日向/薩摩の境石

 
 日向国は、

 延岡(有馬家53,000石→三浦家23,000石→牧野家80,000石→内藤家27,000石)
 高鍋(秋月家30,000→分知27,000石)
 佐土原(島津家30,000→分知27,000石)
 飫肥(伊東家57,000→分知51,000石)

の4領に、時代により公領が入ってきます。


島津家は「惟宗忠言」以来、もしくは戦国期に九州を席巻して以来、日向は自分のものと思っていたようですし、
飫肥・伊東家としても鎌倉以来日向は俺のものだという意識があったでしょう。

国絵図作成の折も(国内最大の領主が国絵図を取りまとめるようになっていた)、正保の国絵図作成時は、島津家が日向国の分も単独で取りまとめを命じられますが、元禄の国絵図は島津家と伊東家が共同で取りまとめを命じられます。ところがこれに島津家がクレームをつけ、最終的には元禄の国絵図も島津家が単独で取りまとめます。

国内最大の領地を持つ延岡は大名が中々定着せず、飫肥の伊東家は戦国時代以来薩摩に圧迫され続けた上に、鹿児島・佐土原両島津家に挟まれて、しかも現在の宮崎市内は各藩領地・公領が入り乱れて飛び地だらけでしたので、本来ならもっと実務的な領境石があってもよさそうなのですが・・・

 

薩摩は次ページ

延岡領領境石

高千穂往還西ヶ河内(高千穂町)
文 字
(上部欠損) 東 南 延(と推測される文字の一部) (下部欠損)
   
場 所
肥後・日向の国境、高千穂往還西ヶ河内村にあったものだとされています。
現在は高千穂町歴史民俗資料館の玄関に。
備 考
実質国境石というべき物ですが「日向國」の文字はありません。

平成16年1月頃偶然地元の方によって発見されたものです。
サイズ゙
高さ 62×横 25×奥行 26(cm) 凝灰岩

古城村(宮崎市)
文 字
三面に)従 是 北  延 岡 領
 
 
場 所
延岡領古城村(宮崎市古城)にあったものとされています。
現在は宮崎市下北方町影清廟に。
備 考
サイズ゙
高さ 180×横 24,5×奥行 24(cm) 


高鍋領領境石

現歴史総合資料館
文 字
三面に)從 是 北 東 高 鍋 領
 
  
場 所
現在は高鍋町歴史総合資料館(高鍋城址内)。
備 考
最下段部(地中部)が2段に切ってあります。他の高鍋領境石はこの部分が地中にあり(三納代は下部欠損)想像するしかありませんが、高鍋領境石は全てこのような形状なのでしょう。

こういう形状であるということは地中深い見えない位置に専用の基礎石があるはずだと思いますが、それについてはよくわかりません。
サイズ゙
上)高さ 96×横 20×奥行 20(cm) 
下)高さ 100×横 20×奥行 20(cm) 
<最下段部(基礎にはめ込むと思われる部分)=高さ 34×横 16×奥行 16(cm)> 花崗岩

幸脇
文 字
三面に)從 是 東 南 高 鍋 領
 
場 所
延岡領境の幸脇(現日向市)に建っていたものです。現在は高鍋城址内歴史総合資料館の裏手に。
備 考
サイズ゙
高さ 160×横 20×奥行 19.5(cm) 花崗岩

鬼付女
文 字
三面に)從 是 北 東 高 鍋 領
  
場 所
佐土原領境の鬼付女(きづくめ・現新富町)に建っていたものです。現在は上の幸脇の石と並んで建っています。
備 考
新富町鬼付女と次の弁指はほぼ現在の国道10号線・JR日豊線を挟んで隣と言った距離です。
サイズ゙
高さ 160×横 19.5×奥行 19.5(cm) 

弁指
文 字
三面に)從 是 北 東(下部欠損)
   
場 所
佐土原領境の弁指(三納代)に建っていたものです。現在は新富町三納代神社に。
備 考
「石が語るふるさと」(石が語るふるさと編集委員会編)によると、下部が欠損しているそうです。ただし高さ160cmとなっていますので現在でも半分は地中にあるのでしょう。

さらに「石が語るふるさと」から引用させていただくと「拾遺本藩実録」には、
領境に当初は松の木を植えていたが、松ではトラブルが多いので貞享2(1685)年頃から境杭に代わった。
元禄6(1693)年に三納代の境杭2本の文字「従是東北(東南)秋月長門守領」が薄くなったので書き直した。
等の記載があるようです。
サイズ゙
高さ 70×横 20×奥行 20(cm) 


飫肥領領境石

現 きよたけ歴史館
文 字
従 是 南 飫 肥 領
  
 
  
場 所
現在はきよたけ歴史館にありますがまだ展示品ではなく、清武町の文化財担当の方にお話を伺ったところ、
展示できるように修復したいとのことでした。
備 考
清武町の文化財担当の方が、民家に保管されていたものをその民家が建て直されているのを目撃し、急遽救出に行き地面に埋まっていたものを間一髪救出し、町に寄贈していただいたものだそうです。

同じ飫肥領境石の宮崎県総合博物所蔵と牛之峠(牛之峠の境石は写真で見ただけですが)の2基は頭が尖っていないのですが、この石は頭が尖っています。文字は3基とも同じ筆跡に見えます。
サイズ゙
上)高さ 180×横 24.5×奥行 24.5(cm) 
上)高さ 117×横 24.5×奥行 24.5(cm) 加工の仕方を見るとほぼ180cmが地上高のようです。

