この石の表は「備後国」・「芸州領」のどちらになるのでしょう。現在は道路に面して「芸州領」を表にして建っています。私は必ずしも文字が書かれていない面が裏だとは思っておらず、「文字が書かれていない面を裏とすると」というまどろっこしい表記をしますが、文字が書かれていない面を裏とすると、「芸州領」が表になり領境石に国境を併記した形になります。
しかし、江戸時代の外様の大名家が、国境の地に境の石標を建てるのに、国名よりも領名を優先させるというのは納得がいく話ではありません。(ただし、国持ではない中小<城主格以下>大名家の場合は、国境にも領名のみが記された、実質国境石となる領境石を建てています。)
この石が往時にどちらを表にして建っていたかにかかわらず、正面を「備後国」と考えると裏銘が「三次郡横谷村」となり、瀬戸の八幡神社にある先代石と同じ形(先代踏襲)になります。
また、広島浅野家の国境石のうち、この赤名峠(三次市)と二本松峠(庄原市)の2基は、「備後国」と「芸州領」を併記した3面彫りで、栗谷峠口(安芸高田市)・三坂峠・亀谷峠(共に北広島町)の3基は、表に「安芸国」・裏面に「抱」を示す「村」を記した二面彫りです。
安芸は全域が広島領だったので、国名と裏に村だけでよく、備後には他領(福山領・中津領・一部に公領)があったため、安芸国境石と同じ形式で、表に国名・「抱」を示す村名を裏に彫り、さらに横銘で備後国内の芸州領域である(浅野家に行政権がある)ことを示したのでしょう。
では、実際にこの石がどちらを表(道路)に向けて建っていたのかですが、もし「備後国」が道路に面していたとするならば、現在の道路西端に東を向いてではなく、逆側の道路東端に西を向いて建たないと、「芸州領」が石見国側を向きません。(自領に「芸州領」をアピールしても仕方がありません。)
私の常識からいえば、備後国を道路に面して建たせる方が正しいような気がするのですが、街道を石見側から歩いて来る人に対して国境をアピールする目的ならば、正面を出雲国側に向けて建っていてもおかしくはないのかもしれません。
同じく三面彫りの「二本松峠の備後国境石」は、明治以降横倒し放置からの移設ですが、現在は庄原市の徳了寺に正面を「芸州領」として建っています。この石が徳了寺に移設されたのが明治30年代前半から中盤に掛けてのことですので、あるいはこの石が実際に二本松峠に建っていた時の記憶に基づいて、現在の向きになっているのかもしれません。
「芸州領」を表にして徳了寺に建つ二本松峠国境石(左は先代石)
また、同じ広島浅野家が建てた「安芸国境石」は全て近接移設ですので、往時と同じ向きとは限りませんが、三坂峠と亀谷峠が道路に面して正面を向けて、栗谷峠口は石見国に正面を向けて建っているというバラバラな状態です。

道路に面して建つ亀谷峠 石見国を向いて建つ栗谷峠先
この国境石が赤名峠がから八幡神社に移設されたのが明治も20年になってのことのようですので、赤名峠に建ってい
た時の姿の、文書・絵図・写真等が残っている可能性もあると思い少し探してみたのですが、私の捜した範囲では見つかりませんでした。
実際にいずれの向きに建っていたとしても、正面は「備後国」ととらえるべきだと考えています。
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