佐賀諫早領の領境石は佐賀本領と一緒にしていましたが、結構数がありますので深堀領と一緒にして別ページを建てました。
諫早の領境石に関しては、諌早市郷土館を訪ねO先生に色々教えていただき、また、「長崎街道雑記」(O先生著)と言う冊子を頂きましたが、この中に領境石について書かれていますので引用させていただきます。
「長崎街道雑記」によりますと、「諫早日記」の弘化3年(1846)年10月29日に「御境方より御私領中傍示石について詳しく調べるよう指示があって調査した」旨記載されているそうです。その結果もちゃんと載っており、7基の領境石があること、またそれぞれの
○縦寸法 (高さ)
○幅 前後寸法 (奥行)
○同 左右寸法 (幅)
○表銘字上寸法 (表の文字の上部にどれだけ空白があるか)
○同 下寸法 (同下にどれだけ空白があるか)
○字筋寸法 (文字部分のサイズ)
○裏銘 (裏・横に書き添えられた郡名等)
○裏銘字上寸法 (裏の文字の上部にどれだけ空白があるか)
○同 下寸法 (同下にどれだけ空白があるか)
○地伏石 (基礎石のサイズ)
○裏字筋寸法 (裏銘の文字サイズ)
が、詳しく書かれ絵もそれぞれ載っています。一部現存する石とサイズ・銘文・形状が違っており、O先生は「現存する石は水害等で流されて建替えられた石であろう」と仰っていました。
ちなみに諌早領は佐賀領のうち家老諌早氏1万石(龍造寺家晴を初代とし2代目より諌早姓を名乗る/簡単に説明していますが家晴が諌早に落ち着き、家老となるには多少曲折があります)の自治領ですが、本藩の領地(14村)もあったようで、永昌には代官所もありました。
江戸時代の記録に残る領内の7基の境石が、多少サイズ・銘が違っているとはいえ、全てが現存しているのは奇跡といえるのかもしれません。
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