佐賀領(諫早・深堀)

☆諌早領  破籠井日野御境石 今村御境石 井樋尾御境石 古賀楠渡瀬御境石地伏石) 日見御境石 唐比村原口御境石/愛津口御境石
☆深堀領  大久保山西麓 大久保山東麓


神代鍋島領の境石は島原半島(島原領・神代鍋島領)のページに移動しました。

旧外海町(現長崎市)の佐賀領(深堀領)と大村領の境は大村領のページにあります。


 佐嘉 諌早領

 佐賀諫早領の領境石は佐賀本領と一緒にしていましたが、結構数がありますので深堀領と一緒にして別ページを建てました。
 
 諫早の領境石に関しては、諌早市郷土館を訪ねO先生に色々教えていただき、また、「長崎街道雑記」(O先生著)と言う冊子を頂きましたが、この中に領境石について書かれていますので引用させていただきます。

 「長崎街道雑記」によりますと、「諫早日記」の弘化3年(1846)年10月29日に「御境方より御私領中傍示石について詳しく調べるよう指示があって調査した」旨記載されているそうです。その結果もちゃんと載っており、7基の領境石があること、またそれぞれの

○縦寸法 (高さ)
○幅 前後寸法 (奥行)
○同 左右寸法 (幅)
○表銘字上寸法 (表の文字の上部にどれだけ空白があるか)
○同 下寸法 (同下にどれだけ空白があるか)
○字筋寸法 (文字部分のサイズ)
○裏銘 (裏・横に書き添えられた郡名等)
○裏銘字上寸法 (裏の文字の上部にどれだけ空白があるか)
○同 下寸法 (同下にどれだけ空白があるか)
○地伏石 (基礎石のサイズ)
○裏字筋寸法 (裏銘の文字サイズ)

 が、詳しく書かれ絵もそれぞれ載っています。一部現存する石とサイズ・銘文・形状が違っており、O先生は「現存する石は水害等で流されて建替えられた石であろう」と仰っていました。

 ちなみに諌早領は佐賀領のうち家老諌早氏1万石(龍造寺家晴を初代とし2代目より諌早姓を名乗る/簡単に説明していますが家晴が諌早に落ち着き、家老となるには多少曲折があります)の自治領ですが、本藩の領地(14村)もあったようで、永昌には代官所もありました。

 江戸時代の記録に残る領内の7基の境石が、多少サイズ・銘が違っているとはいえ、全てが現存しているのは奇跡といえるのかもしれません。



破籠井(わりごい)日野御境石
文 字
従 是 東 佐 嘉 領  
右横<現在の表>遥 拝 所
 
場 所
諫早市(佐賀領)と大村市(大村領)の境、風観岳の山頂。
元々はここより少し下がった硯石という巨石の際にあったようです。

現在は鈴田峠(国道34号)が主要道路ですが、鈴田峠から風観岳に入った山中に、番所跡・駕籠立場の石積が残っており、硯石の横をすり抜ける道が長崎街道の古道だったことがうかがえます。
備 考
諌早日記の記載とサイズが合いません。また、諫早日記には「高来郡破籠井」の裏銘があることになっていますが、この石には裏銘がありません。(「明治廿年・・・」等遥拝所としての裏銘が入っていますので、それを入れる時に消された可能性もありますが)

この事から諌早日記に記載がある石の次代の石と判断できそうです。

佐賀領の領境ではよく見ることが出来るのですが、ここでも、硯石から破籠井日野御境石を経て今村御境石まで
大村領(丸塚)・諌早領(角塚)が30mほどおきに交互に並んでいます。

領境石としての役目が終わった後、遥拝所を示す印として使われたようですが、その役目も今は終えひっそりと山中に佇んでいます。 

この地域を通った時の吉田松陰 西遊日記の記述

サイズ゙
高さ 190×横 25×奥行 25(cm) 基礎石を含む地面からの全長は234cm。

今村御境石
文 字
     東佐嘉領真嵜村
從是              此下江川
     西大村領今村 
  
場 所
現在は諌早市真崎町の今村川沿いに建っています。この石のすぐ近くから破籠井日野御境石にかけて300を越える石塚が建っていたそうで、現在も60基ほどが残っています。
備 考
下部が欠損していますが、諫早日記によると「水尾分境」の文字があったようです。

諌早領内の石のうちこの石だけが、大村領との併記・領境でなく村境石の形をとっている等特殊な銘です。ここより下は川中央が領境になるため、領境石・塚を建てずにこの1基で全てを表すためにこのような表記にしたのでしょう。
サイズ゙
高さ 137×横 26×奥行 25.5(cm)


井樋尾御境石
文 字
表) 是 東 佐 嘉 領 
右)       彼杵郡之内井樋尾
 
 
場 所
西彼杵郡多良見町(2005/03/01より諌早市)井樋尾。案内によると西北に50mほど移設されているようです。
備 考
サイズ゙
高さ 165×横 26×奥行 25(cm)


古賀楠渡瀬御境石
文 字
  是 南 佐 嘉 領
 
場 所
長崎市矢上になるのでしょうか?旧長崎街道沿い役行者神社の隣にあります。
備 考
同じ「佐嘉領」境石ですが、井樋尾日見には郡名郷村名が入っていて、間のこの石には入っていないのが気になります。年代の相違でしょうか?

