上、

 日田を中心する公領(179ヶ村・69,000石)が点在していたり、
 肥後領(直入・大分・海部に63ヶ村・2万石)は加藤家が慶長6(1601)年より、
 島原領(豊前・豊後合わせて99ヶ村・27,600石)は寛文9(1669)年に松平(深溝)家が島原入封以降、
 延岡領(大分・国東・速見に83ヶ村・20,000石)は正徳2(1712)年に牧野家が延岡入封以降 
 
 の各飛び地があり領境が入り組んでいる環境にありました。その割には残っている領境石が少なく、本来はもっとあったのでは?と思ってしまいます。

 


日出領境石


 日出藩木下家はその名の通り、北の政所ねねの兄の三男を藩祖とする25,000石(当初30,000石から分知)の藩です。東は豊前中津領・豊後杵築領と西は豊前森領久留島家と境を接していました。

 

魚見桜そば
文 字
従 是 東  日 出 領 


 
  
   魚見桜                                魚見桜から見る別府湾
場 所
日出町豊岡 魚見桜がある旧庄屋宅の庭。元々の設置場所は不明。
備 考
魚見桜は推定樹齢400年超の山桜の古木です。今でも彼岸の頃にはどの桜の木よりも早く花を付けるそうなのですが、私の仕事というものはいつもそんなもので、何を間違ったが秋の彼岸にここを訪れてしまいました。

坂の多いこの辺りの細い裏路地を歩いていると、長崎に迷い込んだような気分になります。
(そういえば長崎の佐賀深堀領の領境石のすぐそばにも魚見岳<砲台跡>という地名があります。)

2015/05/26画像追加・追記します
2014年のゴールデンウィークに、旅行で別府に行った際に少し寄り道をして再訪しましたが、前回訪問時には木に立てかけられていた領境石が、立派に建てられていました。
サイズ゙
高さ 207×横 19×奥行 19(cm)

保育園前
文 字
従 是 西 日 出 領 
現在の表) (個人名)墓
  
 
現在の表 (個人名の部分は画像処理をしています)          西(左)森領 東(右)日出領  (右の石垣は豊岡小学校) 
場 所
現在は豊岡保育園の前の墓地で第二の人生を過ごしているのですが、この辺りは森領となるそうで、何故この石が森領で墓石となってしまったかは不明だそうです。

元々の設置場所も不明ですが、日出・森の境は本来「東日出領」となるはずですので、L字型に出っ張ったなど特殊な場所かも知れませんね。(下の大片平の境石と同じ杵築領との境に建っていたとも考えられますが、墓標となったのが大正年間で、かなり距離がありますので、?です。)
備 考
現在の豊岡は半域が森領・半域が日出領だったそうです。地元の区長さんにお話を聞かせていただきましたが、多少出たり入ったりはあるものの、大体現在の豊岡小学校の横の道が領境となるそうです。

森領側に領境石を建てた記録はなく、日出側の石を兼用したのだろうとのことです。
サイズ゙
高さ 200×横 19.5×奥行 19.5(cm)

大片平(杵築市)
文 字
従 是 西 日 出 領 
 
場 所
杵築市大片平です。
備 考
ここの字名は「境木」と言う、まさにそのままの地名です。現在この石が建っている境木公民館は、どうも元々お宮だったような造りで、文化9年の銘がある馬頭観音なども祀られていますが、その馬頭観音の願主は「肥前島原南目北有馬郡」の方となっていました。

私の持っている史料では郡名としての「北有馬郡」は確認できないのですが、現在の北有馬町も確かに南目(水無川の南)です。島原も飛び地だらけで私はよくわからないのですが、ここは日出領と肥前島原領の飛び地との境だったのかも知れません。雨が降る休日の午前中に訪れたため付近に人影が無く、地元の方のお話を伺うことが出来ませんでした。残念です。

この石に関しては、上の豊岡の領境石2基を見に行き、地元の方にお話を聞かせていただいた時に「実はもう1基日出領境石があるらしいが豊岡ではないのでわからない。」という情報をいただき、日出町の教育委員会文化財担当の方にお尋ねしたところ調べてくださり、わざわざ現地まで確認に行ってくださりました。

私のホームページは地元の方の情報と市町村の教育委員会や歴史資料館等のご担当者のご協力・ご指導で成り立っています。感謝です。
サイズ゙
高さ 185×横 18×奥行 18(cm)


臼杵領境石

 大分市史によると、臼杵領(稲葉家50,000石)は、佐伯領境 1基・肥後領境 2基・公領境 4基・延岡領境 3基の計10基の「境木」を建てたそうですが、現在は2基の領境石が残っているだけです。

 佐伯・肥後・延岡領側が領境石を建てた記録はないそうです。この辺りは各藩の飛び地ばかりで書いている私もわけがわからなくなります。それだけ豊かな穀倉地帯だったということなのでしょう。

 

 公料光吉村境川端 ※
文 字
従 此 川 中 西 臼 杵 領 
 
 
場 所
七瀬川を挟んで宗方側が臼杵領・光吉側が公領となりますが、現在は国道210号線上の少し光吉側に建っています。
備 考
「此」の字を使い「川中」が境であることを指定した領境石ですが、臼杵領境石10基のうちこの石を含む2基だけがこのタイプで(もう1基も公領境・現在は所在不明)、他の8基(下の粟野村境等)は「是」だったようです。
サイズ゙
高さ 130×横 22.5×奥行 21(cm)
※この2つは境石の名前ではなく「境木」を建てた場所の地名等です。

延岡領粟野村境道筋田端 ※
文 字
従 是 西 臼 杵 領  
 
 
場 所
現在は大分市植田公民館。案内板にあるように本来は十数m西北の場所。
備 考
サイズ゙
高さ 160×横 21.5×奥行 22.5(cm)


佐伯領境石

佐伯市直川
文 字
従 是 東 佐 伯 領 
 
 
場 所
現地の案内板によると、旧庄屋宅の床下から見つかったものだそうです。現在は大分県佐伯市直川体育館前に。
備 考
案内板によると「見明峠(佐伯・岡領境)に建てるべく作られたものの、明治維新を迎えてしまい結局使われなかったのでは」とされています。直川村指定文化財でしたが、佐伯市と合併し現在どのような扱いを受けているかは調べていません。
サイズ゙
高さ 170×横 21×奥行 20(cm)(資料値は高さ 215<全長か?>×横 23.1×奥行 23.1)
(石が2cmも縮むことはありませんから、多分計った位置が私とは異なるのだと思います。)


島原領境石

現高田市立桂陽小学校
文 字
 従 是 東 南   原 領
 
場 所
現在は、豊後高田市桂陽小学校の敷地内にあります。桂陽小学校は島原藩の豊州陣屋があったところ(領域の中心地)とされていますから、ここの近隣に建っていたものではなく、明治以降に移設されたのでしょう。
備 考
左側に穴を2本穿ってありますので、明治以降は旗竿立て台として利用されたのでしょう。
裏面に「世話方」として3名の氏名が刻まれていますが、これは旗竿立て台の設置を世話された方の名前でしょう。
サイズ゙
高さ 180×横 22.5×奥行 22.5(cm)                                  2015/07/20

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