四国の境石

 
 取材から公開までに1年以上の月日が経ちましたが、人生最大の10連休といわれた、令和元年のゴールデンウィークに四国を訪問しました。この時は四国最大の領境石の宝庫である愛媛県を周りました。

 愛媛県は「えひめの記憶」という、愛媛について書かれた書籍のデータベースを公開しており、たとえば「従是」のキーワードで、境石のデータは一括して引っぱることが出来ます。また、四国にはお遍路文化があり、道標や古遍路道を研究・さらに保護しようと活動している方々が多くいらっしゃいます。それら先人の研究で、旧街道を含めて街道沿いの境石は、ほぼ出尽くしているのでしょう。私は今回、「えひめの記憶」と先人の研究を後追いをさせていただきました。

 まず、伊予(愛媛)には多くの領境石が建てられています。これは小領(藩)林立(最終的に支藩を含めると8領)の上に、領地を村単位でモザイクに切られていたために、必然的に領境が多く発生してるからでしょう。えひめの記憶から「瀬戸内の島々の生活文化」に
載っている「伊予八藩分布図(幕末)」を見ると驚くほどの複雑さです。

 宇和島領に挟まれた吉田領や、大洲領に点在する新谷領などは、本藩・支藩関係であればこそのややこしさはあるのでしょうが、それぞれの領境が複雑に入り組むのは仕方がないのでしょうが、東予の今治・西条・小松に公領(松山預り)がモザイクに絡みあった状況は、見ているだけで気が遠くなりそうなので、藩政運営には苦労したことでしょう。(ちなみに大洲領内に新谷領が点在するのは、新谷藩成立時に、大洲領内の各郷村から一村を「抽選」したからのようです。)

 九州長崎の島原半島でこのような村単位のモザイク領地を見ましたが、あれはキリシタン弾圧(相互監視)という目的があります。一方伊予は、外様である土佐 山内家の監視という重大な任務があったはずで、そうであればこそ紀州 徳川家の連枝(西条藩)や家康の甥(伊予松山藩・今治藩)を置いていたのでしょうが、それにしてはなぜ伊予の地でこのようなモザイク領地が起こったのか、納得できる説明をまだ見つけ出せていません。

 その中でも西条領は19本の領境石を建てた記録(西條誌/天保13<1842>年)があり、そのうちの11基が何らかの形で現存しているようで(私は2基を未発見)、現存率が58%というのは驚異的な数字です。東予の各領は、西条以外もポツポツ領境石を建てています。領境石が一基しか現存しない小松領もありますが、あえて一基だけを作ったのならば、領境争いがあった等の明確な理由が必要ですから、本来はもっと作られたのかもしれません。

 私が見て回った感想では、街道沿いに建てられたものが大部分で、領境争いがあったわけではなく、(司法・行政の管轄を示す)象徴的な意味合いが大きいように感じます。江戸時代は民が気軽に他国・他領に旅をできる環境ではありませんでしたが、伊勢・善行寺参りや遍路など宗教的行事に関しては手形も出やすかったでしょうから、他国・他領に比べて街道上の通行人も多く、領地をモザイクに切られていればなおさら、司法・行政境を明確にしておく必要があったのかもしれません。(例えば行き倒れ人があった時に、倒れているのはどちらの領地なのかでもめたというのは割と聞く話です。)

 当然山間部でも各領境や国境は発生するのですが、山間部の領(国)境には建てられなかったのか、単に未発見なのか、現在のデータでは判断がつきません。 四国の各県(国)境は、峻厳ともいえる峰々で仕切られており、あえて国境石を建てる必要はなかったのかもしれませんが、伊予と土佐の間、松尾峠に両国の国境石がある以上、他にはないとは言いきることが出来ません。

 令和元年の旅では讃岐と阿波には行けておらず、どちらにも多少の境石はあるようですので、今年(令和2年)のG.Wに再訪出来たらと考えていましたが、人生最大の10連休の翌年が、まさか非常事態宣言が出され行動を制限されるようなことになるとは。
  


伊予国
国境石
領境石
郡境石

 松尾峠(兼宇和島領境)
  貞享
  天保
  
  藩境石

☆伊予松山領
  山路

☆今治領
  馬越
  国分

☆西条領
  氷見
  土居町小林(これより西
  土居町小林(これより東
  上野田
  寒川
  上分

☆小松領
  上鳥山(飯岡)

☆大洲領
  南黒田(下吾川)

☆宇和島領
  鳥坂峠


☆伊予松山領
  久米郡/温泉郡(和泉北)
  和気郡/風早郡(粟井坂)
  風早郡/野間郡(窓坂峠)
駅(町)境石

☆宇和島領
  卯之町(これより東
  卯之町(これより北
  卯之町(これより西
土佐国
国境石

 松尾峠





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伊予国
伊予国
土佐国
土佐国