(2005/10/02)
この石に何故裏銘(郡名・村名)が入っていないかがわかりました。現存するこの石は諫早日記の石と形状が違います。諫早日記の絵では井樋尾日見の石のように頭が尖っていなくてはいけませんが、この石は平たく切ってあります。また、諫早日記では「彼杵郡古賀境」と裏銘が入っていることになっています。

上の風観岳の「破籠井日野御境石」も現存する石は、諫早日記の記載とサイズが違って同じように入っているはずの裏銘が入っていません。

 さらにこの石のすぐ側に諫早日記の記載とサイズがほぼ合う基礎石だけが残っているそうです。

これはこの2つの石が弘化3年(1846)年以降、何らかの事情で建替えられた次代の石であるということでしょう。
サイズ゙
高さ 164.5×横 24.5×奥行 24(cm)

古賀楠渡瀬御境石先代領境石の地伏石
文 字
 なし
 
場 所
古賀楠渡瀬領境石の隣りに
備 考
現在の古賀楠渡瀬御境石(上)は「諌早日記」に書かれている領境石の形状・サイズと異なります。また、現在の領境石には台座(地伏石)がありませんが、諌早日記には領境石が台座の上に座っていることになっています。
現在の石の横に打ち捨てられているこの石が諌早日記に書かれている先代の石の地伏石と思われます。

諌早日記にはこの地伏石のサイズは「二尺角々」と書かれていますが、私の素人採寸では↓下のサイズでした。
サイズ゙
高さ 35×横 60×奥行 61(cm)


日見御境石
文 字
表) 是 北 佐 嘉 領  
裏)       彼杵郡之内日見境
 
場 所
長崎市切通という地名になるのでしょうか?市営団地の裏手にありますが、少し移設されているそうです。
備 考
サイズ゙
高さ 136.5×横 24.5×奥行 24.5(cm)


 唐比村原口御境石/愛津口御境石

 諫早日記には島原領(愛野側)との境、唐比地区に上記2基の領境石があると書かれています。現存する2基の領境石は同じ場所にあり、裏銘を読むことが出来ません。また、サイズも諫早日記とは若干違っていてどちらがどちらなのか区別が付きません。
 取りあえず、諫早日記では大きい方が唐比村原口となっていますのでここでもそうしました。

 いつかこの社を建替える時が来れば裏銘を読むことが出来るかもしれませんが、諫早日記とサイズが違うと言うことは、古賀楠渡瀬や破籠井日野と同じように次代の石で、同じように裏銘は無いという可能性もありますね。

北高来郡森山町(2005/03/01より諌早市)と南高来郡愛野町(2005/10/11より雲仙市)の境の山中にも領境塚群が残っているそうです。
 
唐比の天満宮の社の基礎になっています   近くの民家にある島原街道唐比番所跡立札

A
文 字
從 是 西 佐 嘉 領 
  諫早日記の記載によると(高来郡之内唐比) ※Bと入れ替わる可能性また郡・村名がない可能性あり


  
場 所
唐比村原口にあったと思われる領境石ですが、今は(諫早市)森山町 唐比の天満宮の社の基礎石として第2の人生を送っています。
備 考
A・Bほぼ同じ形状ですが、若干のサイズの違いと、Bは頭が尖がっていると言うほどではありませんが、
少し盛り上がっていますが、Aは平たく切ってあります。
サイズ゙
高さ 253.5×横 25×奥行 27(cm)

B
文 字
從 是 西 佐 嘉 領 
  諫早日記の記載によると(諫早唐比村) ※Aと入れ替わる可能性また郡・村名がない可能性あり


 
場 所
愛津口に建っていたと思われる領境石ですが、現在はAと共にあります。
備 考
こちらの頭は少しだけ盛り上がっています。
サイズ゙
高さ 235×横 26×奥行 24.5(cm)


佐嘉 深堀領

 
 現在の長崎市西部は佐賀領のうち家老深堀家(6,000石)の領地です。私は不勉強で深堀家というと元禄13(1700)年の長崎喧嘩騒動のイメージくらいしかありませんでしたが、今回このページを作るに当たって深堀家について少し調べてみた所、承久3(1221)年の承久の乱の恩賞として建長7(1255)年に肥前彼杵荘戸八浦の地頭になったとされています。(恩賞までに30年の間があるのは度々替地があったため)

 この領地は、佐賀鍋島家の家老として拝領したのものではなく(もちろん形としてはそうなるでしょうが)、いわゆる鎌倉以来の自前の領地ですね。
 

旧外海町(現長崎市)の佐賀領(深堀領)と大村領の境は大村領のページにあります。

大久保山西麓
文 字
従 是 南 佐 嘉 領
 
領境石から見た長崎湾(加工画像)
場 所
国道499号小ヶ倉と戸町の境です。
備 考
小ヶ倉は佐賀深堀領(家老深堀氏の自治領)で、領境の戸町は始め大村領からフェートン号事件を経て長崎防衛のために安政5(1858)年公領となっています。

下の東麓の境石との間、大久保山の山中にも塚群があるそうです。
サイズ゙
高さ 127×横 24.5×奥行 計測不能(cm)

大久保山東麓
文 字
従 是 南 佐 嘉 領 
  
場 所
新小ヶ倉(深堀領)と新戸町(大村領→公領)の間です。
備 考
上の西麓もそうですが、街中に何気なく領境石が残っているとうれしくなります。
コンクリートで固められていますが基礎石も残っています。
サイズ゙
高さ 155×横 24.5×奥行 24.5(cm)

旧外海町(現長崎市)の佐賀領(深堀領)と大村領の境は大村領のページにあります。


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