日向国は、
延岡(有馬家53,000石→三浦家23,000石→牧野家80,000石→内藤家27,000石)
の4領に、時代により公領が入ってきます。
島津家は「惟宗忠言」以来、もしくは戦国期に九州を席巻して以来、日向は自分のものと思っていたようですし、
飫肥・伊東家としても鎌倉以来日向は俺のものだという意識があったでしょう。
国絵図作成の折も(国内最大の領主が国絵図を取りまとめるようになっていた)、正保の国絵図作成時は、島津家が日向国の分も単独で取りまとめを命じられますが、元禄の国絵図は島津家と伊東家が共同で取りまとめを命じられます。ところがこれに島津家がクレームをつけ、最終的には元禄の国絵図も島津家が単独で取りまとめます。
国内最大の領地を持つ延岡は大名が中々定着せず、飫肥の伊東家は戦国時代以来薩摩に圧迫され続けた上に、鹿児島・佐土原両島津家に挟まれて、しかも現在の宮崎市内は各藩領地・公領が入り乱れて飛び地だらけでしたので、本来ならもっと実務的な領境石があってもよさそうなのですが・・・
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