現宮崎市総合博物館
文 字
従 是 北  飫 肥 領
  
  
場 所
現在は宮崎県総合博物館の裏庭に明治時代の距離標等と一緒にあります。
備 考
サイズ゙
高さ 225×横 24×奥行 23.5(cm) 

牛之峠(牛ノ峠)
文 字
 3面に) 従 是 東  飫 肥 領
 
                 左面/正面

 
 右面                                左面
場 所
周辺地図
備 考
飫肥・薩摩両藩による牛之峠の国境紛争は、幕府の裁許を仰ぐことなり宝永3(1675)年飫肥側勝訴となります。

牛の峠山頂からは数百mずれており、この場所を争って激しい駆け引きがあったろうことは想像できますが、上の地図で見てもわかるとおり、そもそもここが峠道のようですので、薩摩が山頂を国境と主張したのも、飫肥がここを国境と主張したのも理解できます。

実質国境石ですが、領境石の形態です。

私は下のまとめでこの石も一面彫りとしていましたが、実際に自分の目で確かめると三面彫りでした。訂正します。
サイズ゙
高さ 220×横 25×奥行 25(cm)


佐土原領領境石

宮崎市臨江亭(現 佐土原城跡内)
文 字
三面に)従 是 南 西  佐 土 原 領 
 
↑正面
 
↑正面/右                              ↑左/正面
場 所
宮崎市松山のホテル臨江亭前に建っていたものですが、臨江亭が立て壊される折、オーナーの方が佐土原町に寄贈され、現在は佐土原城鶴松館の裏・出土文化財管理センターの前に建っています。
備 考
私がこの5月(2006年)に行った時には臨江亭そのものがなくなっており、宮崎県立博物館も宮崎市教育委員会もその行方を知らず、付近で聞き込みをしたところ「一緒に壊したのではないか」と言われ立ち直れないほどのショックを受けて帰ってきたのですが、その後、宮崎市教育委員会が佐土原城に移っていることを調べてくださいました。

佐土原町と宮崎市は現在合併していますが、丁度移転されたのが合併の前後だったため宮崎市側は情報を持っていなかったようです。
サイズ゙
高さ 185×横 22×奥行 22(cm)
※現在はこの高さですが画像を見て分るとおり「領」のすぐ下から長年土に埋もれていた跡があります。この部分18cmを引くと167cmになり下の西都市歴史民俗資料館の佐土原領境石とピタリサイズが合います。

西都市元地原(現 西都市歴史民俗資料館)
文 字
三面に)従 是 東 西 北  佐 土 原 領 

↑正面/右

 
↑正面                               ↑左/正面
場 所
国富町六ツ野原(江戸時代は幕領(御料・天領)との境に建っていました。
備 考
私の古い情報ではまだ六ツ野原に建っていることになっており、散々探し回ったあげく西都市歴史民俗資料館にあることがわかったのですが、当日は歴史民俗資料館が休館日で、今回出直してやっと見ることが出来ました。

「東西北」というのは聞きなれない方角ですが、「亥」(北北西)の方角を表しているのでしょう。
サイズ゙
高さ 166×横 22×奥行 22(cm)               西都市教育委員会許可済


 日向まとめ

 宮崎県ではこの8基の他に、佐土原領境石2基と飫肥領境石(牛之峠)1基が確認されていますが、佐土原領境石は今回2基とも目にすることが出来ませんでした。縁がなかったのでしょう。今秋、旅行で宮崎を再訪する予定ですので「団体行動が取れないわがままな奴」と非難されようとも見てきます。
牛之峠の飫肥領境石は本格的な登山のようですので死ぬまでには必ず見に行きたいと思っています。(2006/11/12佐土原領境石2基も見学しました)

 日向(宮崎)の領境石の最大の特徴は三面彫りでしょう。三領境三面彫りは他地域でもよく目にしますが、建立年月日や郷村名等の裏銘以外で一領三面彫りの手の込んだ領境石は日向以外ではほとんど目にすることはありません。

 宮崎県に現存する11基の領境石のうち、高鍋領(4基)と佐土原領(2基)は全て三面彫りです。日向領は2基のうち1基が三面彫りになっています。飫肥領だけが現存する3基が全て一面彫りとなっています。
 ※訂正します。牛ノ峠は3面彫りです。飫肥領も3基の内の1基のみが3面彫りになっています。(2008/03/03)

 なぜ、日向にだけ他国ではあまりない一領三面彫りが各藩で作られたのでしょう?


 私はこれは「流行」だったと考えます。

 現存する三面彫りの領境石がほぼ日向街道(国道10号線)を中心として建てられています。またどれもそんなには古くはなさそうです。
日向は飛び地だらけで例えば延岡藩も宮崎市内に領地を持っており、人が行き来していたと考えられます。

 まず、どこかの藩が日向街道沿いに三面の領境石を建て、それを目にした他藩の役人が「これは見やすくていいや」と各藩に流行していったと考えますが如何でしょう。

 一方、飫肥藩は牛之峠の領地争いで古くから領境を明示する必要があったため、(現存する領境石の建立時期は別にして)一貫したスタイルを持っていたということなのでしょうか。


 また、日向国には国境石が現存しません。高千穂町の延岡領境石(肥後国境)と牛之峠の飫肥領境石(薩摩国境)はそれぞれ国境となりますが、そのどちらにも「日向國」の文字はありません。国主大名がいなかった日向では、「国」という考え方自体が希薄だったのかもしれません。と言うよりも国境石を建てるべき立場の人がいなかったということなのでしょうか。同じように豊後でも私は国境石を見ていません。 



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