久米村及び今保村(岡山市北区今保/備前国津高郡)と、平野村を経て延友村の間を、国境の境目川が北から南へと流れています。
現地の案内板によると、元禄15(1702)年に備前国久米村・今保村と備中国延友村の間に国境争いが起き、宝永5(1708)に大内田村(備中国都宇郡/岡山市北区大内田)の大庄屋の仲裁で和解が成立し、13ヶ所計26本の木杭が打たれ、その後、享保年間(1716〜1736年)に石製に建て替えられとされています。
この国境石は、そのうちの備前久米村の基石となるべく、鴨方往来上・境目川の東岸に、現在は自国を向いて建っています。往時から自国を向けて建てたのか、興味深いところです。(相手国に向けて建ち、国境を主張する場合と、自国に向けて建ち、自国民に対して「領地はここまで」との告知の態を取る場合があります。)

その基石となる国境石から「同右」(従是東備前国久米村分)と彫られた傍石一基を挟み、「同右今保村分」と彫られた傍石があったそうですが、「同右今保村分」は、久米・今保の間に区画整理が行われていない限り、 ユアサ工機(久米6)と淵本重工業(今保76)の間に建っていたはずです。
一方、備中国延友村側の基石は、「備中国賀夜郡延友村分」と彫られていたようですが、その東にも「従是西延友村分」と彫られた傍石が一基見えます。それに対する備前側傍石●も建っています。現在の延友と今保の町丁境は、境目川を境としほぼ南北にまっすぐ流れ、足守川に落ちます。この辺り若干の区画整理があっているのか、詳しいことはわかりません。備中の▽も、図上では確かに13基数えられます。
久米・今保・延友は、現在は工業・もしくは準工業地域のようで工場が建ち並び、延友村側に描かれた荒神や明神宮、備前側に描かれた道(久米と今保の間に道があるはずですが、上記の通り工場が隣接しています)を、地図上から見つけることは出来ませんでした。
「前」の下で折れ。明治以降に意識的に破却された跡でしょう。
また、庭瀬駅そばの妙見菩薩・平野消防会館の敷地(岡山市北区平野)に「従是西備中國甲南邨」と彫られた石が建てられています。

甲南村は明治8(1875)年に平野村・平野村沖分・東花尻村・西花尻村・延友村が合併し発足し、明治14(1881)年には分割し、平野・東西花尻・延友の各村に戻ったとなっています。よって、明治8年から明治14年の間に、延友と旧備前国との境である境目川沿いに建てられたもののようです。
明治以降に「備中國」銘で作られていますので、私の分類ではモニュメントとなりますが、明治8年にもなり、わざわざ備中国名義で作ったのは、新政府の指示に従い境目川沿いの備中国境石(兼村境石)を破却したものの、境目川にはやはり村境標が必要だったということでしょうか。
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